第49話 蒼纏の夜明け
未明――。
薄っすら東の空が白み、地上は夜の暗さに覆われている頃。
吹く風は穏やかで、草木は静かにその身を委ねて揺れている。
地上では物の影すら朧気で、朝と夜の境を揺蕩う世界を包むのは神秘的なまでの静謐さ。
人の営みが始まるより遥か昔から繰り返されてきただろう光景。
何百年と続く自然の神秘が、今日という一日の始まりを見守っている。
そして、今日がどんな日になったとしても。
何が起こったとしても、世界は明日へ向かっていく。
全てを無条件に包み込む優しさと、終わりへと向かう儚さが満たす世界。
そんな世界にあって人々は己が信念を胸に抱き、今日もまた一歩を踏み出す。
王都・蒼纏。
東方の大国と謳われた大京国の王都にして、国家の中心地。
この日、夥しい人数がその郊外に集結していた。
集結したその数、8千弱――。
それは蒼纏を守備する上軍の全兵力。
集結した兵士は黒の鎧を着込み、その手に武器を握り締めている。
8千を超える兵士が集結しているにも関わらず辺り一帯は静寂に包まれ、鎧が擦れる音や話す声、呼吸音すら聞こえない。
彼らが微動だにせず見つめる先はただ1点、その視線の先には観閲台に立つ一人の女性。
彼女こそが上軍の将にして、大京国における上卿が一人。
大地が未だ夜の暗さに覆われる中、その美しい銀髪だけが地上で光を放ち、濃紺の髪留めが風に揺れている。
普段の柔らかさを微塵も感じさせない佇まい。
鋭さを内に秘め、剣姫と化した凪。
鋭い眼光を魅せる彼女の。
凪の言葉を、上軍兵士はただただ黙って待ち続ける。
「勇猛なる上軍兵士よ!」
やがて彼らが待ち侘びた瞬間が訪れる。
凪の声は静寂が支配する世界で鮮烈に響き渡り、その声と姿はこの場に集結する全兵士の耳目へと焼き付く。
「今尚、東海地方は賊徒の凶刃に晒されている!」
「「⋯⋯」」
「国軍は北方にて華国との激戦を制し、我らが同胞4千は既に悠雲様の元で戦っている。我らもこれより出陣し、東海地方における戦線の一端を担う事となる!」
凪の言葉――それは此処に集った全ての人間が知っている事実。
揺れる国情にあって次なる戦端が開かれ、更には虎狼の如き中京国に背を窺われている。
明日は――その恐怖を前に多くの仲間が血を流し、今この瞬間も必死に戦っている。
その事実が、蒼纏という安全な場所で日々を過ごしていた上軍兵士の心に熱を宿す。
「心せよ!我らが敗れる時、それは国が卑劣な賊徒に敗れる時である。そなたらの愛する父母妻子が賊徒の凶刃に、その毒牙にかかってもよいのか!」
「「⋯⋯」」
「老いた父母は虐げられ、愛する妻は凌辱され、未来ある子らは奴隷となる。男は使い捨ての兵となり、女は賊徒共の慰み物となる。それでもよいのか!」
「「⋯⋯」」
「我らの戦いがこの国の未来を左右する事、最愛の者達の未来を左右する事を、しかとその胸に刻め!!――皆の者、準備は良いか!!」
「「⋯⋯!」」
「覚悟は良いか!!」
「「⋯⋯!!」」
凪の檄は全兵士へと届き、その顔つきが変わっていく。
口元は引き締まり、その目には強い覚悟が表れる。
士気は高まり、一人一人から立ち昇る熱気が場を支配していく。
全ての兵士の心が、一つの方向へと揃う。
「えい!」
「「おお!」」
「えぇい!!」
「「おおおぉぉ!!」」
「えぇぇぇい!!!!」
「「おおぉぉぉおおおお!!!!」」
士気の爆発。
限界まで高められた士気は巨大な喊声となり、激しく空気を振動させる。
大地は揺れ、草木は戦き、人々の決意と覚悟が世界へと放たれる。
今日という一日が、始まる。
「――っ出陣!!!」
凪の号令を合図に動き出した8千の兵士。
伝令が各所へ向けて一斉に走り出し、本陣兵士の持つ旗竿が地の暗さを払って林立する。
天を衝いた旗竿。
そこには眩しい程に朝日が当たり、彼らの象徴を鮮やかに描き出す。
今日がどんな日になったとしても。
何が起こったとしても、世界は明日へ向かっていく。
それでも、その胸に決意と覚悟を抱いて。
大京国上軍8千、出陣――。
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「よろしく頼みますね、光雪殿」
「お任せ下さい。凪様も十分にお気をつけを」
目の前に立つ光雪殿は私より年上の40歳手前の年齢。
武人然とした大きな体格を持ち、黒に近い茶髪を短く切り揃え精悍そのもの。
光雪殿も卿として廟堂に列座する一人。
私が上軍の将、光雪殿が上軍の佐を拝命しており、上軍は白峰家と袖下家によって運用されている。
「本当は私が出陣出来れば」
「伯雷様も悠雲様も居られない。今の蒼纏を守れるのは凪様だけです」
事態の重大さから言えば上軍の将である私が出陣するべき。
それを佐将である光雪殿に託した背景には何があるのか。
先日、5千を率いて蒼纏に帰還した伯承。
その後、彼がすぐに王域諸侯に招かれたのは調べがついている。
そして、王室を軽んじる南部諸侯と何らかの密会を持ったよう。
腐っても伯承は王族の頂点、染雪家の人間。
伯雷様も、どうして伯承を一人で先に。
帰還した5千の指揮権が私に移っても気は抜けない。
「陛下は既に?」
「えぇ、今の蒼纏には居ない方が陛下の為でしょう」
王室の威光が衰え、数年。
王室の空洞化を食い止めている伯雷様と先生が居ない蒼纏では何が起こるか分からない。
王子は既に王族共の傀儡となっており、南部諸侯と王族は裏で繋がっている。
王女はこちらで確保したとはいえ、次代の王位継承権を持つ存在を互いに握る現状。
今の陛下とて決して暗愚では無い。
けれども、いや⋯⋯だからこそ王族や南部諸侯には目障りなのだろう。
先代・先々代と英邁極まる国王が続き、抑圧された彼らの暗い感情。
今それが噴き出せば王室は――。
「本当なら上軍全てを出すのは避けたかったのですけど」
「致し方ありません。中京国が断交すると言うのであれば悠雲様が危険です」
5千の帰還と前後するようにしてやって来た中京国の使者。
伏黒あやめと言えば、小雪ちゃんと同じく10代ながらに各国に名が知られる英才。
それほどの人物を使者として寄越して来たのだから、此方もそれなりの覚悟はあった。
けれども、まさか搦手も何も無しにいきなり断交を突き付けてくるとは。
北陸には中京軍5万が展開し、東海地方の国境線付近には近衛軍2万。
断交となればいつ攻め込んで来てもおかしくない。
近衛軍には玄悠王が入ったとの情報もあり、東海地方では既に先生が反乱勢力と干戈を交えている。
その背を討たれる事になれば1万8千の兵力が消え、東海地方は落ちる。
そればかりか、下手をすれば国土西部全てが落ちる可能性も。
そうなれば反乱勢力が王都圏にまで侵入して来ないとも限らない。
ここは危険を冒してでも上軍全てを出し、反乱勢力に圧力をかける必要がある。
新たに8千もの兵力が出現すれば、先生の元に殺到している反乱軍の戦意を揺らす事が出来るはず。
大都督が備える岐阜北部に回せる兵力は――無い。
対峙する中京軍5万、その全てが動く事は無い。
領土は維持が必要であり、今頃は新潟南部の占領行政に多くの兵を割いているはず。
5万のうち動けるのは最大に見積もって2万程度。
2万相手なら5千でも上手くすれば防げる。
出せる兵力と打てる手が無い以上、向こうは今の5千で凌いでもらう他無い。
「凪様、このような時に1つ宜しいでしょうか?」
「⋯⋯何でしょう?」
「娘の事です。今の此奴を戦場に連れて行くわけには」
光雪殿の言葉に視線をずらし、その横に控える小雪ちゃんと目線を合わせる。
愛刀である白狼を携え、軍装に身を包んだ私の可愛い妹弟子。
軍装と言っても鎧は着込まず、黒の上下に天宮家の紋が入った黒の羽織を羽織っているだけ。
戦姫となった小雪ちゃんから醸し出される凛々しさと、惚れ惚れする美しさ。
成人前から静様に従って数々の戦場を踏んできた小雪ちゃんであれば、きっと戦果を上げてくれる。
だとしても、今のこの子は。
「行かなくてもいいのよ?」
「⋯⋯⋯⋯坊っちゃんをお願いします」
「泣きそうじゃないの」
「そんな事は⋯⋯」
覚悟が揺れている。
強く拳を握り締め決意を口にしていても、小雪ちゃんの決意は伝わって来ない。
伝わってくるのは決意も覚悟も全てを押し流してしまいそうな程の、悠月くんを心配する気持ちだけ。
今にも泣き出しそうな、涙が零れ落ちそうな表情に弱さが出てしまっている。
「⋯⋯駄目だな。小雪、お前は連れて行けない」
「父様、小雪は大丈――」
「今のお前では足手纏いだ」
厳しい物言いだが間違っていない。
私が将でも今の小雪ちゃんは連れて行けない。
戦力として欲しくても、戦意の定まらない人間は全体の士気を下げかねない。
それが戦姫ともなれば、尚の事。
一人の迷いが全体の迷いに繋がれば、もはや戦い処では無くなる。
それに今となっては無理に小雪ちゃんを出陣させる理由も無い。
武名を轟かせ強兵と名高い天宮家の兵。
彼らは中軍所属で大半が伯雷様の元に在るが、この出陣にあたり500人という人数を揃えてくれた。
彼らが居れば戦力的な穴は十分に埋まる。
だからこそ、小雪ちゃんを出す必要が無い。
「そもそもお前の主は悠月殿だろう。それを置いて何故此処にいる?」
「それは⋯⋯」
「くだらん事で言い争って飛び出す。主の顔に泥を塗るとは」
「光雪殿、さすがにそれは。匿ったのは私です」
光雪殿の言い分が正しくとも流石にこれは止めに入らざるを得ない。
これは非常に繊細な問題で、主従という枠組みだけで判断出来ない。
この辺りは武人である光雪殿には分からないのだろう。
正確に言えば男性には分かり辛い問題――だろうか。
「いえ、迷惑をかけたのは娘の方です。小雪、お前は帰れ」
「父様、小雪は戦えます!」
「お前が戦えるかは問題では無い。お前にはお前の役目があると言っているのだ」
⋯⋯なんだ、そういう事。
親の心、子知らず――とでも言うのか。
娘を早々に家から出しても。
光雪殿が親として小雪ちゃんを心配する気持ちは変わらない。
「⋯⋯わざわざ謝りに来た。悠月殿はお前を大切に思ってくれている」
「!そう、ですか⋯⋯」
俯きがちに嬉しげな表情を見せる小雪ちゃん。
互いに相手の事をどれだけ大切に思っているのか、人に言われて気付く。
そんな甘酸っぱい青臭さに、若さ特有の未熟さに思わず笑ってしまいそうになる。
さすがに場が場なだけに堪えたものの、これ以上の話は不要だろう。
「抜かりなく頼むわね」
「お任せください。では」
遠くで本陣召集の声がかかっている。
まもなく先陣に続いて本陣が出るのだろう。
立ち去る光雪殿の背中を見ながら、隣に立つ重臣へ最後の念押しを。
そうして自家の兵力を託す重臣を送り出し、小雪ちゃんに声をかける。
「さぁ、見送りましょう」
「⋯⋯」
「光雪殿には光雪殿の、私には私の、小雪ちゃんには小雪ちゃんの戦いがあるはずよ」
弾かれたように此方を見る小雪ちゃん。
笑いながらその瞳を覗き込む。
「大丈夫。悠月くんが目を覚ました時、側にいて欲しいのは小雪ちゃんよ」
「⋯⋯はい」
頬を赤らめながら瞳を潤ませる小雪ちゃんを見て、本当に可愛いと思ってしまう。
泣き出しそうなのは変わらないが、今はしっかりとした意志を感じる。
先程まで必死に戦姫としての矜持を示していたのに、今では場違いな程の妖艶さを放つ。
一人を想うだけでここまで可愛く、美しくなれるのも若さ故⋯⋯か。
法螺貝の音が響き、辺りが騒然となる。
それは本陣が進軍を開始する合図であり、一歩また一歩と目前の兵が進軍を開始する。
光雪殿を中心とした騎馬も、備えた多くの旗をはためかせ遠退く。
心の中で武運を祈り、小雪ちゃんと共にその後姿を見送る。
やがて本陣に引き続き後軍も発ち、全ての兵士が東海地方へ向けて旅立った。
騒然としていた空気が去り、世界は何事もなかったかのような静寂を取り戻す。
「行きましょうか」
小雪ちゃんを促して私達も歩を進める。
男達は男達の戦いの途についた。
どんな結果になっても、彼らは自身に恥じない戦いをしてくるだろう。
であれば、それを送り出した私もまた私に恥じない戦いをしなければ。
無論、それは横を歩く小雪ちゃんも同じ。
さあ――私達もまた、女の戦いを始めるとしよう。




