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「姉様! ……驚きましたわ」
ここはヘルマンマイヤーの屋敷。ヒルダは留守にしていると思いこんでいた姉の居室に入るなり声を上げた。なにしろ部屋の緑色の絨毯の上に、その主が座り込んでいるのを見つけてしまったのだから。
今日は日曜で、それも午後。
いつもなら姉はとうにこの屋敷を抜け出しているはずなのだ。
ヒルダの姉、つまりフリューの部屋は屋敷の二階。本来は比較的日当たりの良い部屋なのであるが、窓の外に聳え立つ二本の杉のせいで部屋の中は暗い。
ヒルダが身につけている黒いドレスが、そんな雰囲気を助長していると言えなくもない。
事実、そこはフリューの部屋と言うよりは、ヒルダの部屋だと言われた方がしっくり来るだろう。
そんな薄暗い部屋の中には、天蓋付きのベッド。タンスや鏡台といった数々の調度品。その全てに細かな象眼や彫刻が施されており、一目見るだけで高級品であることが知れた。
ただ、ベッド以外の調度品の全てがあまりにも真新しすぎるのだ。
恐らくは“そこにある”というだけで一度も使用されていないのだろう。
そんな他人行儀な家具と比べてフリューの座り込んでいる絨毯には、たっぷりと生活の跡が見えた。まんべんなく付いた焼けこげに染み。
その原因は、部屋中に散らばったフラスコや炉にあることは考えるまでもない。
その上、触ると崩れ落ちそうな程に本が積み上げられている。部屋の広さが見渡すほどにあるので、さほどの閉塞感はないがこれでもう少し部屋が狭ければ、足も踏み場もなくなっていることだろう。はっきり言って異様だ。
そんな部屋のほぼ中央、白い足と銀色の髪を投げ出して乳鉢で草をすり潰しているフリューの姿が、白い衣服を身につけているせいなのか、浮かび上がって見える。
ほとんど、あばら屋に現れる幽霊のようだ。
「私こそ驚いたわ。あなたが私の部屋にやってくるなんてね。それとも私が居ないときは、いつも私の部屋に来てるの?」
幽霊、もとい部屋の主、フリューは銀の髪を揺らしながら妹を睨め上げるようにして尋ねる。
明らかに詰問じみた口調だったが、ヒルダの灰色の瞳は小揺るぎもしなかった。
「お言葉を返すようですが、ここ最近姉様の部屋からは酷い匂いがするんです。その匂いを少しでも和らげるために、姉様が留守の間に少しでも片付けを、と思いまして」
「あなたが!?」
今度はフリューは驚きの声を上げる。
「エルマやクララに頼めばいいじゃない。何だってあなたが……」
「姉様のやっていることは神様の教えに逆らうことだ、と彼女たちは信じているんです」
そのヒルダの答えに、フリューは納得がいったというように深く頷いた。
そしてそのまま、今し方までやっていた作業――草の絞り汁に熱を加える――を再開しようとしてその手を止めた。
そして再び妹に目を向ける。
「ヒルダ、あなたは平気なの」
「ええ、平気です。これは内密に願いたいんですが、私はあのお方をあまり好きではないのです」
「あのお方……?」
訝しげに眉をひそめるフリューだったが、妹が“誰”のことを言っているのか察しが付いて、驚きに目を見張った。継いで何処か苦笑めいた笑みを浮かべた。
「あなたまで、そんな気持ちになること無いのよ。あなたは……そうね、普通の身体に生まれてきたんだから。文句の付けようがないでしょう?」
何処かしら冗談めかした口調。けれどヒルダは自分よりも幼く見える姉の身体を見て、心の内でため息を漏らした。あの方へ文句なら、聖書に並べられている言葉以上に書き連ねてみせる自信がある。
「それに、あなたぐらいは父様の相手をしてあげないとかわいそうよ」
「ご存じなんですか?」
「あはは、ここ最近色々話を聞く機会が多くてね。この街で何が起こっているかぐらいはわかっちゃうのよね」
二人の姉妹の父親はカール・ヘルマンマイヤーといい、ここマドレッセンで一番の商人であるだけでなく街の運営にも参加していた。ある程度の規模の街ならば参事会という有力者で構成される、街の運営組織を持っている。カールはその参事なのだ。
行政は言うまでもなく、時には犯罪者への処罰まで担当する参事会のメンバーであるということは、マドレッセンでは並ぶもののない権勢の持ち主であることを意味している。
その権力者であるカールが今一番熱心に取り組んでいるのは、マドレッセンに新しい教会を建てることだった。ローマから司教を招くことも考えているらしい。
娘は二人して、その父親の努力をどちらかというと冷めた気持ちで捕らえていた。
そもそも、満足な生を与えてくれなかった相手に、さらに媚びを売ってどうするというのか。
「父様のあれは逃避です」
「逃避……? 何から?」
今度は本当に解らないのか、首をかしげるフリュー。そんな姉に向かってヒルダは意識的に作った笑顔を見せる。
「それよりも、どこから街の噂を聞きつけたんですか? まぁ、心当たりは一つしかないんですけど」
「聞いた曜日は日曜よ。それ以外は言うつもりはないわ」
「それ言ってるのも同然ですよ。おまけに姉様がどなたかとお会いになっているのもよく分かりました」
ヒルダがすました口調でそう告げると、フリューは頬を膨らませて、ヒルダから目をそらした。そして怪しげな作業を再開する。
ヒルダもそれ以上は言わず、あちこちに散乱した実験器具や本をまとめにかかる。が、すぐに限界を感じたのか、手を休めてしまう。
「姉様、本棚を用意させましょうか? 少しは片付くでしょう」
つまりは物を移動させただけでは、少しも仕事をした気分にならないのだ。
「ん~~、いらない」
しかしフリューの返事はすげなかった。
「でも……」
「そういう風に整理されちゃうと、錬金術師っぽくないでしょ」
その姉の答えを聞いて、ヒルダは口を歪めた。そして改めて周囲の本を見渡した。そして薄暗い部屋の中で鈍い光を照り返す数々の実験器具。
ヒルダにはここにある物のほとんどが理解できない。
実験器具は言うまでもなく、積み上げられた本も数ページもめくれば、本の中身が頭の中からはみ出してしまう。つまりはまったく理解できない。中には異国の言葉で書かれた本もあって、ヒルダにはそもそも読めない本も多い。
フリューの知性は間違いなく希有なものなのだろう。それはきっと、あの方からの贈り物と呼ばれる類の才能だ。
しかし、あの方はその才能を生かすだけの時間を姉には与えてくれなかった。
そんな姉を持った、平凡な自分は一体どうすれば良いというのか。
「……それで、今日はなぜ家を抜け出さないんですか?」
自分のそんな気持ちをごまかすように、ヒルダは努めて冷たい声でフリューに問いかける。するとフリューはまた頬を膨らませた。
「……言わないって言ってるでしょ」
「姉様の恋人が来ないんですね?」
ごくさりげない口調でヒルダは聞いたが、その言葉に対するフリューの変化は激烈と称しても良いものだった。
白皙の肌がほとんど深紅に染まり、銀色の髪が生き物のようにざわめき始める。もちろん作業どころではない。震える手をそのままに、青い瞳でキッと妹を睨みつける。
「何か文句でもあるの?」
「私がいつ文句を言いましたか?」
姉の怒りに対して即座に切り返すヒルダ。虚を突かれて動きが止まるフリュー。その隙にヒルダはさらに言いつのる。
「私はそう……どちらかというと歓迎しているのでしょうね。姉様にそういう人が出来たことを」
自分自身の心に問いただすようにしながら、ヒルダは答える。そして、そう口にしたことで自分自身の心情が固まったのか、最後にはぎこちないながらも笑みを浮かべることも出来た。
フリューもその笑みを見て、妹が本気でそう思っているのだと言うことを理解した。
「……ありがとう、ヒルダ」
「それで、その恋人さんにはどんなご用事が?」
ヒルダの笑みは一瞬で消え、再び何処か感情が欠落したような声でさらに姉を追い詰める。それでいて、関心なさそうに部屋の片付けを再開していた。
フリューはその妹の黒いドレスがヒラヒラと舞う姿を目で追いながら、何処か不安そうな表情を浮かべる。妹の真意がまったく読めないのだ。
ハンスと――もちろん名前だって教えるつもりはないのだが――自分のことに文句がないという。それどころか歓迎しているという。
正直なところを言うと、あまり信用できない。
仲が良い姉妹とは決して言えない間柄だ。
今日の会話だけで一年分を済ませてしまった。
だが、今のヒルダは素直に可愛い妹だと思える。
問題は何だってハンスのことを聞いてくるのか、と言うことだ。
実は後を付けられていて、ハンスの事を見たのかも知れない。もしそうなら、横取りしたくなる気持ちも分かる。ハンスはあんなに魅力的なのだから。
(ああ、つまり私は嫉妬しているのか)
頭の中の冷めた自分が、冷静に自分の感情を説明する。
「……職場のお付き合いで、どうしても来れないんだって」
フリューは結局、正直に話すことにした。嫉妬いうのはつまり、自分と相手がいないと成り立たない感情で、ヒルダが興味を示しているのは多分自分なのだ。
と、いうことにした。
「ああ、なるほど。殿方はよくそういう言い訳をするようですね」
一瞬、この小憎らしい妹に怒りを覚えるが、そこは年上の余裕で見逃すことにした。
「言い訳って何? ハ……じゃなくて、私の恋人は私に夢中なの。今日だってね、夕方には会える……かもしれない」
「なるほどなるほど」
ヒルダの黒いドレスが、フリューをからかうように翻る。
フリューはもう相手にするのはやめた。再び作業の手を進める。つまり、ヒルダは自分をからかいたいだけなのだ。
でもまぁ、こういう時間も悪くもない。これからも同じ家で過ごすことが、少しばかり楽しく思えてきた。
――残されている時間が短いにしてもだ。
「で、もう一つ良いですか? 姉様」
「駄目って言っても聞くくせに。何?」
「あの方が気にくわないにしても、今まで姉様は自室でこれほどの……実験ですか? それをしなかったでしょ?」
ヒルダのその指摘に、フリューはばつが悪そうに視線をあらぬ方向へと向けた。
「少しは考えていただきませんと、さすがにお父様に知られてしまいますよ」
「あ~、それはそうよね。でも、今掛かってる仕事が――」
「仕事?」
訝しげに問い返すヒルダだったが、姉の浮かべた表情を見て逆に驚いてしまった。そこには、とびきりの笑顔を浮かべたフリューがそこにいたからだ。
「そう、仕事! いいわね、こういう責任のある作業をするっていうのは。そうなのよ、これは仕事なの。それも、とびっきりの大仕事よ!」
ヒルダは姉の突然の感情の爆発に、戸惑うばかりだった。何しろフリューが何をしたいのか、何をしようとしているのか、それが一つもわからないのだ。
けれど、姉の笑顔を見られたことだけはヒルダにも嬉しかった。
「……姉様、私がその恋人さんを歓迎していると言ったのは、何だか姉さんが元気になられているような気がしているからなんです」
「私が?」
今度はフリューが、ヒルダの言葉に驚きの表情を浮かべる。
「ええ……そのまま姉様が良くなってくれるんじゃないかって……そんな事まで考えてしまいます」
そっと目を伏せて、何かから逃げるようにしてそう告げるヒルダ。
フリューは、ヒルダの視線が自分から外れていることを確認してから、そっと首を振った。
「そうね、本当にそうならどんなにいいでしょうね」
しばしの沈黙が部屋を覆い尽くす。フリューは作業の手を止め、ヒルダのドレスの裾も翻ることもない。
お互いがお互いを牽制している――というような雰囲気ではなく、お互いがお互いを気遣って、次の一歩を踏み出せない。
「それで、姉様の仕事とは何ですか?」
結局、自分の自分の役割を思い出したかのように、ヒルダが話題を元に戻す。
「あははは、言わない」
フリューもまた、ヒルダに応じるながら自分を取り戻す。
だが、今までの妹との会話に気が緩んでいたのかフリューは普段なら言わないことを、その後に付け足した。
「知ってる、ヒルダ? あの方はね、私達にとっておきを隠してあるのよ。私達はそれを見つけてしまった」
「それは……?」
「だから私は確信しているの。この仕事を成し遂げることが出来たのなら、それはきっと人間が神様に……」
フリューが神の名を口にするのは、ほぼ十年ぶりのことだった。
それほどにフリューとあの方――神とは敵対した間柄だったのだ。
そして皮肉なことに、その一瞬にフリューは神の存在を確信した。
「姉様!」
ヒルダの悲鳴が聞こえる。
ああ、ならばこの全身を貫くような痛みは嘘ではないのか。「神に勝てる」と言いかけたその瞬間に、死を覚悟する間もなく冥府に放り込まれたかと思うほどの絶望も。
やはり“青”は神のとっておきなのだ。
そして私は、そこに手を伸ばそうとしていた。だから神の怒りに触れ、わずかに残った命すらも取り上げられようとしている。
だからフリューは確信したのだ。
自分に不条理を押しつけた存在が確実にいるのだということを。
「姉様! 姉様! 姉様……――」
夢にまで見た青が、黒に塗りつぶされてゆく。