第62話 近衛戦線、そして幕は下ろされる
「⋯⋯良将よな」
ぽつりと口から出た言葉。
それは対決する大京軍、それを率いる将へ向けた最大の讃辞。
たった5千程度の兵で敵軍2万を防ぐ。
それも相対するのは中京国近衛軍。
普通であれば絶望で気が触れても可笑しくない。
にも関わらず、5千を率いる敵将は怯む事も無ければ無意味に自分を大きく見せる事もしなかった。
こちらが夜の内に陣を払い、半ば奇襲に近い形で始まった戦いを見れば良く分かる。
どんな時でも沈着冷静に、その役割の重大さを理解するが故に偵諜を怠らず。
結果、大京軍5千は想定していた戦場予定地では無い場所で開戦しながらも堅牢な陣形を維持している。
一糸乱れぬ動きで迫り来る近衛兵を邀撃している。
勝てないと分かっていながら兵が怯まず、敵本陣も後退しない。
全ては将の統率力が優れている証拠。
大京国は数こそ不足しているものの、個別に見れば優秀な将が多い。
その武名は国外に轟かずとも、相対する敵将は分かっている側の人間なのだろう。
追い詰められ、絶体絶命の状況下で何を成すのか。
どこからも助けを得られず、己の判断が全体を左右する局面で、何を考えどう動くのか。
苦境に立った時こそ、その人間の全てが露呈する。
平時に現を抜かし、民と同じように過ごしては将など務まらない。
晴天に暗雲を想ってこそ、初めて将に足るのだ。
そのためには普段からの考え方や行動が物を言う。
全ては積み重ねであり、最後に味方してくれるのは己の中で積み重ねた物の厚みだけ。
相対する敵将が漫然と日々を過ごして来た訳ではない事。
そして、恐怖に抗うだけの強さを持っていた事が粘りを生み――。
事態を大きく動かした。
先に姿を現した2千の騎馬。
そしてそれらを餌とし、食らい付こうとした近衛軍を逆に食い潰そうと急進してきた大京軍本隊。
悠雲は今の生温い将とは違う。
自軍の一部を餌にして大局を動かそうとする、非情さと決断力を持ち合わせている。
それが分かっていて付き合ってやる謂れは無い。
増援到着まで近衛軍を阻んだ敵将に讃辞だけ贈り、先陣の乱戦を解いて一度後退。
互いに距離を取り、仕切り直しといった所か。
相対する大京軍は増援により5千から1万数千まで膨れ上がった。
それでも未だ兵力ではこちらが勝り、戦った所で敗ける筈も無い。
だが、それと傷が浅くて済むかどうかは別であって。
今大京軍と面と向かって戦えば、こちらにも少なくない被害が出る。
そうなれば尾張を中心とした東海地方西部の占領は事実上不可能に。
それに、これはあくまでも始まりに過ぎない。
初戦で近衛兵のような優秀な兵を大量に失う訳にはいかないだろう。
悠雲に、大都督に、名も知らぬ良将。
ずらりと並んだ敵将の顔ぶれ、その豪華さたる事よ。
先程の良将への讃辞では無いが、並んだ誰もが分かっている側の人間。
およそ何の変哲も無い、分かっていて当たり前ながら理解する人間が少ない事実を、当然のように理解している者達。
人間は、満足したその瞬間に歩く事を止める。
今に満足した人間には過去の苦渋も、未来という展望も、今以外の全てが視界から消え去ってしまう。
そうして現状維持を志向するようになり、気付いた時に残るは痩せ衰えた自分だけ。
周囲が努力して発展すれば、現状維持は相対的に減少傾向へ転ずるという事実。
止まった思考ではそれすら理解出来ず、未来という闇へ努力を投擲する行為を軽視し。
やがて不都合な現実から逃れるように堕落を貪り出す。
そんな事をしていては凋落する事など、幼子ですら分かるというのに。
常に一歩先を目指してこそ現状維持が成るという事実を、大の大人がいつの間にか忘れてしまう。
満足は、不足の始まりを告げるという。
努力と豊かさは対を為し、努力の対価に手にした満足。
努力を放棄する行為は当然対価である満足も放棄するのと同義。
その果てに残るのは、不満と不足だけだろう。
その事が分かっている面子がこれだけ揃いながら、あの時何故――。
歴史とは、僅かな衝撃で傾く弥次郎兵衛。
右に行くか、左に行くかで全てが決まる。
悔やんだ所で元に戻る事が無いとしても、他国の事ながら2年前の華国との戦争はつくづく悔やまれる。
良将の多い大京国内にあって、どうして伯承なぞを総大将としたのか。
それこそ、どうして最初から悠星を総大将としなかったのか。
国家の命運を左右する選択を誤った結果、大京国は伯承の専横を許して大量の将兵を失った。
既に手遅れとなってから悠星を派遣し、次代を担うべき巨大な将器をみすみす死に至らしめた。
その全てが、将も兵も、今に至る大京国を支えた優秀な人材。
大京国という船は一瞬で船底に穴が空き、更にはその浸水も食い止めきれず。
内部で権力闘争が起き、優秀な人材はますます以て舷側へ追いやられ。
大京国は一人の馬鹿が空けた穴により、自ら転落への道を歩み始めた。
そして、一度歪んだ構造は次々に軋轢を齎し、悠星の代わりに次代を担う悠月の首を絞める事になるだろう。
もっとも大器が成るには尋常では足りず、それこそが――。
「⋯⋯致し方あるまい」
先程から大京軍の前に立つ2つの馬影。
その片方は悠雲だろう。
悠雲は戦争を戦争だけに限定するほど狭量では無い。
戦争と外交は表裏を為す1枚の札であり、であれば。
「我に用か?」
「⋯⋯兄上におかれましては御健在のご様子で」
呪力の中でも至高とされる神の呪力、あの程度の距離を一瞬で潰すなど造作も無い。
それを知る悠雲であればこそ、驚きもしない⋯⋯か。
「其許の顔には見覚えがある。何もせぬ故、下がるが良い」
微動だにしない悠雲を庇うように前に出た男。
あの時、悠雲に付き従った者の一人だろう。
その顔には主と共に長年、他国の風雪を凌いできたという自信と誇りがある。
これ程の者が陪臣とは⋯⋯如何にも惜しい。
「我が国に戻って来い。さすれば将として取り立てよう」
「御冗談を。我が主は玄悠王陛下では無く、殿にございます」
「兄上、何故このような事を?」
戯れに言ってみたが案の定、断わられたか。
それにしても、我が弟ながら相変わらず真っ直ぐな目をしているものだ。
「我が送った書簡を覚えているか?」
「尾張の時の――」
「そうだ。我は忠告したはず。悠月は陣中に置くべきだったな」
「⋯⋯」
無表情を貫くもぴくりと片眉が動いた。
その癖も変わってないらしい。
大きな動揺が見られないという事は、ある程度分かっていたという事だろう。
だが、意に染まない⋯⋯といった所か。
「悠月は既に⋯⋯」
「元より宿命に抱かれて生まれて来たような子だ。逃れられる筈もあるまい」
「⋯⋯」
「我とて静の願いは叶えてやりたかった。だが、あやつの懐に抱かれてしまっては最早打てる手が無い」
可愛い弟に嫁いでくれた静、我とてその願いを叶えてやりたい。
我を相手に一敗すらしなかった、真の強者である静が残した最後の願いに応えてやりたい。
が、それすらも矮小な人には過分な願いとして宿命は嘲笑いながら通り過ぎていった。
悠月が望んだのかは分からずとも、結果としては受け入れた事になる。
そうなれば最早我らにそれを引っ繰り返す事は出来ない。
それに、この件において真に責められるべきは他でもない――。
「我らと悠星で終わらせるべきだったのだ。あの時であれば我もお前も今より若く、静も居た。伯鳳の末裔として多少事情を知る雷公殿の手を借りる事も出来ただろう。あれ程の役者が揃っていながら、それを嫌ったのはお前だ。悠雲、お前の決断が悠月一人に全てを背負わせた。⋯⋯その事を忘れるな」
悠月が呪力を受け入れた事で運命の歯車は再び廻り始めた。
悠月をして世界が動き出したと言っていい。
その流れは誰にも止められない。
悠星と静は去り、雷公殿も衰え、そして――今の我や悠雲ではもうその流れに付いていけないだろう。
「我らに出来る事は多くない。せめて、悠月の為に贄になってやれる位だ」
可能性がありながら手を伸ばさなかった。
その可能性によって身を引き裂かれる程の痛みを負う事を嫌った。
その代償が悠月というのならば。
あの幼子に全てを集め、そして終わらせるというのならば。
「時間は限られている。憎まれ役は我が受け持つ。お前は、悠月を愛してやれ」
「⋯⋯」
「最も親しく、最も信頼する肉親から向けられる憎悪。それを⋯⋯我もお前も良く知っているだろう。悠月にはそれを味合わせない、それがせめてもの贖罪だ。悠月が子供でいられる内に、誰でもないお前が愛してやれ」
「兄上⋯⋯」
「今回は退く。また会おう」
中京国と大京国、その国家間の戦争は悠月にとっての口火でしか無い。
そして、切られた口火が消える事は無い。
戦争ほど努力を、決意を、そして覚悟を強要するものは無いだろう。
研鑽には命が懸かった状況こそが最も望ましい、それもまた偽らざる事実。
であれば、嫌でもまた会う事になる。
遠からず、近いうちに、必ず戦場で。
⋯⋯その時には間違いなく誰かが死ぬだろう。
それも、悠月の目の前で――。




