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マドレッセンの商人街に一際大きな屋敷があった。
街一番の大商人、ヘルマンマイヤー家の屋敷だ。
切り立った三角屋根が高くそびえる、石造りのがっしりとした造りで見る者を圧倒する。
鉄格子の柵で囲まれた庭はとても広く、その敷地内で二本の大きな杉の木が、屋敷と高さを競うかのように、まっすぐに立ちつくしていた。
そんな大きな屋敷の玄関ホールのテラス部分に姿を現した者がいる。二階の自室から出てきたところらしい。真っ黒な髪を肩口で切りそろえた娘だった。姿勢の良いまっすぐな足取りのその娘には、今身に付けている、喪服のような黒いドレスがよく似合っている。
そして何よりも印象的なのは、意志の強そうな太い眉と灰色の冷え切った瞳。
彼女の名前はヒルデガルド・ヘルマンマイヤー。
ヘルマンマイヤー家の次女である。ヒルデガルド――ヒルダは玄関ホールを見下ろすその視界の隅に、何か白いものがあることに気付いた。
注意してよく見ると、それは屋敷の扉からすぐの場所に白い服を着た人間が座り込んでいるのだと気付いた。
「姉様!」
ヒルダは慌てて、姉――フリューの下へと駆け寄った。
「誰か! 誰かいませんか?! 姉様が!」
ヒルダの声に、屋敷のあちこちから使用人が顔を出した。
そして、フリューの姿を認めると、全員が慌ててその側へと駆け寄った。
ヒルダは座り込む姉の横にひざまずいて、その顔を覗き込む。
ヒルダの表情は険しい。
「姉様、大人しく寝ていなければダメです」
その声も強い調子になる。けれどフリューはトロンとした瞳でヒルダを見つめ、
「寝ていてもダメなんでしょ」
とあっけらかんと答える。
そんな姉に、ヒルダは怒り覚えた。
けれど自分より年上のはずなのに、小さなままの姉の身体を見ると何も言えなくなってしまう。その身体も今は疲労の極致にあるのか、いつも以上に力が感じられない。
ハァハァという、フリューの浅い呼吸音だけが玄関ホールに響いていた。
使用人達もそんなフリューの様子に哀れさを感じるのか、勝手に抜け出されてしまった怒りも忘れて、全員が瞳を潤ませている。
「大丈夫だよ。今はやりたいことができたから、そんな簡単には死んじゃったりしないよ」
けれどフリューはそんな皆の様子には構わず、そう宣言する。
「やりたいこと? 姉様、そんな無理をされては困ります」
ヒルダは声を荒げる。けれどフリューはそんな妹に微笑んで見せた。
「無理もしなくちゃ。時間が……」
言いながら、フリューの身体が沈み込む。
眠ってしまったのだろう。
そんな姉の姿に、ヒルダは唇を噛んだ。
「……姉様を部屋へ。今度はちゃんと見張っているように」
ヒルダは短く告げた。
それに反応して、フリュー付きのメイド三人がフリューを丁重に抱きかかえて、玄関ホールから姿を消した。
「父様は……商談だったわね」
自分で確認するように、ヒルダは呟いた。
「使いを出しますか?」
執事が尋ねてくる。
それをヒルダはうるさそうに片手を振って、下がらせた。
「何にしろ間に合わないわ」
ヒルダは、まるで誰かに言い訳しているかのように、そう言った。
僕が教会から帰ると、マリーカが家の前で待っていた。
もの凄く怒った顔で。
いつものことだから慣れてしまった僕は、それに怯むことなくマリーカの前まで歩いて行く。マリーカは背中まである茶色の巻き毛を白のスカーフで押さえ込んでいるいつもの格好だ。きっと今日はおかみさんと買い物でもしてきたのだろう、エプロンには何かの野菜の汁こびり付いている。
そして、髪の色よりも濃い茶色の瞳は、まっすぐに僕のことを見つめていた。
その瞳を見返しながら僕は、
「ただいま」
と言ってやった。
マリーカは渋々ながら、
「おかえりなさい」
と言った。その後で、いつものようにこう尋ねてきた。
「どこ行ってたの?」
「何度も言ってるだろ、商人街だよ。嘘だと思うならついてくればいいんだ」
僕がそう言うと、マリーカは「うーーー」と唸って、何も言い返せなくなる。
マリーカの商人街嫌いは相変わらずで、僕の行き先はわかってはいるのにまったく付いてこようとはしない。
こんなに嫌いなのだと知っていれば、もっと早くに商人街に探検に行ったのに。
そうすれば、もっと早くフリューの会えたわけで……
「な~~にを考えてるの?」
マリーカが、そこばっかり大きくなった胸を突き出すようにして、僕に詰め寄ってくる。
マリーカもフリュー程ではないにしても僕よりは背が低いから、そんなことをしたら胸の谷間がばっちりと見える。
もっとも見えたからといって、どうこうなるというわけでもない。
それはマリーカがマリーカだからだ。
「マリーカ。胸が見えそうだぞ」
そう言ってやると、マリーカは顔を真っ赤にして、僕の膝を蹴飛ばす。
「痛ぇっ!」
「ハンスの馬鹿! あっち行ってよ!」
言いながらマリーカは家の中に飛び込んでしまった。僕はそれを見届ける余裕もなく、膝を抱えてうずくまる。
マリーカがマリーカなのは、こういう乱暴なところだ。
フリューも僕によく飛びついてくるけど、それは全然乱暴じゃなくて……
「見てたぞ色男。マリーカちゃんってばかわいそうに」
うずくまった僕の頭の上から声がする。
振り返りながら上を見上げると、やっぱりレオナルドだった。レオナルドも自由時間を満喫して帰ってきたところなのだろう。
「見てたんならわかるだろ。かわいそうなのは僕だよ」
「確かに君の足は痛かっただろうけど……」
そう言いながら、レオナルドは僕に手を伸ばす。僕はその手を掴んで立ち上がった。
けれど見上げる状態には変わりはない。レオナルドは僕が知っている人の中で一番背が高い。それも飛び抜けて。
「マリーカちゃんの心はもっと痛かったかもしれない。ダメだよ、マリーカちゃん胸のこと気にしてるんだから」
「そうなの?」
僕はそのレオナルドの言葉に不思議なものを感じて首を傾げる。
レオナルドはそんな僕を見て、苦笑を浮かべた。
レオナルドは黒髪の巻き毛で、瞳も黒い。垂れ下がった目尻と、先の尖った顎の持ち主でそんな表情をするととても気障に見える。
「そうだよ。マリーカちゃんはあの胸のおかげで嫌いな男の子につきまとわれていると思ってるんだ。本当はマリーカちゃんが可愛いからつきまとってるんだけどね~。難しいねぇ、あの年頃は」
「可愛い? マリーカが?」
僕は思わず聞き返していた。そうするとレオナルドは心底悲しそうな表情になって、
「君、それだけはマリーカちゃんの前でやっちゃだめだよ」
「う、うん」
僕は、よくわからないままにうなずいておいた。そして、肝心なことを思い出す。
「そうだ、レオナルド。僕に絵を教えてくれない?」
「絵?」
レオナルドは、僕の言葉に首を傾げる。
「そりゃあいいけど、ここじゃちょっと道具が足りないな」
レオナルドははそう言うけど、僕にはどうすることも出来ない。何しろ何が足りないのかもわからないんだから。だから、思いつくままに、続けて頼んでみた。
「それじゃあさ、難しいかもしれないけど、こういう時はこうする、みたい感じに教えてくれないかな。それなら道具がなくても出来るだろ」
レオナルドは腕を組む。尖った顎を一撫で。
そして、こう言った。
「でも、それじゃいつまでたっても絵は描けない」
「色……絵の具はあてがあるんだ。ただちょっと、ここに持ってくるっていうのは……」
どう考えても無理だ。
フリューがどんな風に色を持ってくるのかもわからないし、この家で本格的に絵を習うっていうのは、ちょっと想像しにくい。
ここで仕事の合間にレオナルドに教えて貰って、日曜の午後に実践というのが、僕にとって一番都合がいい。
……でも、この方法はちょっと虫がよすぎるような気がしてきた。
「む、無理かな?」
僕は恐る恐るレオナルドに尋ねてみた。レオナルドは僕を見下ろしながら――
笑っている?
「いや。絵なんか本当は自由に描くべきなんだ。その前の基本的なところを教えるのはそんなに難しくないと思う。もちろん、二三回は失敗する覚悟はあるんだろうね?」
僕は熱心に頷いた。
そんな僕を見て、レオナルドは一瞬真面目な表情になる。
「いやはや、これはマリーカちゃんには目もくれないわけだ。君、恋をしてるね」
僕に指を突き付けながら、レオナルドはニヤリと笑う。
図星を指された僕は、頭に血が上ってくるのをイヤでも意識した。
「では、さっそく今晩から講義と参りますか。色男君」
レオナルドは笑いながら家へと向かい、僕もその後に続く。
僕たち――僕とフリューは、この時まだ知らなかった。
神様から、あの空を取り上げることがどんなに大変なことなのかってことに。