第28話 玄き調べは、かつての悲しみを揺り戻す
――差し込む月明かり。
窓から差し込んだのでは無い、辺り一面を照らし出す程の豊かな光量。
遠くに目を向ければ建物内と屋外を隔てる壁、それらが見渡す限り取り払われている。
屋内の壁を貫いた破壊の衝撃は外壁にまで達し、吹き抜けとなった場所から辺り一面に穏やかな光が差し込んで揺蕩っているのだ。
目の前に広がる、破壊の残滓。
あらゆる物を根こそぎ破壊し尽くした激しさと、それを静かに照らす月明かり。
静と動が入り乱れ成される不協和音に満ちながらも、形ある物はいずれ朽ちる真理を模したような、何処か調和の取れた景色。
壊れた残骸が乱雑に撒き散らかされた虚しさと、どこか儚げで胸が締め付けられるような美しさを感じさせる光景。
そして、それらを成した存在――。
事切れたように崩れ落ちた孫を抱きかかえる。
不可解な言動の後に崩れ落ちた悠月ではあったものの、辛うじて息はしている。
外傷としては肩に深い裂傷を負っているものの既に血は止まっており、命に別状があるわけではない。
穏やかな表情を浮かべる頬に優しく触れ、砂埃や血といった汚れを拭ってやる。
触れた頬は柔らかく弾力に富んでおり、自分の嗄れた手の硬さを実感させられる。
⋯⋯悠月は、まだ11歳だ。
成人年齢が12歳だとしても、まだ子供なのだ。
そんな、この子が――。
頬に触れる手が、僅かに震える。
「殿、それは⋯⋯」
「見た事くらいはあるだろう?」
震える手で懐から取り出したのは、一通の書状。
黒の状袋に丁寧に収められた、兄からの密書。
今より大分前――。
自分の寝床に臥せっていると人の気配を感じた。
その気配はすぐに消えたが、その後にはこの密書が残されていた。
黒の状袋は中京王のみが使用する、極めて重大な事項が記された密書。
中京王である兄・玄悠から齎された密書に、ひどく嫌な予感がした。
庁舎の奥深くに中京国諜報員が侵入したなど今後の大事はあったものの、そんな事よりも密書の内容が気になった。
機密の塊と言っていい他国の庁舎に諜報員を潜入させるのは、危険極まりない行為。
見つかれば国家間どころか、下手をすれば国際問題となる程。
その危険を冒してまで届けられた密書だ。
朗報などでは無く、危急的対応が求められる重大な事案が書かれているに違いない。
『【天涯の書】が新たな文字を刻んだ』
密書は、衝撃的な一文から始まっていた。
それだけで中京国内に⋯⋯いや、兄の身に何があったのか理解した。
800年の昔から中京王室に伝わる、一冊の書物。
外装の全てが白で成された神々しさすら感じさせる書物は、歴代の中京王に受け継がれてきた。
【天涯の書】と呼ばれるその書物には、この世のあらゆる事が記されるという。
そのため未来を定める書物として、王室の秘密として厳重に管理・保管されてきた。
歴代の王に受け継がれると言っても、全ての王の御代で機能を発揮してきた訳では無い。
意志を持つかの如き【天涯の書】は人を選び、在位が数十年に及んでなお、一文字として刻まれなかった王だっていた。
そんな中、兄・玄悠が王位に登陟すると同時に、兄は【天涯の書】に選ばれた。
数世代にわたって沈黙を守ってきた【天涯の書】は、兄をして主と定めたのだ。
そんな兄が密書を送ってきた。
【天涯の書】に新たに記された内容というのは、自分に関わりがあるのだろうか。
いや⋯⋯自分に関わりがあって欲しい。
自分以外の存在に、ましてや悠月には無関係であって欲しい。
兄を見捨て、運命から逃げ出したのは自分なのだ。
他の誰でも無い自分が成した事であり、再び運命の輪に絡め取られるのは自分でいい。
責任は、自分にある。
だから――。
『悠月から目を離すな』
その文字を見た瞬間、両手に力が入り、密書がぐしゃぐしゃになった。
運命の輪⋯⋯いや、宿命とも言うべき呪いの前には人の願いなど通じないのか。
どこまで逃げても付き纏う、一族の宿命。
天宮家の血に連なる者を、逃がす事の無い呪縛。
【天涯の書】に、悠月の名が刻まれた。
それが何を意味するのか、かつて同じ境遇に立った自分が一番良く理解している。
兄を主と定めながら、【天涯の書】には兄の名前など一文字として記されなかった。
代わりに、事ある毎に自分の名が記された。
兄を主と選んだのは早計で間違いだった。
本当に愛しているのはお前だと言わんばかりに、【天涯の書】とその本当の持ち主は自分に接近を繰り返した。
気紛れに愛され、立場と周囲に対する思慮が足りなかった自分。
どれだけ兄が苦しみ、嘆き、悲しみ、そして⋯⋯自分を憎んだ事か。
「静、すまぬ⋯⋯」
亡き妻と息子の忘れ形見にして、最愛の後嗣。
自分がかつて運命から逃げ出した事で、今度は悠月がそれに絡め取られようとしている。
因果応報というのなら、それは自分に返ってくればいい。
それなのに、その付けをあろうことか悠月に払わせようとするのか。
深く愛した、戦場に散った妻との最後の約束。
出陣前に交わした、悲しげな笑みを見せながら妻が口にした言葉。
それすらも、自分は守れないのか。
必ず守る、そう誓ったはずなのに⋯⋯。
悠月⋯⋯。
今はただ、愛するこの子を抱き締める事しか――。




