第63話 嘘つきの夜が、来るまでに - 1
「お布団の用意が出来ましたよー⋯⋯って、坊っちゃん?」
「⋯⋯」
「坊っちゃん?坊っちゃーん?」
「⋯⋯」
「坊っちゃん!!」
「っ!!あ、えと⋯⋯何だっけ?」
小雪に両頬を包み込むようにされ、慌てて返事を返す。
正直何も聞こえておらず、小雪が何を言っていたのか。
「もう、ぼーっとして!具合でも悪いんですか?」
「そんな事無いよ。ちょっと考え事してただけ」
小雪に心配される事は何も無い。
ただ、ずっと同じ事を考え続けているだけで。
考えないようにしても無意識がそれを掴んで離さないのか。
同じ考えが脳内を占領している。
靄がかかったように答えが出ない、堂々巡りな考え。
言うべきなのに言う気の無い、単純でありながら難解な感情。
「ちゃんと待てますから大丈夫ですよ。それに、可愛い簪が貰えただけで小雪は幸せです」
小雪の言葉に、胸が少し痛む。
自分でやっておきながら都合の良い事を言っている。
それが分かっていて尚。
凪様に吊るし上げられそうになって以来、僕の方から簪に関して一度も口にしてない。
小雪もほとんど口にしなくなり、僕が気にしないようにと簪も何処かに仕舞ってしまった。
自分の感情よりも僕に気を遣う小雪を見て、心の中が罪悪感で一杯になる。
2年の歳月を過ごした中京国王都・臨祠。
何度か雅楽と一緒に見て回った宮中の市。
そこでは女官達が簪を見ながら素敵な出会いに憧れ、雅楽が目を輝かせていた。
だから、簪を贈る事の意味も十分に知っている。
実際、お祖父様相手に話をする覚悟もあった。
けれど、話した所で許されるかどうかは全く別の話であって。
天宮家はお世辞にも順風満帆とは言えない。
世代が一つ飛ぶ以上、お祖父様が引退すれば――。
おそらく、お祖父様はその事を考えている。
幼い僕が当主として家を守っていけるのか。
外臣の家柄であり、しかも当主が幼いとなれば他の有力家からは見向きもされない。
そうなれば天宮家を利用しようとする連中が群がり集まり、果てには乗っ取りを画策する輩も。
それを防ぐ手段は一つだけ。
どこかの有力家から新婦を迎え、その生家に後ろ盾となってもらう。
お祖父様が見込んでいるのは、おそらく白峰家。
白峰家の当主は凪様であり、凪様はお祖母様の弟子。
剣聖の系譜に連なる一人であり、個人としても家としても有する力は絶大。
その凪様が僕の後ろ盾となれば天宮家は白峰家の与党となり、滅多な事では手が出せなくなる。
次卿の家柄である天宮家が白峰家の与党に。
およそ常識では考えられない采配ではあるものの所詮、天宮家は外臣の家柄。
お父様が生きていればまた違った展望もあったかもしれない。
けれど、お祖父様は今を一代限りの栄華として割り切ったのだろう。
白峰家と結びつきを強めるのであれば、白峰家中から新婦を迎えるべき。
親族も与党も多い白峰家であれば、適齢の娘一人用意するくらい訳無い。
⋯⋯小雪では条件に合わない。
小雪は確かに凪様と姉妹弟子であり、剣聖の系譜その末席を占める。
けれど、その生家は白峰家ではなく袖下家。
袖下家は白峰家と昵懇の間柄とはいえ、決してその配下にある訳では無い。
独立した家であり、独自の勢力を有している。
どこかで袖下家と白峰家が手切れとなれば。
小雪を新婦に迎えれば、天宮家は袖下家を助けなければならない。
それはつまり、白峰家を向こうに回して戦うという事。
王族から毛嫌いされている天宮家。
白峰家までも敵に回しては、立ち行かない事は火を見るより明らか。
あの時、尾張でお祖父様の重臣は、相手として考えれば小雪は悪くないと言った。
それにお祖父様は同意しなかった。
それはつまり、お祖父様にとって小雪は次期当主の新婦として格不足という事で。
――だから、策を弄した。
先に既成事実を作り、凪様が知る所とし。
そうやって根回しと地固めをした上で、お祖父様との話し合いに臨む。
形としては、今の状況は思い描いた通り。
けれど、理想とした物からは程遠い。
本当はもっと周到に根回しするつもりだったのに、凪様に先に乗り込まれてしまった。
そして、その結果、小雪を傷つけ。
「坊っちゃんの人生ですから。小雪は側に居られるだけで幸せですよ。⋯⋯他の誰かと結ばれても、ずっと小雪を側に置いてくださいね」
小雪の何気ない一言が、胸を抉る鋭利な刃物と化す。
狙い澄まして言っているのではないか、そう思える程に鋭い痛みが走り抜ける。
小賢しくも策を弄した事で小雪を傷つけ、余計な勘繰りをさせて。
その上、気まで遣わせて⋯⋯。
普段と変わらない小雪の優しさが、今だけは鬱陶しくて仕方が無い。
いっその事、声高に非難してくれた方が。
以前のように怒ってくれても良い。
そうすれば――。
いつも救われてきたその優しさ。
それが、今は痛みを撒き散らす凶器でしかない。
「⋯⋯寝ようか」
「はい!」
それぞれの布団に入り、明かりが消され暗くなった室内。
窓から差し込む月明かりだけが、仄かに周囲を照らしている。
窓を背にする僕の表情は、きっと小雪からは見え辛いだろう。
でも、その逆である僕からは小雪が今どこを見ているのか、はっきりと分かった。
柔らかな月明かりが小雪の茶髪を暗闇から浮き立たせ、その大きな瞳が光を受けて輝いている。
空気中を舞う細かな埃が月光を反射し、その中で輝く小雪の双眸は暗闇に浮かぶ宝石のよう。
それは吸い込まれるように美しく、恐ろしく感じるほど神秘的。
夜の静かな暗闇の中で、ふっと微笑んだ小雪の表情が強烈に網膜へと焼き付く。
「⋯⋯おやすみ、寝るね」
胸の内の痛み、そして全てを見抜かれているという恐怖から逃げ出すように。
徐ろに背を向け、小雪を視界から外す。
「坊っちゃん」
不甲斐無さと罪悪感に押し潰されそうになっていると、不意に背中が温もりに包まれる。
小雪が僕の布団に移ってきて抱き締めてくれたのだと、すぐに分かった。
「本当に気にしないでください。そんな事で坊っちゃんと疎遠になる方が小雪は悲しいんですから」
背中を向けた事で、その表情は分からない。
回された小雪の白い腕だけが視界に映っている。
「明日も晴れますかね?晴れたら何しましょうか?」
「何って⋯⋯」
「また一緒に修練しても良いですし、もう少しおでかけしても良いかもしれませんね」
「⋯⋯」
「明日も良い一日になるといいですね」
耳元で囁くように話す小雪の声が、とても大きく感じられる。
視覚が遮断されている事で他の感覚が鋭敏になっているのか、それはまるで世界が囁くよう。
その一言一言が僕を責め立てるようであり、そのどれもに罪悪感が増していく。
もう⋯⋯やめて欲しい。
僕がいけない事、しくじった事は分かっているから。
だからもう、今は⋯⋯やめてくれ。
「そう、だね」
体を丸め、震える手を強く握り、絞り出したかのような声で返事をする。
そして、そのまま目を閉じて言い知れない感情に耐える。
⋯⋯そうしながら、どれ程経っただろうか。
きっと、感じた程には経っていない。
「小雪?」
気が付けば、小雪から聞こえる寝息。
寝ちゃった⋯⋯か。
「⋯⋯おやすみ、小雪」
窓から差し込む月明かりが急速に失われていく。
月は雲へと隠れ、強い輝きを放つ星々だけが窓の外に広がっている。
「ごめんね⋯⋯」
きっと、この呟きは誰にも聞こえない。
僕が思うよりも大きく響いたとしても、それを聞く存在は居ない。
安っぽい言葉で罪悪感を吐き出して、言うべき事を何一つ言わず。
きっと、今までで初めてだろう。
初めて僕は――。
意図的に、小雪を傷つける嘘をついた。




