第41話 轟く雷鳴は、夜を泳ぎて朝を待つ
「では、こちらの内容で問題なければ」
淡々と話を続ける目の前の男。
こちらの返事が無い事に男は訝しげな表情を見せるが、そこに恐れは見られない。
(⋯⋯これが華国の国老と呼ばれる男か)
年齢は自分よりも遥かに若く、おそらく悠雲と変わらない。
となれば、60歳前後だろう。
その若さで超大国というべき華国において、国老と呼ばれている事実。
この男の能力がずば抜けている事はこうして対峙せずとも、余程の馬鹿でない限りすぐに分かるだろう。
「どうしました、雷公殿?」
「交渉の場で相手国の代表に敬称とは、随分と余裕があるようだ」
「当然でしょう。御身は噂に名高い、伯雷殿なのですから」
この男は分かっている。
こちらが提示された条件を飲むしかない事を――。
だからこそ、こちらを持ち上げてみたり、時には渋ってみせる。
場を支配しているという自信が揺さぶり方に表れている。
「⋯⋯儂は国王ではない。もちろん、其の許もだ。今ここで全ては決められぬ」
飲むしか無いとしても、あっさりと認めるわけにはいかない。
提示された条件が悪くない――というよりも華国側が大幅に譲歩している事実。
そして、その裏に見え隠れする華国首脳部の意図。
それらが不安材料となっている。
「まずは互いに持ち帰り、批准を経て締結へと至るのが宜しいでしょう。⋯⋯では、大枠はこれで合意という事で」
「待たれよ。其の許が言う新潟の割譲だが、それは本当に実現可能なのか?中京軍が縦断している現状において、どのように割譲するつもりだ?」
一瞬、男の顔が曇った。
すぐに表情を取り繕いはしたが、それでも華国首脳部が何を怖れているのか、それが浮き彫りとなった。
1週間程前――。
睨み合う中京軍5万と華軍7万は、ついに開戦へと踏み切った。
兵力で勝り、地の利も自軍にある。
その自覚が現場の将兵に緩みを齎したのか。
優位に立つ華軍は、僅か1日で壊滅した。
総兵力が10万を超す会戦というのは口火が切られた後、数日の攻防を経て勝敗が見えてくるもの。
にも関わらず、中京軍は紙を裂く容易さで華軍を撃破し、そのままの勢いで新潟に雪崩込んだ。
華国側の反撃に対しても野を行くが如き速さを保ち、今や新潟南部を掌中に収めている。
初めて対峙した中京軍――その恐るべき強さを前に、華国首脳部は深刻な危機を感じたに違いない。
渋りに渋っていた戦後賠償を福島南部割譲から一転、福島全域及び新潟北部の割譲に変えてきたのが良い証拠だろう。
掌を返したような破格の条件の裏に何があるのか。
考え無しに美味い話に乗るようでは、その者は国政に携わる資格は無い。
「ご心配なく。北ノ宮将軍には戦後賠償で新潟北部を大京国に割譲する旨、既にお伝えしています」
「っ!その条件を飲むとは言っていない!」
「では、どうなさいますか?戦争を継続されますか?」
「何だと?」
「我が国では貴国に対して過激な発言をする輩もおります。私はその者達と違い、貴国に親しみを覚えているのです。⋯⋯伯雷殿であれば、この意味がお分かりになるでしょう?」
「⋯⋯其の許が今後も我が国にとって助けとなる、その証拠は何処にある?」
「信用とは目に見えないからこそ、尊いのです。そして、目に見えない物を信じる心が人と人の繋がりを強固にする。私はそう信じております」
こやつ――。
丁寧な物言いであっても、内容は脅しと言っていい。
華国にとっては福島全域と新潟北部を割譲するのでは無い。
中京国と国境を接したくない気持ちが強いのだろう。
つまりは新潟北部と福島全域を割譲する。
これが飲めなければ戦後賠償はおろか、戦争の継続も辞さない――という事か。
⋯⋯分かっていた事だ。
東海地方に火が点いた我が国に、これ以上戦争を継続する力は無い。
その情報は当然、目の前に座るこの男も知っているだろう。
だからこそ、慇懃無礼にここまで強気の交渉に出て来ているのだ。
「今回の会談が互いに実りある物となりそうで安堵致しました。では、私共はこれにて」
話は終わったという、この態度。
これ以上ごねても結果は変わらないだろう。
そればかりか、下手を打つと本当に戦争を再開しなければならなくなる。
内心で舌打ちをしつつも、此処はこちらも立たざるを得ない。
互いに作り物の笑顔を貼り付けながら、にこやかに握手を交わす。
これから始まるであろう各国の熾烈な鬩ぎ合いと、それを生き抜く方策を考えながら――。
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「叔父上!どうなりましたか!?」
「5千を率い、すぐに蒼纏へ向かえ」
「は?」
「さっさと行かぬか!!よいか、3日の後に蒼纏に帰還できなかった場合、そなたの首と胴は離れ離れになると思え!」
陣所に戻るなり駆け寄ってきた小煩い甥に、今すぐ蒼纏へ発つよう厳命する。
補佐として側近の何名かを同行させるため、伯承と言えども失敗る事は無いだろう。
新潟北部の割譲――。
これを知って玄悠王が黙っている筈が無い。
中京軍は新潟全域を取るつもりで出て来ているのだ。
その利を掠め取られたと思えば、必ず何らかの形で報復に出てくる。
もっとも、今回の一件で我が国と中京国が互いに争う状況を作り出す。
それこそが漁夫の利を得たい華国の狙いであり、華国としては上手く行けば座して待つだけで莫大な利益が転がり込んでくる。
中京国と争うのならば、すぐにでも兵を戻さなければならない。
まずは5千だけでも帰還すれば、手薄な国内で蒼纏を守る凪の上軍が動ける。
こちらが手を打つのが早いか、それとも中京国が揺さぶりをかけてくるのが早いか。
ここからは国内に留まる悠雲と凪の連携如何にかかっている。
老齢である自分がどこまでその混沌とした激流に耐え、食らいついていけるか。
それを不安に思ったとしても、体が動く限り、脳が思考をし続けられる限り、戦い抜く責任が自分にはある。
国家の命運を決める賽を他の誰でも無い、己の手で投じたのだ。
逃げ出す事など許されず、有るのは果たすべき責任のみ。
夜明けが遥かに遠くとも、未熟で幼い次の世代を想えば、一歩でもそれに近づかなければならない。
たとえ自分は真夜中の暗闇に斃れようとも、次の世代は赫灼と燃え盛る朝日の元へ辿り着けるよう、這ってでも進まなければならない。
国内から遠く離れたここからでは、どんなに叫んでも声は届かないだろう。
それでも――
「⋯⋯頼んだぞ、悠雲」