第22話 思いは遠く、現実は厳しく、心は悲しく
しまったな⋯⋯
完全にやらかした⋯⋯
首筋目掛けて迫る刃が視界に映っている。
1秒が引き延ばされるような感覚の中、その動きは緩やか。
軌道上に刃の残像が映し出され、ゆっくりと死の気配が迫ってくる。
けれどもそれを防ぐ事は出来ず、1秒が何倍に引き延ばされようとも2秒後には終わりがやってくる。
緩やかになった世界の中では僕の動きも緩慢で、防御が間に合わない。
抜いた刀も、今からでは滑り込ませるには遅すぎる。
水蒸気の向こうに見えた、僕に刃を振るった敵の顔。
その見覚えのある顔に愕然とし、一瞬でも動きを止めてしまったのがいけなかった。
⋯⋯そろそろ時間か。
覚悟を決め、目を閉じる。
暗闇の中で、刃が作り出す風切り音だけが聞こえる。
ゆっくりと、でもはっきりと――
(諦めるのは早いんじゃないかな?)
「止まれ――」
⋯⋯今のは、僕の声だったのか?
脳内で霞の声が聞こえたのと同時に、口から零れ出た言葉。
一瞬、霞の声のような気もしたが、今のは間違いなく僕が発した声だ。
そしてその一言で、僕の首筋に迫った刃がぴたりと止まっている。
あと少しで僕の首筋を切り裂くその距離で、何かにぶつかったかのように動かない。
その様はまるで手合わせの時に玄悠様が見せる、あの力と同じ。
それを、僕が⋯⋯?
想像すらしなかった現実を前に、意外過ぎるその事実を前に呆けてしまう。
けれど、それも長くは続かない。
霊刀による斬撃を諦めたのか、至近距離で敵の掌に炎が生み出される。
「止まれ⋯⋯止まれ、止まれ⋯⋯止まれっ!」
敵の掌から放たれた無数の炎弾に対し、先程と同じ言葉を繰り返す。
たったそれだけで、炎弾は空中に縫い付けられたように動かなくなる。
「おのれ⋯⋯小癪なっ!!」
理解不能な謎の力で攻撃を悉く防がれた事による焦りなのか、敵の表情が怒りに染まり、その瞳は激しい殺意を顕にし始める。
手を伸ばせば届く距離で見せつけられる、悪鬼の如き表情。
思わず気圧され怯めば、敵の攻撃を留めていた力も緩んでしまうものなのか。
それとも、留めていた力は元々制限があるものだったのか。
止まっていたその刃が、無数の炎弾が、一斉に襲いかかってくる。
けれど――
「さようなら」
その攻撃が、僕に届く事は無かった。
いつの間にか敵の背後へと回り込んでいた小雪が放った一刀、その鮮やかな太刀筋で敵の首が切り落とされる。
そのあまりの早業に、敵は自分が死んだ事に気付いていないのか。
その悪鬼の如き表情は変わらず、ずるりと前に落ちた首が、僕の目の前に落ちてくる。
見なければ良かったと思っても、もう遅い。
落下してくるその表情は網膜へと焼き付き、足元に鮮血を撒き散らす。
首が切り離された胴体からは血の噴水が起こり、僕の髪や顔を激しく汚す。
鉄臭さと、血に塗れた気持ち悪さが、否応なく僕に現実を突き付ける。
――これが、実戦。
――これが、人を殺すという事。
首が落とされ、時間の差を埋めるようにして床に転がる体。
その向こうに見えた、頬と暗めの茶髪に返り血を浴びた小雪の姿。
そこにはいつもの柔らかく優しい笑みは無く、美しいまでに澄み切った殺意だけがある。
鋭い眼差しと殺意の残滓を漂わせる、戦姫としての小雪がいた。
実戦の凄まじさと死への恐怖。
嫌悪、嫌忌、厭悪、不快、憔悴、憤怒⋯⋯ありとあらゆる負の感情が腹の底から湧き上がってくる。
そして敵の死体から漂ってくる強烈な血の臭いと、排泄物の汚臭が更にそれを助長する。
誰かの両手で胃を揉まれまくった挙げ句、握り締められるような感覚に堪えられず――
「うっ⋯⋯おえっ」
僕は吐いた⋯⋯吐き続けた。
吐瀉物は何も出てこないが、とにかくこの気持ち悪さを吐き出したかった。
⋯⋯僕は、何も分かっていなかったんだ。
僕以外はみんな倒れている敵のように、いつ死ぬか分からない死線を潜り抜けて今日に辿り着いていた。
その事実から目を逸らし、あたかも悲劇の主人公のように振る舞った。
何もせず、何も出来ず、何をすべきかも分からないくせに、懸命な努力をしていると思っていた自分。
他人の優しさを担保に、狭い視野で一人前ぶった自分。
知らない事実を知ろうともせず、小雪に全てを任せっきりだった自分。
それすらも正しく認識せず、狭い世界で満足しきっていた自分。
実際には安全な場所で、安全な範囲で、安全を気遣われ、安全に遊ばれていたというのに――。
恥ずかしいくらいに道化だった自分と、どうしようもないくらい屑だった自分。
何でもいいから、どこへでもいいから、そんな自分を捨ててしまいたかった。
でも、どんなに吐き続けようが何も出て来ないし、何も捨てられはしない。
それが分かっていて尚、僕は必死に、何かに縋るように吐き続ける。
こんな時でも、そんな事無いと誰かに言って欲しいと願っている浅ましさ⋯⋯そんな考えしか出来ない僕が⋯⋯僕は嫌いだ。
間近で見た実戦の酷烈さを前に思考は崩壊し、早くも僕の心は折れかかっていた――