第14話 闇を纏った瞳が、月明かりを見る頃に
「ここは⋯⋯」
目の前に広がる光景、その雄大さに圧倒される。
どこまでも広大で、どこまでも儚く、どこまでも美しい。
僕はたしか、あやめ様と手合わせをしていたはず。
記憶は朧げで断片的にしか思い出せないが、気絶するまで徹底的に打ち負かされたのだったか。
手合わせの舞台となったのは、湯水のように金を注ぎ込んで作られた宿屋の修練場。
どこまでも続く板張りの床は顔が映る程に磨き抜かれ、実用性だけでなく美的要素も併せ持っていた。
それも今となっては何てちっぽけな物に美しさを感じていたのかと、そう思ってしまう。
自然の雄大さと美しさの前では、人工物の美しさはどこか生臭い。
僕は今、海の上に立っている。
決して沈む事も濡れる事も無く、磨き抜かれたかのような海面に一人きり。
海の中を覗き込めば巨大な珊瑚礁が広がっていて、悠然と泳ぐ色とりどりの魚と海底の白い砂が海の碧さを強く感じさせる。
遥か遠くを見渡せばそこは白い雲が碧い海に接するほど低く流れており、その果てを見通すことは出来ない。
その果てを白い雲に阻まれた、どこまでも見渡す限り続く碧い海。
自分という存在が頼りなく感じるほど、その巨大さに圧倒される。
「まるで、夢まぼろしだ⋯⋯」
目の前に広がる光景、その現実味の乏しさに思わず呟く。
直前の出来事を除外したとしても、見ている景色は美しすぎるが故に夢の中の一幕としか思えない。
「どうなのだろうね。⋯⋯いや、君が夢だと思うなら、ここはきっと君の夢なのだろう」
突然話しかけられ驚いて振り向くと、そこには女が一人。
さっきまで誰もいなかったその場所で、彼女は悠然と紅茶の入ったカップに口を付ける。
「ここは君の夢の中。つまりは君が語り部であり、ボクは登場人物というわけだ」
白く長い髪に、透き通るような白い肌。
漆黒に彩られた、闇を纏った黒い双眸。
宝石のように輝く瞳は蠱惑的であり、吸い込まれてしまいそうになる。
その瞳と同じ色をした黒いドレスは彼女の足元まで長く、成熟した女性の体を喧しい程に主張している。
絶世の美女――。
その言葉が何の抵抗も違和感も無く、自然と脳内に浮かび上がる。
「⋯⋯そんなに警戒しないで欲しいな。ボクは君の夢の中の存在、つまりは君の空想の産物。しかし⋯⋯君はこういった外見の子が好きなのかい?君もなかなかどうして、隅に置けないな」
美女ではあるが少女とは言い難い彼女は、ゆっくりと手に持ったカップをテーブルへと置く。
その所作一つを取って見ても、やはり美しい。
そんな彼女は一つ息を吐くと前髪を掻き上げ、額の汗を拭う素振りをみせながら目を細める。
白磁のように透明な肌には汗など一粒として浮かんでいない事から、暑いのではなく日差しが眩しい事を示したかったのかもしれない。
「遠慮せず、君もかけたらどうだい?君の席は用意されているのだから」
たしかに、彼女の目の前には主のいない席が一つ置かれている。
そしてそこには淹れたてなのか、仄かに湯気立つ紅茶が入ったカップ。
目まぐるしく隆起する、眼前の状況の変化に警戒しない方が難しい。
全ての事象には何らかの意味があり、ということは僕が今ここにいる事にも意味がある。
その意味は分からず、きっと彼女の招きに応じて席に着けば何かが分かるのだろう。
一体この先に何が待ち受けるのか、その恐怖に思わず後退りそうになる気持ちを圧し殺して一歩を踏み出す。
そして、彼女の前に用意された椅子へと深く腰掛ける。
今更な話であるが、ここは海の上であるはずなのに波の一つさえ無い。
そればかりか海面を歩いている時も椅子を引いた時も、不思議と波紋一つ起こらなかった。
僕らの立っている海面は磨き抜かれた硝子のように、ただただ何も変化を見せる事なく静寂を保っている。
「海だからといって波があるとは限らない。事象とは多人数の意識の集合体でしかなく、それに疑問を呈することで世界は進んでいくのさ」
僕が席に着いたことが余程嬉しかったのか、彼女の表情が緩む。
気が付けば目の前には紅茶の他に焼菓子が並び、いつのまにやら日除けのパラソルまで開いてある。
目の前に座る彼女は一歩も動いていないどころか、立ち上がってすらいない。
一体誰が⋯⋯そう思ったとしても、この場にいるのは僕達だけだ。
「おかえり⋯⋯いや、初めましてというべきかな」
「ここは一体⋯⋯」
「まぁ、まずは自己紹介から始めようじゃないか。ボクは霞。今は霞とだけ覚えてくれればいいよ」
霞と名乗った彼女。
日差しから逃れたその双眸はより一層黒く、日陰においてもその輝きは不思議と増している。
⋯⋯近くで見ると、より一層危険を感じるな。
その不思議な輝きに吸い込まれそうになるばかりか、意識そのものを持っていかれそうになる。
「僕は⋯⋯」
「知っているよ、悠月くん」
気を紛らわすためにしようとした自己紹介、それは霞の言葉によって阻まれる。
そればかりか霞の白い腕が伸びてきて、その掌が優しく額に添えられる。
「黒より出でて黒より黒く、闇に佇みし漆黒よ。救いなき御代に生まれ落ちた、我が愛し子に恩寵を与えたまえ」
「何をっ――ぐっ!?」
身の危険を感じ、その掌を払いのけようとした瞬間――
頭が割れんばかりの痛みが頭蓋内を走り抜ける。
⋯⋯何かが、脳内で暴れている。
脳内で暴れる何かと、それを排除しようとしている何かが激しく鬩ぎ合う感覚。
額に添えられた霞の掌に力が入ったと感じた途端、頭痛は一層のこと激しさを増す。
最早、頭が割れそうとかそういった次元じゃない。
頭蓋骨を砕かれたところに無数の返しが付いた棒を脳みそに突き立てられ、ぐちゃぐちゃに掻き回されるような感覚。
あまりの痛みに声を発する事も出来ず、ただただ歯を食いしばる。
精神ごと崩壊しそうな、死すら願うほどの痛みに悶絶した暫くの後。
すっ――と脳内が軽くなったような錯覚を覚え、霞の掌がゆっくりと額から離れていく。
「さて、これであの売女に植えられた種も取り除かれ、君の霊力を封じる枷は壊れた。あとは⋯⋯」
霞は何かを言いかけ、僕を凝視したまま動かなくなる。
凝視されている僕はと言えば顔中から滝のような汗を流し、呼吸の荒さは一向に収まる気配を見せない。
頭蓋内を走った尋常ではない痛みは消え、思考は今までに無いくらい明瞭そのもの。
けれど突然襲ってきた痛みとその衝撃に、精神が追いつけていない。
「⋯⋯焦っても仕方がない、か。君の肉体が目覚める頃には多少馴染んでいるだろうし、君を茶会に招くのは今度にしよう」
「なにを⋯⋯言って、いる?」
「まずは、新たな天才の誕生に祝福を。そして、次なる再会に期待を」
あまりの衝撃に動く事すらままならない中、霞は僕の両目に掌を翳すとゆっくりと瞼を下ろしてくれる。
何故かそれが懐かしく、そして悲しい感情がとめどなく湧き上がる。
「霞、僕は⋯⋯」
「変化は受け入れるものであって、恐れる事ではない。それを忘れてはいけないよ。⋯⋯またね、悠月くん」
瞼を下ろしてくれた霞の手が額に移り、暖かな温もりに包まれる。
まるで幼子が母に抱かれて安心して眠るように、僕の意識が少しずつ消えていく。
待ってて欲しい。僕は、必ず――
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「⋯⋯そろそろ限界みたいだね」
悠月くんが去ってから、どれ位の時間が経っただろうか。
遠く遥か彼方で白雲が崩れ、海が黒く濁っていく。
ここは彼の心が作り出した世界。
創造主が去った今、世界がその美しい形を留めておけないのは当然の事。
「これから忙しくなりそうだ。君にもまた働いて貰わないといけないね、レイリア」
今はこの場にいない、ボクが愛する下僕へと語りかける。
悠月くんはレイリアの新しい主に、彼女を託すに相応しい器だった。
出来ればもう少し彼の深奥を覗いてみたかったけれど、無茶をして壊れてしまっては意味が無い。
最後にもう一度彼が座っていた対面の席を眺め、ボクは立ち上がる。
「次はどんな世界を見せてくれるのか。楽しみにしているよ、悠月くん」
それだけを言い残すと、ボクもまたこの世界を後にしたのだった――。