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第二章 夏 ~神様のとっておき~
夏の熱い空気がじっとりと僕たちを包み込んでいた。マドレッセンは冬にはとびっきり寒くなるくせに、夏は夏でとっても暑くなる。
筆を持った僕の顎の先から汗がポタリと落ちた。
僕の後ろで何かをグツグツと煮ているフリューの方からも気怠そうなため息が聞こえてくる。
それが暑さのせいなのか、それとも行き詰まった色作りのせいなのかは、わからなかった。
そう僕たちの絵はまだまだ空白部分が多いまま立ちつくしていていたのだ。
僕の――僕たちの絵は拾ってきた板に描くことにした。
布を木枠に張って描くという方法もあるってレオナルドは言っていたけど、何だか頼りない気がしたので、僕は板に描く方を選んだ。
大きさは、横が僕が両手を広げたぐらい。高さは大体僕の頭から膝ぐらいだろうか。
初挑戦にしては大きい、ってレオナルドは言っていたけれど、僕は別に絵描きになりたいわけじゃないし、それなら空が大きく描ける方がいいと思って、この大きさにした。
部屋の窓の大きさもそれぐらいだから、そのまんま描けばいいという、計算もちゃんと立ててある。
拾ってきた板を切りそろえて、それを木枠に打ち付ける。
何とか格好が出来たところで、フリューの出番だ。
後はこの板に下地の処理をしなければならないんだけど、板を選んだ段階で、もう色が必要だったからだ。
必要な色は白。
僕がそれをフリューに告げると、
「ちょっと計画とは違ってくるけど、わかった白を先に作る」
と言って、翌週にはちゃんと白の絵の具を作り出した。それどころか何種類かの筆も用意してあった。
どこから持ってきたのかと聞いたら、
「家にあった」
と、とっても簡単に答えてくる。僕は筆のことを聞くのは諦めた。お金持ちの家だから、必要なさそうなものまで置いてあるのだろう。
それよりも白い絵の具はどうしたのか聞いた。
フリューはそれをとっても聞いて欲しそうだったから。
「あのねあのね、鉛を使うの」
「鉛?」
それから、フリューはどうやって鉛から白い絵の具を作るのかの説明を始める。
相変わらず僕はフリューの説明のほとんどがさっぱりで、揺れる銀の髪がきれいだな、とかそんなことを考えているうちに、フリューの説明は終わっていた。
「……わかった?」
「ええと、鉛を錆びさせると白が出来るってことかな」
僕がかろうじて理解できたのは、それぐらいだ。フリューは僕の答えを聞いて、複雑な表情を浮かべてしまっていた。
「……間違っているんだけど、微妙にあってるような気もするわ」
「フリューが白を作ってくれるのはすごいと思うよ。だから僕はもうそれだけで満足」
「う、うん。で、でもねこれだけは言っておかなくちゃ」
照れた表情を浮かべるフリューに油断して、僕は笑いながら聞き返す。
「何?」
「この白色には毒があるの」
ヒキッ……
自分の表情が固まってしまったのが手に取るようにわかる。
「なんだって?」
「だから、絶対口に入れちゃダメよ。まあ板に塗るわけ何だから、大した問題じゃないでしょ」
「そ、そんな危ないよ。他の方法で白は出来ないの?」
「出来ない」
きっぱりと言い切るフリュー。そうすると僕は何も言い返せなくなってしまう。
「大丈夫よ。食べるわけじゃないんだから。管理をキチンとしてればね」
「管理……」
僕は部屋のあちこちに散らばった、本や実験道具見回しながら、ぼそりと呟いた。
今度はフリューの表情が引きつった。
「いいから、ハンスはその下地とか言う作業をやっちゃてよ」
慌てて僕に作業を促すフリュー。
「他に先に必要な色はないの? 言ってくれればそれから先に作るから」
「あ、じゃあ黒かな」
「黒ね。白と黒か……考えてみれば一番基本的な色よね」
言いながらブツブツとフリューは。黒を作る方法を考えることに熱中しはじめた。
僕はそんなフリューを見ながら、窓の横に立てかけてある板に向かう。
とにかくレオナルドの言っていたことを思いだして、作業を始めよう。
そこから先の作業は、まず順調だったと言ってもいい。
フリューが黒を作るために、桃の種を真っ黒になるまで燃やし始めた時は、狭い部屋の中からいぶり出されそうになったりもしたけど、それも何とか乗り越えた。
僕は出来た黒を使って、下地処理の終わった板の上にあたりを取っていく。
その間にもフリューの作業は進む。
花や木の皮、あるいは土から、黄、赤、緑と色を作り出していった。
色の種類が増えていけば、後はそれを組み合わせればいい。
僕たちは協力して、色んな色を作り出していく段階にまで進んでいた。
灰色に見えていた城壁は、そのまま灰色を塗るだけでなく少し赤を混ぜることで、より本物に近くなった。
城壁の外の緑の風景にも、その色を作り出してみようと思えば、それは決して緑だけではないことに気付く。
緑の中に混ぜる色は、赤、橙、黄、それに黒や灰色まで。
遠く見える黒い森には、その名前通りに黒を塗るのじゃなくて、持っている色を全部混ぜ合わせて、黒にした色を塗った。
世界がこんなにも色んな色で出来ていることに、僕とフリューは驚き、そして素敵なことを発見したと、笑いあった。
けれど、ある日僕たちはそれ以上の世界を創造できなくなってしまう。
ある色がどうしても作れなくなってしまったのだ。
――その色の名前は“青”。
フリューは何度も何度も、色んな方法、色んな材料で青を作ろうとしていた。
けれど、どうしても出来ない。
考えてみれば、世の中にある青はあの空だけだ。
それがあまりの大きくて広いので、僕たちは青についてとっても鈍感になってしまっているけれど、地上には青いものはほとんどない。
たまに青い花びらの花があるけれど、
「ああいうのは色を取ろうとすると、変色しちゃうのよ」
きっと、もう試したんだろう。
フリューは落胆しながらそう言った。
それでもフリューは決してあきらめることなく、青を作り出そうと一生懸命だった。
その姿は何だか焦っているようにも見える。
僕は僕で、描ける部分をより細かく書き足していってみたり、春の風景を思い出して、主に緑の色を変えていったりしていった。
そして、それが終わる頃になっても、青はまだ出来ない……
いつしか空は夏の色を通り過ぎて秋の始まりを予感させる色に変化していた。
やがてその空も、季節に関係なく赤く染まり始める。
僕たち二人は窓の下の壁に背中を預けて並んで座っていた。
僕の右手はフリューの左手を握りしめて、フリューの頭は僕の右肩に寄りかかっている。
二人とも何だか疲れていた。
「ごめんね」
下地の色が多く残ったままの僕の絵を見ながら、フリューがそう言った。そこにはフリューが作ってくれる青で空を描く予定だ。
それは絵の半分以上を占める大きな空白で、その大きさはきっとフリューの心を締め付けているに違いない。
僕はたまらなくなってフリューを抱きしめる。
「ど、どうしたのハンス?」
「ごめん」
僕は謝った。
色んな言いたいことがあったのに、僕はそれだけを言うのがやっとだった。
フリューはそんな僕を、まるでお母さんみたいにやさしく抱きしめてくれた。
「あなたは何も悪くないのよ、ハンス。青はハンスにはどうしようもないんだから」
そしてやさしく僕を慰めてくれる。
だけど僕には、納得できなかった。僕にはどうしようもないと言うことが。
だって青以外の色は、色々試してみれば大体のものは作り出すことが出来たのだ。
僕はそれをフリューに告げてみる。
「でも、今まで作ってくれた色を混ぜれば、青は出来るのかもしれない。僕の頭が悪いから、何か大事なことを忘れているだけかも……」
「色は二人で作ってるんでしょ。それは私の頭も悪いって事?」
わざと意地悪な物言い。
僕は泣きたくなるのをじっとこらえて、フリューの瞳をじっと見つめる。
その瞳の色は、今何よりも欲しい青。春の青い色。
そんな僕の頬を小さな手で挟んで、フリューは僕に言い聞かせる。
「たくさんの色を作り出してわかったの。きっと青は神様のとっておきなのよ。簡単に人間にはくれないわ」
そう言いながらも、フリューの青い瞳は燃え上がる。
「だけど安心して。神様からきっとあの青を取り上げてみせる。きっと錬金術師の使命ってそういうことなんだわ」
その力強い瞳に圧倒されて、僕は思わずうなずいていた。
「来週の私に期待して」
「う……あ、そうだ。来週は僕ここに来れないんだ」
「え?」
その時のフリューの表情はさっき僕を圧倒したような迫力は全然なくて、ただただ不安そうだった。
そんなフリューにこれ以上不安な思いをさせたくないので、僕は出来るだけ明るく、ここに来れない理由を説明する。
「レオナルドがね、この夏一杯で別の街にいっちゃうんだ。その前にピクニックに行こうって親方が。そうすると僕も絵のことについて話を聞くのは最後になっちゃうし、聞けることは全部聞いておきたいから」
そう説明すると、フリューの表情からは不安そうな色は消え去った。
その代わりにとっても悩んでいる表情を浮かべる。
「僕だって、本当はここに来たいよ。でも、親方の言うことは出来るだけ聞いておきたいって理由は前にも話したよね。それならレオナルドと話す方を選んだ方が二人のためになると思ったんだ」
「それはわかるけど……」
「ピクニックが終わって、間に合うようならきっとこの場所に来るから」
そこまで言うと、やっとのことでフリューはうなずいてくれた。
「わかった。じゃあ私は来週、一人で青を作ってる」
最後に恨み言を言われたけど、それはそれでフリューが元気になってくれた証拠だと思って僕は何も言い返さなかった。