第33話 その頃の雅楽
夜風に流れてきた雲が山肌にぶつかり、朝靄へと変わる頃――
雅楽は濃密な朝靄の中に一人立ち、清涼な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
初夏の頃合いとはいえ、日中は汗ばむ程の気温。
けれども、今はまだ太陽が顔を出したばかり。
ひんやりと肌寒い、澄んだ空気が朝靄と共に周囲を覆っている。
体の芯から洗われるような、手足の先が甘く痺れるようなむず痒い感覚。
鮮やかな朝焼けを見せる東の空を見つめながら、雅楽は今しか味わえない甘い感覚を持て余す。
綺麗な黒髪を指でくるくると弄りながら想うのは、悠月への甘い感情。
いつも優しく、でも強く、それでいて時折り寂しそうな目をしていた。
どこか雅楽とは違う世界を見つめていた悠月。
そして、その側に在って絶大な信頼を寄せられる小雪。
強い絆で結ばれた2人を思い出し、雅楽は決意を新たにする。
いつか必ず、悠月を自身に振り向かせる為に。
いつか必ず、小雪に代わって自身が悠月の隣に立つ為に――。
********************
(ゆっくり、深く――)
雅楽は目を閉じ、ゆっくりと深い呼吸を繰り返して感覚を閉じていく。
ひたすら内側の奥深く、その深奥へと意識を潜らせて行き――。
やがて自らの奥底へと辿り着くと、ゆっくりと目当ての物を引き出していく。
それは雅楽の内に眠る、力の根源たる魔力。
過去の大戦で大量殺戮兵器として動員され、今やほとんど見かけなくなった魔法の使い手。
幸か不幸か、雅楽には魔法の使い手としての素養がある。
ただ、素養があるだけの現状では引き出せる量も扱う技量も心許ない限り。
雅楽もそれが分かっていて、焦らずゆっくりと魔力を動かしていく。
少しずつ、本当に少しずつ――
体内での循環を速め、少ない魔力を増幅させていく。
増幅した魔力が作り出すのは薄っすらと光輝く帳。
その中心には艶のある長い黒髪を持ち、日本人形のような端正な顔立ちをした雅楽がいる。
朝靄の中で光輝く帳に包まれたその姿は、神々しさに溢れ美しい。
もしも目撃した者がいれば、その美しさに思わず息を飲んだ事だろう。
もしかすると、宿の従業員等は目撃したかもしれない。
けれども雅楽に気付けるだけの余裕は無く、その額にじんわりと汗が滲んでいく。
深くゆっくりとした呼吸は浅く荒い呼吸へと変わり、遂には息が切れる。
魔力制御が齎す神経を焼き焦がす程の負荷は眉間に皺を作り、表情は険しさを募らせていく。
それでも、雅楽は魔力の制御を止めようとは思わない。
これくらい出来なければ悠月の隣に立つ事など到底不可能。
「集え、風。起これ、渦」
まだまだ未熟で詠唱とも言えない詠唱。
けれど、10歳の少女である雅楽に完璧を求めるのは無理がある。
何より本人は必死であり、そこに侮りや蔑みを受ける要素は微塵も無い。
そこにあるのは純粋な努力であり、それを嗤う者がいればその精神の有り様は歪んでいる。
悠月の隣に立ちたい、悠月と共に在りたい。
その純粋な気持ちは、決して嗤われるようなものでは無いだろう。
雅楽の努力は魔力を介して世界を変えてゆく。
足元には光が浮かび、次第に風が舞い始める。
体内を循環する魔力は、いよいよ暴走寸前。
気を緩めれば一瞬で制御は失われ、自らの魔力は何も成さないままに霧消してしまう。
ここで諦めれば、いつまで経っても今以上の魔力量を制御する事は出来ない。
それはつまり、いつまで経っても悠月には追い付けないという事。
必死に、それこそ死に物狂いで雅楽は魔力を知覚し続ける。
雅楽にとっては既に未知なる領域に足を踏み入れている。
暴走しそうになる魔力を前にせめて誰かに声をかけるべきだったと後悔しても、今更どうしようもない。
滲んだ汗はいつしか額から頬、頬から顎へと伝わり地面を濡らしていく。
今では呼吸しているのかすら分からない。
それ程までに雅楽の集中力は研ぎ澄まされ、荒れ狂う魔力へと全意識が注がれている。
「⋯⋯風纏っ!!」
魔力が安定した瞬間を逃さず、雅楽は渾身の力で魔力を解き放つ。
解き放たれた魔力は哮り狂う風へと変わり、渦を巻いていく。
それは小さな竜巻であり、その中心で雅楽は風を纏う。
そして素早く横薙ぎに腕を振るえば風の渦は広がりを見せ――
「やった!!」
雅楽の周囲に立ち込める朝靄が吹き飛ばされる。
激しく渦巻く風は暫く雅楽の思うままに朝靄を蹂躙し続け、やがて魔力が尽きるのと同時に世界から消失。
残されたのは膝に手を突き、息も絶え絶えの雅楽。
そして、勢力を回復しようと躙り寄ってくる朝靄だけ。
再び周囲が朝靄に覆われようと、雅楽に次なる魔法を放つだけの余力は無い。
魔力もそうだが、それを制御する気力が底を尽いている。
今日は始まったばかりであり、これから長い一日を過ごす事になる。
にも関わらず気力も体力も、そして魔力も大幅に消耗してしまっている。
体中を伝う汗の臭いが鼻腔をくすぐり、すぐにでも水で洗い流してしまいたい。
汗に塗れ、空気にすっかり冷やされた衣服が体に貼り付いて気持ち悪い。
脳に酸素が行き渡らず吐き気さえする。
今すぐに大地に寝転がってしまえれば、どれほど楽だろうか。
気持ち悪さと脱力感に襲われ、そんな事を考えながらも雅楽は清々しさに包まれていた。
決して胃の中身を吐き出す事も無ければ、大地に寝転がる事もしない。
充実感と達成感が体内で強く木霊し、歓喜と喝采を上げている。
どうしようもない程の激情は簡単に自制心を押し流し、次第に体内に留めておけなくなる。
まだ眠りに就く者が多い今、周囲に人は居ないはず。
その考えが蛇足だったとしても、止めてくれる者は居ない。
「やっ⋯⋯」
「雅楽様、おはようございます」
「きゃああああああ!!!!!」
一日の始まりを告げたのは雅楽が全身で発する歓喜の言葉では無かった。
未だ鮮やかな朝焼けを見せる東の空へと、その悲鳴だけが木霊した――。
という事で、悠月と別れた後の雅楽の日常でした。
暫く出番は無いのですが、実は物語のキーマンでもある雅楽。
本格的な登場になるまでは、こうして幕間で出てくると思います。
実は負けず嫌いな雅楽ちゃんも、ぜひ宜しくお願いします!




