第36話 闇を纏った瞳が、憂いの影を帯びる頃
「ふぅ、何とかなったようだね」
手に持った【天涯の書】。
その頁に記された事の顛末を眺め、ほっと安堵の息を吐く。
ぱたん――と開いていた頁を閉じれば、【天涯の書】から溢れ出すのは光の粒子。
暫くその様を眺めていれば、やがてその全てが光の粒子へと変わり、手元から消失する。
長く伸びた自慢の白髪を手で払い、その毛先が日差しを反射して輝く。
愛用の黒のロングドレスが皺にならないよう注意しながら、パラソルの下に置かれた椅子へ――。
眼下に見えるのは青々と生い茂った一面の草原。
見渡す限り続く草原の果てには、それを取り囲むように広がる森林地帯。
見晴らしが良い小高い丘の上では、下と比べて日差しも強まるのか。
鬱陶しく感じる程の日差しをパラソルで避け、ほぅ⋯⋯と息を吐く。
眼下の草原と同じく、丘の表面も短く刈り揃えられた草が覆い尽くしている事で、地面からの照り返しが無い事がせめてもの救いだろう。
良く晴れた穏やかな昼下がりを演じ続ける世界を眺めながら、紅茶の入ったカップへ口をつけ――
――世界の歴史が新たに刻まれてから、およそ800年。
あの惨劇からは既に1,000年以上が経っている。
あの業魔が、いつ何時再び現れてもおかしくない。
いや⋯⋯もしかすると、既に入り込まれている可能性も。
世界の管理はボクの手元を離れて今はあの売女の手中にあり、確かめる術は無い。
ボクが売女と嫌うあの女の意中は分からずとも、一度は業魔に下った奴だ。
尾張で悠月くんを襲った銀閣だって【刻】持ちだった。
【刻】は死を司る売女の権能の一つであり、そういった面からも信用には値しないだろう。
「少し急いだ方が良いかな」
本当ならもう少し悠月くんの動向を見るつもりだった。
けれど、彼の周囲が彼に注目するのであれば急いだ方が賢明だろう。
窮地に追い込まれた事で図らずとも、その内に秘められた力は発芽し、扱う才の片鱗も見られた。
最後には無意識に近くとも明確な形で力を行使していたから、押し上げてあげるのにそこまで時間はかからない筈。
戦争なんてものは玄悠と悠雲にやらせておけばいい。
翔鶴姫と瑞鶴姫を宿し、美しくも儚げで、哀しい愛を見せてくれた伯凰と伯鳳の双子の姉弟。
本来ならばその末裔を先にしたかったけれど、場合によっては悠雲が先でも良い。
悠雲だけは必ず欲しい⋯⋯だから、玄悠にやらせるとしよう。
「となると、やっぱり問題なのは⋯⋯」
玄悠は【天涯の書】を通して動かせるし、悠雲はそれに合わせて動いてくる。
でも、今の段階では直接悠月くんを動かす手段が無い。
可能性としては『水見の術式』を保有する⋯⋯凪だったか。
凪の術式を介して、悠月くんがボクの元に来るように誘導するしか無い。
自分で考え、自分で判断し、自分で行動する。
孤立無援の元で自立し続けるのは勇気が要る行為であり、他人に甘えきった人間が急にそれを求められれば、行き着く先は間違えた判断。
尾張の一件で気付いたとしても、すぐに変われる程人間は賢く無い。
依然として、悠月くんは思考の大部分を小雪に頼っている。
そして、幸いな事に小雪と凪は姉妹弟子。
小雪に上手く動いてもらえれば、姉弟子である凪も動くだろう。
「⋯⋯許して欲しい、とは言わないよ」
悠月くんの事だから、声に出さないだけで境遇を呪う気持ちもあるだろう。
周りの同年代と見比べて、惨めな感情を抱いた事もあっただろう。
何より僅か11歳で何の為に生まれてきたのか、その意識に苛まれた事は数え切れないはず。
けれども天宮の系譜に連なる以上、その宿命からは逃れられない。
大人達相手に精一杯背伸びをして、無様に立ち回る事を余儀なくされたとしても。
その小さな胸の内が張り裂けそうな痛みで溢れ、耐え切れなくなったとしても。
天宮家に生まれた以上、悠月くんが逃げ出す事は許されない。
もし⋯⋯もし仮に悠月くんが他家に生まれていたとしたら、どうだったろうか。
きっと悠月くんは優しいから、穏やかで苦痛の少ない人生を歩んだ事だろう。
側に居てくれる大切な小雪の愛情を受け、幸福な幼少期を過ごせた事だろう。
そして小雪と慎ましくも幸せな人生を歩んで、次の世代へと未来を託す。
きっとそんな平凡で何処にでもありふれた、でも最も幸せな人生を歩んだに違いない。
「長く生きると情に脆くなるというけれど、どうやら本当だったようだね」
何の意味も無い、空虚な空想。
もし仮に――そんな言葉、現実を事実として認められない愚者が吐く言葉に過ぎない。
悠月くんは天宮家に生まれた。
そして、それは現世に生を受ける前から決められていた事⋯⋯それが事実の全てだ。
恨むなら、恨んでもらって構わない。
全てを知って、全てを終えて、その時にまだその感情を抱いていたのならば、その時には――
「君がボクを裁くというのなら、ボクはそれを甘んじて受け入れよう」
1,000年以上の時を経て、その先で願いが叶うのなら。
だから――
「君の手で、いつかボクを消しておくれ」




