8
街に戻ると、まだ夕食までには時間があった。
僕は親方に、少し出てきてもいいかと尋ねて、許しを貰うと急いで商人街へと向かった。
マリーカが後を付けてこないかと配だったけど、あんな話をしたあとなのにマリーカは何故か大人しいもので、どういう心境の変化か僕が出かける時に「いってらっしゃい」とまで言ってきた。
僕はそんなマリーカの様子に首を捻りながらも、いつもの橋を渡る。
教会まではもうすぐそこだ。自然に早足になる。空はまだ朱に染まってはいない。まだフリューはあの部屋にいるはずだ。
行けば行ったで、きっと物凄い勢いで文句を言われるに違いないが、今の僕はその文句を聞くことさえ楽しみだった。
そんな、少しばかり浮かれ気味の僕の背後から女の人の声がする。
「すいません」
僕は、その声が自分に掛けられたものだとは思わなかった。第一、フリュー以外に商人街に知り合いはいない。
「ちょっと、お待ち下さい」
もう一度声がした。何となく気になって振り返る。
すると、声を出していた女の人はまっすぐに僕のことを見つめていた。不思議なことに僕を呼んでいたようだ。僕は首を捻りながらも問い返す。
「僕ですか?」
「そうです、ハンスさんですよね」
女の人は、間違いなく僕の名前を呼んだ。
誰だろうと思って、よく見てみる。きれいに切りそろえられた黒髪。かなりの美人だけど、その灰色の瞳と同じように、どこか冷たそうな印象を感じる。
何よりも着ている服が真っ黒なドレスで、それだけでもとっても陰気だった。
一度会ったら、まず忘れられない出で立ちだ。
だから、僕はこの人には一度も会ったことがないはずだ。なにしろ、まったく覚えがない。
「金の髪、緑の瞳、職人街風の出で立ち、そして革職人が持つ独特の臭い。全てが姉様の言う特徴にあてはまります。あなたはハンスさんのはずです」
ところが相手の女の人は、僕のことをよく知っているらしかった。しかも、その口調は誰かに――フリューによく似ていた。
「ぼ、僕は確かにハンスだけど、あなたは?」
「私はフリューリングの妹でヒルデガルド。姉様からの言付けを仰せつかっています」
「妹?」
ヒルデガルドと名乗った女の人は、確かにそう言った。
フリューの妹だって。
けれど、どう考えてもこの人がフリューより年下とは思えない。
目の前の女の人はどうかすると僕より年上にだって見える。
僕は、その疑問をそのまま口にした。
「あなたがフリューの妹だって言うんですか? でも、あなたはフリューよりずっと年上に見えるんですけど。あのフリューのお姉さんじゃないんですか?」
僕がそう尋ねると、ヒルデガルドさんの表情に初めて変化が現れた。
「……あなた、何も知らないんですか?」
眉をひそめながら、ヒルデガルドさんが逆に聞き返してくる。
「え? え、何のことですか?」
本当に何のことを言っているのか、わからない。そんな戸惑う僕の手をヒルデガルドさんが握った。
「ちょっと、来て下さい」
そのまま僕を引きずっていく。
向かう先は、フリューと待ち合わせに使っている、あの教会みたいだった。僕はますます混乱する。
この人はどこまで知っているんだろう?
そして、僕の知らない何を知っているのだろう?
ヒルデガルドさんが僕を教会に連れて行ったのは、静かなところで話がしたかっただけみたいで、僕とフリューがここで会っていることは知らないみたいだった。
あの部屋に連れて行かれることもなく、今は二人並んで椅子に腰掛けて、イエス様の像を見上げている。
「あの、ヒルデガルドさん」
間が持たずに、僕の方から話しかける。
「ヒルダでいいです。姉様もフリュー……と呼んでいらっしゃるのでしょう」
「あ、はい。そう呼んでます」
「そう……」
また、ヒルデガルドさん……ヒルダさんの眉が寄せられる。
くっきりした眉は形もよくて、見とれてしまうほどにきれいだったけれど、あまりいい話ではなさそうなことは見当が付いた。
「あ、あのヒルダさん。本当にフリューの妹さんなんですか?」
僕は思いきって、訊いてみる。
そうすると、ヒルダさんは大きく息を吸い込んで、
「姉は病気なんです」
僕の方を見ないままで、ヒルダさんは言った。
「もう、長くないって医者は言います。私がまだ幼い頃からです」
まっすぐにイエス様を見ながらヒルダさんが何か言っている。
「姉は幼い頃から患っていました。だから人より成長がずっと遅れているんです。私の方が身体が大きいのはそのためです」
ヒルダさんは、そこまで言い切ってしまうと、再び動かなくなった。
僕の方は、何を言われたのかすぐには理解できなかった。
頭の中で、何かがグルングルンと回っている。座っているはずなのに、身体が宙に浮いてしまっているような、自分の居場所がわからなくなってしまったような、そんな心持ち。
いや、自分が生きているのかどうかも、良くわからなくなっていた。
世界に何が起こって居るんだ?
「え?」
何か、とてつもなく不公平なものを感じて、誰かにその理由を尋ねたくて、思わずイエス様に訊いてしまった。だが、彫像は何も答えてはくれない。
僕は何でも良いから返事が聞きたくて、横に居るはずのヒルダさんへと目を向ける。
けれどヒルダさんも、何か言いたそうな表情で、イエス様を見ていた。
「……フリューは知っているんですか?」
そんなヒルダさんの横顔に向かって僕はそう尋ねたけれど、その答えはもうわかっていた。フリューのことなら、僕にわからないはずがない。
「ハンスさん、わかっているんですよね?」
僕の心を見透かしたかのように、ヒルダさんが逆に尋ねてくる。
今までのフリューの言葉、ちょっとした仕草。
そう、わからないはずがない。
フリューは自分の時間が余りないことを知っているのだ。
それがどんなに恐ろしいことなのか――
僕には想像することも出来ない。
いや、想像することから逃げていただけなのかも知れない。
そして、フリューのそういった事情と向き合ってみれば、今日ヒルダさんが現れた理由も思いついてしまう。
それがどんなに嫌なことだったとしても。
「そ、それじゃ、今日ヒルダさんが僕に会いに来たのは……」
「姉はベッドから起きあがれなくなりました。何かしなければならないことがあるって、もの凄くごねましたけど、家から出すわけにはいきません」
感情のない声で、ヒルダさんは説明する。ヒルダさんもきっと怖いんだろう。
フリューがずっと起きあがれないんじゃないかって。
「あんまり言うことを聞かないので、一つだけ姉の願いを聞くことにしました。それがあなたへの言付けです。あなたの名前を聞き出すのも一苦労でしたが……私があなたに会いに来ているのは、家の者も知りません」
その言葉は、誰かへの言い訳のように聞こえた。
「それで、フリューはなんて?」
「『今日は都合が悪くて行けなくなった。必ず用意するから待っていて』……身体のことは、あなたには隠すつもりみたいだったようですけど……」
「僕は馬鹿だから」
泣きそうになるのをこらえて、僕は言う。
「馬鹿だから、ヒルダさんが言ってくれなければ、ずっと気付かなかったかもしれない。フリューは僕の前では、すごく元気で、明るくて……」
それもきっと無理をしていたんだろう。
「……だから、ありがとうヒルダさん」
その言葉に、ヒルダさんの灰色の瞳に涙があふれそうになる。
僕もきっと同じような目をしているに違いない。
それをごまかすように僕は上を向くと、こう尋ねた。
「ぼ、僕は何をすれば……?」
できる事が……できることがあって欲しい。僕は切実にそう願っていた。
「あなたと姉様はどこかで何かをしていたんでしょう」
僕の言葉に、ヒルダさんがそう尋ねてきた。
どこかとは、この教会なのだけれどフリューがそれを言っていない以上、僕からそれを言うわけにはいかない。
そして“何か”も……
「それが何かは、言わなくてもいいです」
先回りするかのように、ヒルダさんはそう言った。
「ただ、あなたはそれを続けて下さい。そうすれば私はあなたが待っていると伝えることが出来る。今の姉様には、それが一番の薬です」
その言葉に、僕はうなずくしかなかった。
「じゃあ、僕からも言付けをお願いしてもいいですか」
ヒルダさんがうなずくのを確認して、僕はこう言った。
「『僕はフリューならきっと出来ると信じている。ずっと待っているよ』」
その言葉を、目を閉じて聞いていたヒルダさんは、刻みつけるように胸を押さえ、そして初めて笑顔を見せてくれた。
「ありがとう。なによりの薬になります」
そして、いつもの別れの鐘が鳴った。
僕はその日からも欠かさず毎週日曜日には、教会に行った。
けれどもフリューは来ない。
ヒルダさんを通じて言葉のやりとりはあったけれど、あの天使のような姿を見ることは出来なかった。
そして夏が終わり秋が来て、僕たちの絵は白い部分を多く残したまま、一歩も先に進めなくなってしまった。