第1話 プロローグ
――燃えている。
この世の全てが燃えている。
高く上がる火柱は夜空を焦がし、大地から闇の影を払う。
燃え盛る王城は耿々と輝く月や悠然と空を泳ぐ霞雲までもを朱に染め上げ、世界は朱に包まれる。
――紅の月夜。
その表現がしっくりくるほどに闇に包まれた世界では燃え上がる炎が、夜風に舞う火の粉が、全てを自身の色に染め上げる。
王城からはまだ距離があるとはいえ、立ち上る炎の熱は青年の立つ場所にまで届いている。
その距離では炎の明るさも十分に届き、青年の背後に伸びるのは自身の影のみ。
それ以外の暗さは微塵も見当たらない。
地の暗さに倒れ伏した無数の死体の影を除いては――。
「きゃあああああ!!!」
唐突に上がった悲鳴。
そちらを見れば、そこに居たのは服とも呼べない襤褸切れを纏った妙齢の女性。
幼い娘を抱き抱え立ち竦むその顔は煤汚れ、剥き出しになった肌は赤く焦げて火傷を負っているようだ。
家に火の手が回り焼け出され、逃げてきた先で青年に出会った⋯⋯といったところか。
青年の周囲には死体が山となっており、青年自身も全身に返り血を浴びている。
特徴的な白髪も今では赤く染まり、その眼光の鋭さは尋常のものではない。
(――殺す?)
物騒な問いかけに大きく溜め息を吐くと、青年は女性へと近づいていく。
その片手には、抜き身の刀を握ったままである。
ガタガタと震える女性は腰が抜けてしまったのか、その場にへたりこんでしまう。
その表情――絶望と恐怖に苛まれたその表情は、青年にとっては見慣れたもの。
⋯⋯少し前まではそうでは無かった。
けれども僅かな時を経て、見慣れたものとなってしまった。
「どうか、どうか、この子だけは――」
女の最後の矜持なのか。
大事に抱き抱えた幼い娘を庇う女性は必死に懇願し、その姿を見た青年は再び大きく溜め息を吐く。
近くで良く見れば女は美貌を持っており、抱かれた娘が着ている衣服は豪勢なもの。
おそらくは貴族の妻と、その子女といったところか。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯え?」
殺される、女性はそう思ったに違いない。
だが、青年が女性にした事と言えば自身の羽織を被せただけ。
「もはや王城に行っても無意味でしょう。その羽織を持って我が軍の営所へ行ってください。食料と簡素な寝床くらいならば用意してくれるはずです」
自軍が屯営している方向と行き方だけ伝えると、青年はさっさとその場を後にする。
一度だけ振り向くと放心状態のまま座り込んでいる2人が見えるも、青年は歩みを止めない。
(――なんで?)
「殺さなかったことか? そうだな、被って見えたんだよ」
王城の方角へと歩を進めながら、青年は問いかけに答える。
といっても青年の周りには誰もおらず、この場に誰か居たならば独り言としか思えなかっただろう。
青年は青年で、先程の親子のことを思い出していた。
丁度あれくらいの年頃だったか。
救えなかった、自分と同じ思いをさせてしまった。
その傷は今なお、青年の心に痛みとして残り続けている。
(――殺されなきゃいいけど)
今日は良く喋ると、青年は呆れ混じりに思った。
おそらく、声の主も自分と同じで、王城へ近付くほどに強くなる存在の気配を感じているのだろう。
戦いが始まる前、青年は不必要な略奪や強姦の類いを一切禁止すると伝えている。
もしもそれを破った者がいればどんな手を使ってでも炙り出し、必ず処罰を下すと厳命しているのだ。
そして、青年にはそれだけの力がある事を兵達は理解している。
声の主が心配するような、先程の親子が殺されたり凌辱されるような事は無いだろう。
「そんなことより⋯⋯」
王城へ近づくにつれ、夜風に乗って剣戟の音が流れてくる。
怒号や悲鳴なども上がっており、王城周辺では未だ激しい戦闘が続いていることを窺わせる。
そして、青年の前にも――。
「何者だっ!!」
誰何の声を上げ、行く手を阻むように立ち塞がる影が3つ。
光源である王城を背にしているため顔は見えずとも、青年にはそれが敵であることが分かっていた。
仮に自軍の将兵であれば、青年にそのような質問はしない。
青年の顔は王城の炎に照らされており、はっきりと見えるからだ。
質問に対して青年は黙殺する。
答える気がない、その姿勢と感情はすぐさま立ち塞がる影へと伝わり、向かって左側に立つ影が怒りも露に一歩踏み出す。
そう、一歩踏み出しただけだ。
だが、その者は次の瞬間――世界から消えた。
「⋯⋯⋯⋯?」
残った2つの影は何が起こったのか、理解できていないのだろう。
無理もない、隣に立っていた仲間が突然消えたのだ。
仕方がないので青年は下を指差す。
そこには――。
「うわぁ!?!?!?!?」
人としての原型を留めないほどにグチャグチャになった肉塊が一つ。
髪の毛も、眼球も、皮膚も、骨も、内臓も、全てが細かく粉砕されて均等にかき混ぜられた、綺麗な肉塊。
それが一辺の歪みもない三角錐状に積み上げられていたのだ。
そして、慌てて逃げ出そうとした残り2つの影も同様の道を辿る。
僅かに蠢き続ける新鮮な肉塊が3つ。
それを見下ろしながら、青年は考える。
――汚れてしまったのは、自分なのか。
それとも、世界なのか⋯⋯と。
青年は自分がまだ少年だった頃を思い出す。
まだ穢れを知らない手は白く、夢という開け方の分からない、鍵のついた小さな箱を大事に持っていた頃を。
そして、共に生きた女性を⋯⋯。
どうしようもなく軟弱で、惰弱で、怯弱で、弱かった自分。
それを守ってくれた。
いつだって俯きそうになる心に、零れそうになる言葉に必死で耐えていると、優しく包んでくれた。
強くなることを、女性に誓った。
だが、その誓いが果たされる日はもう来ない。
傷ついたことも多かっただろう。
失ったことも多かっただろう。
抱えきれず、置いてきたものは数えきれないほどあった。
当たり前のことを見落として、取り零したものも数えきれない。
だが、失くすばかりではなかったはず。
⋯⋯そう思える道を、歩んでみたかった。
青年は天を仰ぐと目を瞑り、今へと繋いでくれた者達を目蓋の裏に描く。
そして⋯⋯。
「舞姫」
(――いいの?)
「⋯⋯あぁ」
世界の抱えた宿命に終止符を打つべく。
青年は誰にも気付かれること無く、世界を超えた。