第20話 足音には気付けず
「いーやーでーすぅー!!」
「⋯⋯」
「いーやーなーんーでーすぅー!!」
「⋯⋯」
「いーやー⋯⋯⋯⋯って、聞いてます!?」
「⋯⋯はぁ」
思わず、溜め息が漏れる。
日が暮れて夜も深まり、そろそろ寝ようかといった矢先。
真剣な表情で駄々をこねる小雪を見て、どうしようかと頭を悩ませる。
昨日までであれば悩むような事では無かったとしても、時と場所は弁えるべきだろう。
「そんなこと言ったって駄目だよ」
「うぅ、坊っちゃんがいじめますぅ⋯⋯」
潤んだ瞳で見つめてきても、そんなことで折れはしない。
そんな⋯⋯ことで⋯⋯
「坊っちゃん、いいですよね?」
「うーん、まぁ⋯⋯って!!」
⋯⋯危なかった。
一瞬、気持ちが揺らいだところを見事に付け込まれそうになる。
ここは宿屋ではなく、庁舎の一室。
来賓用の部屋という事で本館の端に位置しており、職員の往来は少ない。
それでも周囲に職員やお祖父様の重臣達がいて、多少なりとも人の目を気にするべき。
2人だけなのを良い事に、今までのように好き勝手出来る環境ではないのだ。
朝に庁舎を訪ね、お祖父様と話をした後――。
ひとまず整理された情報は中央で政局を取り仕切る凪様へ送られ、近衛軍には再度諜報員が放たれる事となった。
第6都督不在で動きの鈍かった庁舎内の雰囲気は一変し、どこもかしこも目の回る忙しさを呈し始めた。
お祖父様も重臣も職員達も、今後の指示やら手配やら書類作成やらで、てんてこ舞いの状態。
そんな中、僕と小雪はやる事も無く、慌ただしく駆け回る職員達をぼーっと眺めていただけ。
手伝いたい気持ちはあれど、情報保全の観点から未成年が政務に携わる事は原則禁じられている為だ。
庁舎でただ、ぼーっと過ごすだけの僕達と慌ただしい中でもお祖父様の手前、気を遣ってくれる職員達。
単なるお邪魔虫と化した僕と小雪はその状況に居た堪れず、尾張市中へと繰り出した。
そのまま日暮れまで小雪に引きずり回され、疲労困憊。
前に雅楽の買い物にも付き合わされたが買う訳でもない物を長々と見たり、場所を変えながら何時間も見て回ったりと、女性の買い物に対する熱意には内心辟易する。
とはいえ、日中に庁舎から離れられた事で職員達の迷惑にはならないで済んだ事は良かった。
後は明日以降、修練場を借りられないか考えながら寝るだけなのだけれど⋯⋯
「坊っちゃーん、一緒に寝ましょうよ~!!」
「駄目だって!!」
ここ数日で小雪の感覚は完全に麻痺してしまったのか。
人の目がある事を説明しても聞き入れる気配がまるで無い。
同じ部屋で寝るのは良いとしても、布団は当然分けるべき。
更に言えば衝立を立てるなど、何らかの形で空間も分けるべきだろう。
それをどう言えば、小雪が納得してくれるのか。
互いに相手をどう説き伏せるか考えつつ、思いもよらず発生した攻防は暫く続く事になるのだった――。
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「⋯⋯どうしてこうなった?」
布団に埋もれながら、独り言ちる。
いや、埋もれているのは布団だけじゃない。
あの攻防から数時間後――。
僕は小雪の体温を感じながら、思いきり抱きしめられる形で眠りに就いていた。
⋯⋯思い返してみても、本当に一瞬の出来事だった。
小雪と話を続けるなか、お祖父様が訪れ数分その場を離れただけ。
そのたった数分が、僕と小雪の明暗を分けたと言っていい。
お祖父様との話を終えて振り返った時には、小雪は布団をぴったり寄せて準備万端。
その後、あの手この手を使ってみたものの、結局小雪を説得する事は出来ず⋯⋯。
僕が床で寝ると言った時に見せた小雪の悲しそうな顔、あれで諦めざるを得なかった。
そうして宿屋の時と同じく、気が付けば小雪に抱きしめられている。
こんなところを他の人間に見られたら、何て噂される事か⋯⋯。
そんな事を考えてみるが、小雪の幸せそうな寝顔を見ていると、どうでも良くなってくる。
明日の朝、起床を促しに来る職員よりも早く起きればいい。
(ほんと、どうしようもないな――)
なんだかんだ言いながら、最後は小雪に流されてしまっている。
小雪に対して自分の甘さに苦笑しながら、僕はまた眠りについたのだった。
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「うぅん⋯⋯小雪?」
あれからどれだけ寝たのだろう。
まだ朝の日差しはなく、窓の外は夜が支配し星々が瞬いている。
おそらく1、2時間程度しか経っていないのではないか。
起きるには大分早すぎる時間にも関わらず、僕が目を覚ますと小雪は起きていた。
しかも眠い目を擦りながら良く見れば、小雪は身支度を整え終わっている。
そして、その手には『白狼』が――。
「あ、起こしちゃいましたか?すみません」
「どうしたの?」
「ちょっと気になることがありまして」
いつもの小雪同様、柔らかい声音。
でも、僅かに緊張が混じっているような感じもする。
(⋯⋯何かを警戒している?でも、何を?)
ここは庁舎であり、国が管理する建物。
平時は行政の場として、有事の際には軍事の指揮所が設けられる。
当然ながら機密情報が満載であり、あらゆる面での防御も施されている。
ある意味、尾張内で最も頑丈で、最も安全な建物。
それに、都督が常駐する庁舎というのは地方における国家権威の象徴。
庁舎を襲うということは立派な国家反逆罪であり、その者は重犯罪者として国家を超えて指名手配される。
そんな場所で、一体何を警戒しているというのか。
⋯⋯後から思えば、この時の僕は完全に油断しきっていたのだろう。
安全な場所にいるという安心感が、感覚を鈍らせた。
中京国では常に張り巡らせていた意識が、無意識のうちに緩んでいた。
だから僕は、気付けなかった。
鎌を振り上げた死神が快哉を叫びながら、僕の首元にその鎌を振り下ろしてくる瞬間まで――。
「始まりましたね」
「敵襲!?」
突如鳴り響いた轟音と、辺り一帯を支配する喚声。
小雪が呟くと同時に、僕も異常事態に気付く。
慌てて窓の外を見れば、眼下で既に乱戦が始まっている。
必死の抵抗を見せる庁舎守備兵が、突如として現れた侵入者と激しく戦っているのだ。
戦場では置かれた状況下に対して、正しく迅速に行動できない者から死んでいく。
知識として頭では理解していても、いざ目の前で乱戦となると、どうしていいのか分からない。
そもそも、この侵入者はどこから現れたのか。
まさか⋯⋯近衛軍なのか?
僕の思考が停止していくなか、眼下での乱戦は規模を拡大しながら続いていく。
無惨に破壊され尽くした庁舎を囲む城壁と、苦戦を強いられている守備隊。
奇襲を受けた劣勢のなか、奮戦虚しく一人また一人と守備兵が死んでいく。
肩を切り落とされ、腹からは臓物を引き摺り出され、首を刎ねられて殺されていく。
惨殺⋯⋯。
守備兵達は普通に戦って殺されているのではない。
明らかに嬲ることを目的として、死なない程度の苦痛を与えられてる。
苦痛に悶える表情を、恐怖に染まった感情を嗤いながら嬲り殺されている。
「⋯⋯酷すぎる」
殺意と怒りで視界が真っ赤に染まる。
人が死ぬ事は、それほど珍しい事じゃない。
戦場でなくとも、人はちょっとした事ですぐに死ぬ。
死という概念の前ではただ死んだだけなのか、誰かに殺されたのかは関係ない。
平等に死に受け入れられるだけであり、そこから何を想うかは生きている人間の身勝手な想像に過ぎない。
だが、それでも目の前の光景は到底受け入れられるものではなかった。
人の覚悟を、人の努力を、その人そのものを壊し尽くすことに愉悦を感じているのか。
多くが入り乱れる乱戦場にあって、その男は明らかに異質。
まともじゃない、狂人としか言えない所業。
それなのに、惨殺を続ける男からは狂気が感じられない。
距離が離れているせいかもしれないが、乱戦場にあって男は誰よりも冷静とも見れる。
ただ淡々と、まるで与えられた仕事をこなすかのようにして立ち回っている。
それでもやはり、男の行為は人の尊厳を踏み躙る行為であり、感じるものは怒りだけ。
怒りの篭もった眼差しで眼下の惨状を見渡し、男を睨む。
こちらの視線に気付いたのか、男は顔を上げる。
互いの視線が合わさり、空中で火花を散らす。
「そこにいたか、天宮悠月」
突撃していった守備兵を片手間で薙ぎ払い、男は不敵な笑みを浮かべる。
その顔には、右目を切り裂くように大きな傷が刻まれていた。