第2話 始まり
『どうして⋯⋯待って⋯⋯』
『⋯⋯様は、いつ帰ってくるの?』
『なんで⋯⋯なんで僕が⋯⋯』
――日が昇る、朝が来る。
窓辺から差し込む朝日に、目が覚める。
(あぁ、またなのか⋯⋯)
目が覚めて、最初に思った事。
涙で天井が滲んでいる事で、また寝ながら泣いていたのだと自覚する。
⋯⋯一体、いつ振りだろうか。
最近は記憶からも薄らいで、その呪縛も心の奥深くに沈んだと思っていたのに。
かつては何度も何度も、それこそ毎晩のように見た夢。
今のように眠りながら泣いていた、時には何かに縋るように目を覚ました事もあった悪夢。
涙を拭った視界に映っている物、それは窓の外に広がる見慣れた景色。
それでいて、自分とは異なる世界としか感じられない景色。
それをただ、ぼんやりと眺める。
⋯⋯分かっている。
僕がどれだけ平凡で、使えない人間かなんて、僕が一番よく分かっている。
お祖父様と比べて、何の才能も引き継がなかった。
これはきっと戒めなのだろう。
何の才も持たない、価値のない人間である事を忘れないようにという⋯⋯。
重い体を引きずりながら、布団を綺麗に畳んで部屋の隅へ。
自らの霊力を触媒として、空気中に生み出した水球で軽く髪を濡らす。
それほど長くない白髪についた寝癖を素早く直し、そのまま顔も洗って水球を蒸発させる。
水の霊力を得てから何度も繰り返す事で、今となって然程難しくない作業。
かつての大戦期において魔法は著しく衰退し、世は再び霊術が全盛を極める時代。
当たり前のように僕にも魔法の適性は無く、多少霊術が扱える程度。
その事実に改めて、少し凹みそうになる。
考えても仕方ないとはいえ、どうしても考えてしまう。
もし、僕に魔法の適正のような特別な才能があったら。
そうしたら、僕はここには居なかったかもしれない。
一人で身支度を整えていると、廊下から軽快な足音が聞こえてくる。
それは毎朝の事であり、誰のものかなんて考える必要すら無い。
というより、この家に暮らしているのは僕ともう一人だけだ。
ほら、今に襖が開いて。
「坊っちゃーん、朝ですよー!って、もう起きてましたか!」
「おはよう、小雪」
毎朝毎朝、こうして従者の小雪が僕を起こしに来てくれる。
とはいえ、大体は僕が先に起きている。
「朝ごはんは居間に用意してありますから。冷めないうちにどうぞ!」
「ありがとう」
二人だけで暮らすようになって1年以上も経つと、互いの生活習慣も手に取るように分かるようになる。
こうして僕が身支度を整え終わるくらいに朝ご飯が出来上がっているのも、今ではいつもの事だ。
1年以上も前に中京国に渡った僕と、僕を一人にさせまいと付き従ってくれた小雪。
僕らの生国である大京国は遥か東にありながら、僕らはこうして中京国での暮らしを強いられている。
その生活は決して楽なものではない。
けれど過酷を極めるほどでもなく、裕福では無いながらもこうして2人で慎ましく暮らせている。
自由は無くとも、きっと十分に恵まれている。
生活のほとんどは中京国が保障してくれていて、王都から出る事を禁じられている以外は致命的に困る事も少ない。
それに、国元のお祖父様も多少のお金は定期的に送ってくれている。
節約さえ意識していれば、庶民よりも遥かに良い暮らしをしているだろう。
だから、これ以上は望まない。
いや、これ以上を望んではいけない。
何の才能もない、使えない人間である僕が、欲をかいてはいけないのだ。
決して手に入らない物を望めば、それは深く自らを傷つけることになる。
人には限度というものがある。
呼んでも応えてくれない物を呼んではいけないし、既に去ったものを望んでも戻ってはこない。
自由が恋しくとも只ひたすらに、その悲しみに気付かない振りをしなければならない。
でないと、多くの人に迷惑がかかる。
鳥籠に押し込められた鳥に翼を広げる事は許されない。
かつての自由を夢想する事も、その翼も不必要。
「坊っちゃん、今日も頑張りましょう?きっともうすぐ帰れますよ」
「そうだね、分かってる」
小雪の言う通り、もうすぐでは無かったとしてもいつかは帰れる。
だから、あまり暗い顔をしていてはいけない。
何よりそんな顔をして王宮に上がれば、余計な疑惑を生みかねない。
他国の人間である僕が王宮で隙を見せるわけにはいかないのだ。
再び窓の外に広がる異国の風景を眺め、自らの置かれた境遇をゆっくりと。
沁み渡らせるように脳に刻み込んでいく。
今はまだ、その時ではない。
必ず機会はあって、今はその時のために準備をするべきなのだ。
にこにこと笑顔を向けてくる小雪に笑い返し、自室を出る。
――こうして、また僕の一日が始まる。