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第34話 その頃の颯



 宿の朝は早い。

 それは宿において働く従業員の話。



 彼らは夜が明けぬうちから目覚め、身支度を整え、今日の仕事を確認する。

 どの部屋に誰が泊まっているのか、出立は何時頃の予定か。



 朝食や昼食、道中の軽食は必要なのか等、確認する事項は多岐にわたる。

 そのため修練場の片隅で少女を認めても、それに構う暇は無い。



 ここは政府高官御用達の高級宿。

 相手にする政府高官達は、旅先でも規律ある生活を守っている。



 そのため、宿の従業員には及ばずとも彼らの朝も早い。

 彼らは時間の空費をひどく嫌い、諸事における無駄を嫌う。



 そんな政府高官を相手に、僅かでも瑕疵あればどうなるか。

 昇った朝陽は今日という長い戦場における、開戦の合図といって良かった。



 そんな慌ただしい朝にあって、悠然と寝坊をかます者など居る筈も無い。

 ⋯⋯たった一人の少年を除いては、の話だが。



********************



「ふわぁ、おはよー⋯⋯」



 部屋に運びこまれた朝食の良い匂いに颯がふらふらと起きてくる。

 朝食の匂いが彼の食欲を連打したのだ。



 とはいえ、颯は眠りから完全に目覚めていない。

 半分寝たまま、ぼーっとした状態で食卓につく。



 髪は寝癖で跳ね放題、碌に顔も洗っていない。

 焦点は定まっておらず、時折頭が大きく後ろに倒れる始末。



 これ程までに怠惰な客も珍しい、宿の従業員達は心の内でそう思った事だろう。

 そして、それは宿の従業員に限った話では無い。



「ちょっと、顔くらい洗ってきたらどうなの?」



 寝起きそのままの格好で食卓につき、今まさに朝食に箸を付けようとした颯。

 その対面に座る雅楽がその怠惰さに怒りの声を上げる。



 だが、その怒りが颯に届いたかは微妙。

 そもそも颯が勤勉であれば注意する必要も無く、怠惰な人間というのは多少注意された位ではびくともしない。



 雅楽の言葉を無視して颯は朝食に箸を付け、そのまま口に運ぶ。

 ちらっと対面に座る雅楽を見れば、明らかに怒りが滲んている。



「うるせーなー。雅楽(うた)だって起きたばっかだろ?」



 適当にあしらおうとしたのだろうが、それは悪手というもの。

 怒りの沸点が迫る雅楽を相手に、そんな態度が通用する筈が無い。



「私はとっくに起きてました!!」


「あ、そ。でも、目やに付いてるぞ」


「付いてるわけないでしょ!私はさっき汗流してきたんだから!」


「汗?え、なに?寝てる間にそんな汗かくような事してたの?」


「は、はぁ!?じっ、自分が何言ってるか分かってるの!?馬鹿(はやて)!!」



 売り言葉に買い言葉。

 颯の配慮の無さは今に始まった事では無いが、今日も雅楽の怒りを連打し始める。



 ここに第三者がいれば朝食くらい静かに食べたい、きっとそう思った事だろう。

 そして運の悪い事に、その立ち位置の人間が居る。



「そういえば、雅楽(うた)様は何故あんな早くに起きてらしたのですか?」



 第三者である、あやめの存在。

 彼女は話の軸を微妙にずらす事で静かにさせようと試みる。



「えっ?えーと、何となく早く起きちゃった⋯⋯から?」



 そして、それは効果抜群だった。

 長らく雅楽を見てきたあやめにとって、赤子をあやすのと同様の他愛無さ。



 どこが雅楽にとって突かれたくない部分なのか、わざわざ探るまでも無い。

 案の定、雅楽は悠月や小雪への感情を悟られないよう言葉を濁す。



「あ、あれよ!一昨日の悠月とあやめ様の手合わせに触発されちゃって、私も頑張らないとなー⋯⋯なんて⋯⋯⋯⋯」



 何気なく口に出したその言葉は、微妙な重みとなって雅楽へ跳ね返る。

 ⋯⋯そう、一昨日までは一緒に居たのだ。



 毎日のように会えていた悠月は居らず、もう会えない。

 悠月と泊まった宿に、今は自分達だけ泊まっている。



 その状況が雅楽の気持ちを沈ませる。

 悠月達と別れた後、雅楽達は大京国内にある商人の支店まで同行した。



 やむを得無い事だったとはいえ、雅楽は中京国宰相の娘であり、颯は中京国の軍事を司る名将の息子。

 あやめなどは歴とした中京国の政府高官にその名を連ねている。



 はっきり言って、あまり大京国内に長居しない方がいい身分の集まり。

 とはいえ、荷の運び入れが終わる頃には日が暮れかけていて、その日の内に中京国に戻るのは不可能。



 危険を避ける為に商人馴染みの旅館に泊まり、翌日の朝早くに旅館を発った。

 そして休まず馬を走らせ中京国内に入り、一昨日の宿まで戻ってきたというわけだ。



「⋯⋯悠月達は今頃はどの辺りかな?」


「おそらく、別れた日のうちには尾張に着いた事でしょう。今日はその先に進まれているはずです」



 雅楽(うた)の何気ない呟きに、あやめはしっかりとした口調で答える。

 ⋯⋯悠月がどんどん遠くへ行ってしまう。



 その感情は雅楽を少し憂鬱な気分にさせ、寂寥感を覚えさせる。

 だが、そんな事は配慮の配の字も持たない颯には通じない。



「そういえば悠月と小雪さん。荷馬車の中で何してたんだろうなー?怪しいよなー??」



 途端、ぴたりと雅楽とあやめの箸が止まる。

 それは見事なまでに綺麗に揃い、3人で囲む食卓には颯が朝食を貪る音しか聞こえてこない。



 颯以外の時間が止まったような、そんな状況。

 普通の感覚であれば違和感を感じ取り、自らの言動を省みるところ。



 だが、そんな状況でも颯の警報は一切鳴らず、むしろ畳み掛ける。

 自ら地雷を踏み抜く男、それが颯なのだ。



「真っ暗な荷馬車の中で2人きり。何かあったって、絶対!」


「はぁ!?颯じゃあるまいし、何言ってんの!?」


「だって小雪さんだぜ?雅楽なら何の感情も沸かないけど、小雪さんだからなー」


「最っ低!!!!」



 颯は決して立ち止まらない。

 ただひたすら地雷原へ向かって走り続ける。



 そして、辿り着いた地雷原は本日最大級。

 地雷原に辿り着いても地雷を踏み抜くとは限らない。



 慎重に行動すれば地雷を踏まずに通過する事も可能だろう。

 だが、地雷原まで来ておいて地雷を踏まないという、期待外れの行動を颯が取る筈も無い。



 もっとも、そんな事を期待している人間はいないのだが⋯⋯。

 地雷原へと踏み出した⋯⋯そう、その一歩目で颯は見事なまでに雅楽の地雷を踏み抜いた。



「そのぺったんこな、如何しようも無いまな板で言われてもなー。悔しかったら小雪さんみたいになってみれば?」


「⋯⋯⋯⋯死ね」



 雅楽の表情から殺意以外の全てが消える。

 颯がこれから過ごす一日がどうなるのか、それはまだ誰も分からない。



 唯一分かる事は、この先に平穏が待っていないだろう事くらい。

 第三者であるあやめは目を閉じ、静かに味噌汁へ口をつけたのだった。





 影の薄い颯君ですが、悪い子ではありません。

 でもきっと、10歳そこそこの男の子なんてこんなものです。


 はっきり言って、馬鹿なんです。

 彼が今後どう成長するのか、温かい目で見守って頂ければ――

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