第58話 東海戦線 - 2
巨大な満月が傾きを強め、天空の星々が眠りにつこうとする頃――。
地上では俄にざわめきが起こり、それは粛々と波及していく。
鎧の擦れる音。
馬がその蹄を大地へ打ち付ける音。
僅かばかりの、人の声。
陽はまだ昇っていない。
未明以前、世界が最も濃い暗闇に覆われるなか、大京兵はその活動を開始した。
昨日総大将である悠雲から通達されたように、星が消える前の出撃に向け準備を開始したのだ。
本陣・左翼・右翼に分かれた3陣全てで異様なまでに高まっていく緊張感。
攻防の要となる左右両翼ではそれが特に顕著となり、胃が揉まれるような緊張・恐怖に将兵の顔つきが変わる。
総大将である悠雲が口にした、今日反乱軍を破るという言葉。
それはつまり今日が決戦の日であり、全大京兵が死力を尽くして尚、戦う事を予感した。
決戦となれば敵味方問わず夥しい人数が死傷する事になる。
今隣にいる者、共に戦場を踏破してきた歴戦の戦友、そして自分自身も。
戦闘が已むその時まで生きているとは限らない。
愛する者達から遠く離れたこの地で己の屍を夜露に曝す。
それは決して本望とは言えない。
けれど、そこから逃げ出そうと思う大京兵は一人も居なかった。
全ての大京兵が恐怖に勝る決意を秘め、その胸に己が覚悟を宿し。
振り仰いだ本陣に設置された旗竿、その中の一際高い1本にするすると旗が昇る。
仄かな明かりに照らし出されたそれは――出陣の合図。
本陣から、総大将である悠雲からの号令。
「行くぞ!!」
高い隠密性を必要とするこの決戦において、その言葉を声高に述べる者は一人として居ない。
全ての大京兵が愛する者達を描くと共に、強く心の内で発した言葉。
先陣を切る右翼が地を蹴り、本陣が続き、そして。
全ての大京兵が成すべき事へ向け、それだけを強く念じながら――夜闇へと発した。
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粛々と進む全軍。
先頭を進む右翼の後ろにぴたりと付いている筈だが、本陣からはその姿を捉える事は出来ない。
それ程に濃い闇の中。
鎧を紐で縛り、馬には枚を含ませ、音を立てる事無く大京軍は進んでいく。
その向かう先、対峙する反乱軍3万。
向こうもこちらと同様に本陣・左翼・右翼に分かれ、鶴が翼を広げたような陣形を敷いている。
つまりは、鶴翼の陣。
鶴翼の陣は左右に大きく広げた翼、その強靭な羽撃きで敵を殲滅する事を目的とする陣。
のこのこと両翼内に侵入してきた敵を包囲して激しく叩く。
攻撃型の陣でありながら待ちの陣でもある。
続々と帰ってくる偵騎の報告では、その陣容に変化は見られず、備えも薄いという。
兵力で勝る反乱軍としては焦る必要は無いのだろう。
近衛軍が動き出した今、おそらくその主眼は次の戦いへと向いている。
反乱軍としては近衛軍に大京軍を破らせ、その疲弊した隙を衝いて近衛軍を。
3軍の中で最大兵力を有する一方、国土を持たない反乱軍としては濡れ手に粟を狙いたい。
そんなところだろう。
だが、そうはさせない。
左右両翼から引きも切らず送られてくる伝令から窺い知れる、その士気の高さは十分。
大京兵は決して弱兵では無い。
それどころか、個人で見れば桁外れな技量を有している者が多くいる。
蒼纏一つで建国して以来、揉まれに揉まれてきた。
常に戦い続けて国を大きくしてきた彼らの武技が鈍い筈が無く、全体の質は極めて高い。
そんな彼らが敗ける時というのは唯一、暴力的なまでの物量戦にあった時だけ。
大敗を喫したあの時、華国が動員した兵力は30万を超えた。
それに比べれば目前の反乱軍はたかだか3万。
自軍に倍すると言っても、その程度の兵力であれば十分に破れる。
決着を見るのは日が中天を過ぎた頃。
勝つのは当然――我々だ。
そう思っていると前方で突如として喊声が上がる。
大地が揺れる程のそれは、まるで世界が上げた咆哮。
喊声と入り混じって聞こえてきた怒号や金属音。
それは先頭を征く右翼が接敵し、戦闘が開始された証明。
右翼が上げる巨大な喊声を聞きながら、本陣の進路を僅かに左へ。
戦闘が奏でる音を右に聞きながら、更に全速前進。
偵騎の目に誤りが無ければ、右翼が接敵したのは敵左翼。
そこから左に進路を取った現状、このまま進めば敵両翼内に侵入する事になる。
本陣前を進んでいた右翼を切り離し、残るは本陣5千と左翼4千。
本陣後方を進んでいる筈の左翼が遅れる事無く付いて来ているか。
右翼は既に役目を果たし、次に役目を受けるのは左翼。
左翼の存在が欠けて作戦は成功しない。
見えずともその存在を確認しようと振り向くと同時に、俄に空が明るくなる。
遥か彼方の山頂から顔を出し、赫灼と燃えるその熱で空を焼き焦がし始めた太陽。
その光が届き、幕が上がったように明るくなった地上。
ここに来てようやく自軍と敵軍の動きがはっきりと見えるようになる。
遅れる事無く本陣後方にぴったりと付いて進む左翼。
火を吹く激しさで敵左翼を抉り続ける右翼。
予想だにしなかったであろう攻撃を受け、敵左翼の混乱は大。
ようやく得た視界には見渡す限り、自軍の優勢が移っている。
だが、こちらが戦況を把握したように敵もまた。
片翼が羽を毟り取られて尚、反乱軍の巨大な鶴は飛び立つ事を止めない。
敵右翼が急速に戦列を整え、一斉に動き出そうとしている。
その動きに対して後方から高々と法螺貝が吹き鳴らされ、左翼が本陣後方を離れていく。
本陣から指示を送る前に左翼の将は作戦通り、敵右翼を攻撃目標に定めたのだ。
単独での突撃となった本陣は、両翼の働きを信じて尚も前へ。
右翼・本陣・左翼が一列となって成した単縦陣による突撃。
ここまでは作戦通りに戦況は推移している。
敵左翼の意識を突撃した右翼に引き付けながら、敵右翼には左翼をぶつける。
そうして敵両翼の力が内側へ向くのを阻止しながら敵の巨大な鶴翼の中で、一回り小ぶりな自軍の鶴が両翼を広げる形を作った。
あとは広げた両翼が敵両翼を受け止めている内に、残った本陣の突撃で敵本陣を潰すだけ。
見たところ敵本陣の混乱は極限であり、前面に対しての備えが乱れに乱れている。
ぶ厚い両翼に守られている安心感が邪魔をして、急速に変化する現状に対応しきれていない。
既に全軍が敵翼内に収まっている以上、ここからは時間との勝負。
両翼を繋ぎ止める敵の鶴首、それを一撃で捻じ切る。
それしか道は無く、出来ない時には一人でも多くの敵兵を道連れに、戦場の露として消えるのみ。
「⋯⋯突き破れっ!!!!」
大きく息を吸い込み放った、怒号にも近い命令。
それに応えるは本陣兵士5千が上げる、地鳴りのような喊声。
奮起した本陣兵士、その最前列が気勢を上げて突撃していく。
それはまるで高速旋回する錐のよう。
一点に注がれた大京兵の突破力が、みるみるうちに敵本陣に穴を空けていく。
流れる敵兵の血で地面が赤く染まる。
斃れた敵兵の死体で地面が見えなくなる。
火を吹く猛攻を前に、敵本陣が――壊滅する。




