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第一章 春 ~出会い~
日曜日――
マドレッセンの真ん中を流れるハーゼル川。そこに架かる橋を越えて、僕は違う教区に行く。暗く厳しい冬は終わり、暖かな春の日差しが街中を包んでいた。教会に行く前に久しぶりにお風呂に入ったので、体中に染みついた革や膠の匂いは、それほど酷くはないのも良かった。
別に嫌いな匂いではないけれど――というか、嫌いだったら仕事にならない――こんな晴れた日にはやっぱり、似合わない匂いだと思う。
僕は改めてマドレッセンに吹く春の風を、胸一杯に吸い込んだ。
マドレッセンはこの辺りでは、なかなか大きな街らしい。
――らしいというのは、僕はこのマドレッセン以外に他の街を見たことがないからで、親方の家にやってくる渡りの職人達が、皆口を揃えてそう言うので、多分そうなのだろう。
実際の所“この辺り”というのが、どのぐらいの広さなのかも見当もついていない。
近くのもっと大きな街はと言えば、別の国の街らしくて確か……ウ、ウィーンという名前だったような気がする。革職人としての修行を続けていけば、その内に行くこともあるかも知れない。けれどまぁ、先の話だ。
マドレッセンは、森から切り出した木材をハーゼル川に乗せて運ぶときの中継地点として発展していった街だとも聞いたことがある。
けれどそれは昔の話で、今は近くの銀や銅の鉱山が近くで発見されたために人がたくさん集まってきたんだと、親方は何処か不機嫌そうに教えてくれた。
僕が住んでいる職人街から、商人街へ。
通りが広くなって、石畳の上も随分きれいだ。
ただその分、空が狭くなったように感じる。いや感じるだけでなく実際に見える空は小さくなっている。職人街では高くても二階建ての、それも木造が一般的だけれど、今いる商人街は見た目にも威圧的な石造りの建物が多くて、何処かよそよそしい。
それに加えて、すれ違う大人達が着ざらしで、あちこちに汚れや引き裂き傷のある僕の服を見て、露骨に顔をしかめるけれど、そんなことに構っていられない。
僕には日曜日の午後しか時間がないんだから。
人を避けることが出来るぎりぎりの速さで大通りを駆け抜けて、商人街の中心にある立派な教会へと向かった。何しろ高い建物が建ち並ぶ、この商人街の中でも飛び抜けて高い建物だ。職人街からも天辺の十字架はよく見えている。
その大きな教会の両開きの扉を片方だけ開けて、こっそりと中に入る。
朝のミサも終わって、閑散としている礼拝堂を、やっぱり音を立てないように通り過ぎると、祭壇の脇にある扉へと向かう。
僕の住んでいる教区にある小さな教会だと、その扉はそのまま鐘楼へと向かうだけで他には何にもないのだけれど、ここの教会は鐘楼に向かう扉は別の所にあって、この扉は別の所に続いている。
扉を開けると、上へと向かう階段。その階段を上りきれば、
――そこには天使が待っている。
僕の名前はハンス。
生まれはマドレッセン郊外の小さな村で、十歳の時に街の革職人ゲオルグ親方に弟子入りした。いわゆる見習い職人になったわけだ。
ゲオルグ親方は僕が言うのも何だけど本当にいい人で、僕のように街の外からやって来て他の親方に弟子入りした連中の話を聞く分には、随分恵まれているみたいだった。
ゲオルグ親方は拳ぐらいの石を集めて作ったような、厳つい顔の人で、貰うげんこつも石で殴られたみたいに痛いけれど、わけもなく僕を殴るようなことは決してなかった。
それに少しずつだけれど、仕事もきっちりと教えてくれる。
しかも、日曜日には休みをくれるのだ。これで文句を言ったら罰が当たるだろう。
日曜のミサが終わって、普段の日より豪華な昼ごはんを食べると、そこから先は夕食までは自由時間になる。
最初の頃は、親方の娘のマリーカと遊ぶばっかりだった。
相手が女の子なので、家の中で遊ぶことが多くて、正直今思い出しても人形遊びに付き合わされたのは、あまり良い思い出とは言えない。
実家に居たときも妹たちを相手にしていたのだけれど……女の子はどうして、ああなのだろう。父親役と子供役を同時にすることに無理に早く気付いて欲しい。実家に残っている弟たちが心配だ。
やがて背が伸びて、街に慣れてくると、そうやってただ遊ぶことだけに時間を使うのがもったいないような気がしてきた。
そうすると、まずは職人街の探検から始めた。マリーカがその後ろを付いてくるので、遊んでいるのとあまり変わらない気分だったけど、それはともかく探検なのだ。
一番最初の探検は親方の家を出入りする、猫の後を付けることだった。端から見ていると、それは猫に率いられた一団みたいに見えているに違いない、とある日気付いたので、この探検はすぐにやめた。
けれどこの探検のおかげで、職人街の道に詳しくなったので僕の行ける場所は随分と広がった。日曜ごとにしか会わなかった見習い職人仲間とも、色々話をすることが出来た。
それは随分と面白かったのだけど、ここでもやっぱりマリーカはどうにも邪魔だった。
構わないと泣くわ、怒るわ、でもう手も付けられない。
そこで、橋を渡って商人街を探検することを始めた。昔、怖い目に遭ったとかでマリーカは商人街には一歩も足を踏み入れようとしない事に気付いたからだ。
どうも、僕が親方の所に弟子入りする前に、怖い目に遭ったらしいので詳しいことは知らないのだけれど。
そんなわけで商人街にやっては来たものの、さすがに職人街とは随分勝手が違った。まず住んでいる人が全然違う。当たり前の話なんだけれど、着ているものが違うだけだと思ったら大間違い。
下手に路地裏にでも入れば疑いの目で見られるし、普通に道を歩いていてもずっと見張られているような気分になる。
そんな視線に負けて商人街から逃げ出すのもイヤだったので、僕は意地になって商人街の探索を続けた。そしてある時、商人街の中心にほど近い場所に大きな教会を見つけた。
ただ教会は商人街の他の建物とは徹底的に違うところがあった。誰でも自由に入ることが出来るという点だ。
もちろん入ったところで何も出来はしないのだけれど。
最初の頃は、ただ呆然とステンドグラスを見上げたり、イエス様の像を眺めたりしていた。
その内に、この教会の神父様が日曜のミサの後は必ず昼寝をしていることに気が付いて、今度は教会の中の探検を始めた。
そして、すぐに階段を見つけた。
はじめは鐘楼に出るのかと思って、期待もしていなかった。実際、本当に登ろうと思ったのは一月ぐらい経ってからだったと思う。
一月後にやっとの事で見上げた階段の先には陽の光が差し込んでいて、窓がある事は見当が付いた。それで、とにかくその窓から見える景色にだけ望みを掛けて、階段を上ってみる。
けれど昇った先は、鐘がつり下がってなくて、石の壁に囲まれた小さな小部屋があっただけだった。何のための部屋なのか、今ひとつわからなかった。
何の部屋だろうと思って、僕は部屋の中を覗き込む。
――そして、僕は自分の目を疑った。
そこには天使がいたからだ。
うずたかく積まれた本の山。散乱する小さなガラス瓶や小型の炉。それに使い方の見当もつかない変な用具。そんな風に部屋の中は散らかり放題で、埃も舞っていた。
けれど陽の光を浴びてキラキラと輝くガラス瓶のせいか、埃すらも天使の和毛の様にも思える。
そして、そんな光の中に女の子が眠っていたのだ。
銀色の長い髪。真っ白な大きなおでこ。形の良い唇を半開きに開けて、くーくーと寝息を立てて眠っている。
部屋の中に一つだけ開いている窓の下。壁に背中を預けて、ふんわりと広がる輝く銀の髪はまるで翼のようだった。
女の子は白いゆったりした服を着ていて、手も足も宙に浮いているみたいに床に投げ出されている。あまりにも無防備なその姿に、僕は思わず見とれてしまった。
女の子は相変わらず眠ったままで、僕は吸い込まれるように一歩一歩、女の子に近付いていく。
女の子の前にしゃがみ込んで、手をついてその顔を覗き込む。
きれいだった。
本当にステンドグラスに描かれた天使そのままに、瞬きを忘れてしまうほどにきれいだった。
時の経つのも忘れて、じーっと見つめ続ける。
すると、女の子の目が開いた。
青い。
青い瞳。
春の空の色のような、淡い青い瞳だった。
その瞳が、瞬きを一つ。
「あなた、誰?」
目が開いたということは、僕のことが見えているということで、女の子の問いかけは当然だった。実際の所、悲鳴を上げられても文句を言えないところだ。
と言うかこの女の子、冷静過ぎはしないだろうか。
「え、えっと……」
僕はそうやって答えながらも、さらに強い違和感を感じていた。
なぜなら、女の子の表情は僕を怪しんでいるようなものではなくて、どちらかというと珍しいものが見れたと喜んでいる様な表情だった。
「あ、そうか。私はフリューリング。フリューでいいよ。で、あなたは?」
女の子――フリューはもう一度尋ねてきた。自己紹介をしたから、僕にも名を名乗れということなんだろう。確かに順番は間違っていない。
「ぼ、ぼくはハンス。えーっとハンスはハンスとしか呼んでもらえないね」
我ながら、実に馬鹿なことを言った。
「そんなこと無いと思うわ!」
フリューは突然に叫んだ。
僕はびっくりしてしまって、そこで初めて女の子――フリューの前から飛び退いた。
けれどフリューの方は、そんな僕の馬鹿な自己紹介に、ひどく興奮した様子だった。いきなり立ち上がって銀の髪を振り乱し、身振り手振りまで加えて熱弁を振るう。
「私はね、自分の名前をただ短くしただけの愛称には疑問を持っていたの」
この天使は小難しい言葉で喋った。なんとなく浮世離れしているように思っていた僕の第一印象は、この段階で微塵に打ち砕かれた
「これだから長い名前はダメよね。その点、あなたの“ハンス”という名前なんか、色んな改良の余地があると思うわ。そうね、ハンとかンスとか」
それを聞いた僕は顔をしかめざるを得なかった。結局のところ短くしているだけだし、何よりも……
「ま、まぁ、ンスってのはないわよね」
良かった気付いてくれた。
見ると、フリューは頬を真っ赤に染めている。自分でも失敗だったと後悔しているのだろう。
「つまり私が言いたいのは“ハンス”という名前に囚われずに、もっと自由に愛称を付ける努力をするべきなのよ」
「それって、つまりあだ名を付けるってこと?」
全然脈絡がない言い訳に、僕がそう聞き返すと、フリューは何だか落胆した表情になった。
「……つまらない結論になったわ。あなたの記憶から消しておいて」
「え、え~~と……」
僕は言葉を見失ってしまう。
そのまま改めて彼女を見つめ直す。フリューが立っている姿を見て気付いたのだが背はあまり高くない。その背丈と顔つきから考えると僕より少し年下ぐらいなんだろうか。
体つきは華奢で、最近胸ばっかり大きくなってきているマリーカに比べたら全然子供っぽい。
彼女はそのまま座り込んでいる僕の周りをグルリと回ると、大きく開かれた窓枠に腰掛けて、僕を見下ろす。
「ハンスって呼んでいいのよね。どうしてここにいるの?」
「あ、ご、ごめん。来ちゃいけないところだったの?」
僕がそう聞き返すと、フリューは少し寂しげな顔をして、
「そんなこともないけど……」
「僕は探検の途中でここに来たんだ」
フリューにはそんな顔をして欲しくなかったので、僕は慌てて説明する。
「探検?」
「ええっとね……」
僕は、この教会にたどり着くまでの経緯数年分を、一気にまくし立てた。
フリューは僕が職人街から来たのだと知ると同時に、僕の目の前に膝をつき合わせるように座り込んで、感心するほどの熱心さで僕の話を聞き続けてくれた。
僕はその内に、マリーカの話をすることを出来るだけ避けて、最後には話を面白くするために、盛大に尾ヒレを付けて説明を終えた。
「そうか……この街ってそんなところもあるんだ」
フリューは主に職人街での話が気に入ったらしく、その話することを何度も僕にせがんだ。
「フリューはこの街の人じゃないの?」
説明の合間に、何気なく尋ねると、フリューは不自然なほどの笑顔を浮かべて、こう答えた。
「ううん。この街の人だよ。それどころか、この街からは一歩も外に出たことがないわ。あ、ハンスの話だと商人街というところからも出たことがないみたい。橋を渡った覚えもないもの」
「そうなんだ。じゃあどこかの商家のお嬢様なんだね」
「うん、そう。私、お嬢様。住んでいるところはとっても大きな家だし」
「それってお屋敷ってこと?」
「そうね。お屋敷だわ」
そう言ってフリューはクスクスと一人で笑い始めた。
「さっきのハンスの話だと、私の家は知らないみたいね。私の家の庭にはね、大きな杉の木が二本あって、まるで門番みたいに私を見張っているの」
フリューは身振り手振りで、熱心に杉の形を教えてくれる。どうやら、フリューの部屋にその杉の木の影が入り込んでくるらしく、それが彼女は不満らしい。
「もっとも本当は門番なんかいないから、ここに来るのはそう難しくないんだけど」
「どうしてここに?」
「それはね……」
今度は、フリューの説明が始まった。
フリューは自分のお屋敷では、とても不自由な思いをしていて、ときおり使用人の隙を見ては、お屋敷を抜け出すらしい。
抜け出しておいて、どうしてこんな場所にいるのかというと、彼女がやりたいことに問題があって……
「錬金術?」
「そう。錬金術」
「で、でも……それっていけないことなんじゃ……」
僕の教区の神父様がそういっていたのを聞いた覚えがある。僕は部屋の中に散らばる実験器具を見ながら、恐る恐るそう言った。
神様の教えに背くような事も平気で行う、魔法使いと大差ない怪しげな連中。
目の前の女の子は、自分がそうだと堂々と名乗りを上げたのだ。
何だか圧倒されてしまう。
「それはね、大人達の陰謀なのよ」
僕の言葉にフリューはきっぱりと言い返してきた。
「錬金術っていうのはね、色々な知識の集大成なのよ」
「シュウ……タイセイ?」
そんな僕の戸惑いに構わず、フリューはさらにこう言った。
「きっと子供達に知恵を付けられては困るから、錬金術を禁止してるんだわ。私はね、錬金術をかじり始めてほんの少しで、ベッドに入るまでの時間を長くすることに成功したのよ!」
正直に言うと、僕はこのフリューの言葉にかなり呆れてしまっていた。
最初に天使に思えた女の子は、随分親しみやすいところにまで降りてきてくれたらしい。なんだかマリーカよりも幼く見えてきた。多分同い年ぐらいだとは思うのだけど。
きっとお屋敷の人もフリューの屁理屈に言い返すのが面倒になって、諦めたんじゃないのだろうか。
けれど、そんなことを言ってフリューの気分を悪くするのもイヤだったので、そのまま黙っていると、フリューはそれを賛成の意味だと受け取ったようだ。
「わかってくれるのね!」
確かに、こんなほんの僅かの時間でフリューのことはわかったような気がしたけど、彼女の言っている意味はきっとそうじゃない。
僕がまた返事をためらっていると、彼女は近くにあった本を広げながら、さらに説明を続ける。
「ここを見て。この本を書いた人もこう言っているの――」
残念ながら、僕は字が読めない。
僕はそれを言おうとしたのだけれど、フリューの終わりがどこにあるかもよくわからない錬金術の説明は途切れることなく続き、いつしか完全に引き込まれていた。
僕がこの街の探検者なら、彼女は本の探検者だった。
この部屋にある本の全てを知り尽くしているようで、小さな身体であちらこちらに散らばる本を引っ張って来ては、僕に見せて、明らかに本に書かれている以上の言葉で僕を圧倒する。
そして時は流れ、教会の鐘が鳴り、窓の外が赤く染まり始める頃、僕は帰らなければならないとフリューに告げた。
フリューは自分もそうだと言い、そして最後にこう言った。
「次はいつ会える?」
僕は、その言葉にとっても驚いた。
なぜなら僕は彼女の話を聞くばっかりで、最後の方は、ああ、とか、うん、としか言えてなかったからだ。
きっと、彼女は僕のことをつまらないと思っているに違いない。
そんな風に考えて落ち込んでいた僕にとっては、その言葉は涙が出そうなほどに嬉しかった。
「に、日曜の午後! それなら大丈夫」
勢い込んでそう答える僕に、フリューはにっこりと笑って、
「それじゃ来週ね」
と答えた。
――そして、その約束は毎週日曜日の夕方毎に交わされ続けている。