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第五章 七年後 ~再びの春~
七年ぶりのマドレッセン――
僕は丘の上に立って、これから帰る街を見ろしていた。
色々な街を渡り歩いてきたから、故郷とも言えるこの街が、随分小さい街だとはっきりわかってしまったけれど、やっぱりこの街は特別だ。
それに修行に出た頃よりは大きくなっていると、ヒルダさんからの手紙に書いてあった。
ヒルダさんのお父さんが、拡張工事を行ったらしい。
親方は渋い顔をするだろうけど、新しい鉱山が見つかったことも影響しているんだろう。
その親方からの手紙では、注文が増えて弟子を新しく二人取らないとやっていけなくなったとも書いてあった。街の人口も増えているのは間違いない。
足下では雪の下で耐えてきた草花が、風に吹かれて優しくそよいでいる。
季節は春だけど、初春というほどの季節ではない。
まぁ、それも当たり前の話だ。冬の間は当然帰ることは出来ないし、春になってしまえば細々と些事があって、なかなか旅立つことが出来なかった。
そんなこんなでやっと帰ってきたな、という思いもあるけれど、修行はもう終わりだという安堵感もある。
一時期、ふわふわしていた事もあったけど、親方の後を継いで、そしてこの街で死んでいこう。そう思うことに、今は何の迷いもない。
それに――
マドレッセンではマリーカが待っている。
あのお転婆がずいぶんと大人しくなったらしい。
あくまで親方の手紙での話だから、本当かどうかはわからないけれど。親方の手紙の言葉が、妙に言い訳じみていたのは多分気のせいじゃないだろう。
今にして思えば、子供の頃はずいぶんとマリーカを傷つけていたと思う。
だからマリーカが子供の頃のマリーカのままであっても、それはそれでいいと思うのだ。フリューに対するものとはもちろん違うけれど、あの頃のマリーカも僕は好きだった。
――と思う。
何、慌てることはない。
それを確かめる時間はたくさんあるさ。何しろ僕は帰ってきたんだ。
マリーカとはこれからずっと同じ時間を過ごすことになる。
僕は丘を下り、マドレッセンへと歩みを進めた。
その道すがら、黒いドレスを着た女の人が立っている事に気付いた。
どうやら僕を待っていたようだった。
「ハンスさん」
懐かしい声で呼びかけてくるその人の事を忘れるはずもなかった。
「ヒルダさん。どうしたんです?」
彼女はその灰色の瞳を僕に向けて微笑んで見せた。
背はあれからほとんど伸びなかったらしい。逆の僕の方はドンドン大きくなって今ではヒルダさんを見下ろしている。
何だか変な気分だったけど、これもまた街に訪れた変化の一つなのだろう。
僕は鞄を担ぎなおしながら、ごく自然に微笑み返した。
考えてみると、あの日フリューと別れた後のヒルダさんのことを全然覚えてなかった。我ながら酷い奴だ。
「お帰りになると伺いましたので、待ち伏せです」
けれどヒルダさんはあの頃よりも屈託のない、表情と口調で僕を出迎えてくれた。
だから僕も、昔のことを蒸し返すのはやめた。
今更謝っても仕方がないし、何よりヒルダさんは笑っている。
「言葉は物騒ですけど、お出迎えありがとうございます。最近はお父様の仕事をお手伝いしているそうで。お忙しいでしょうに」
僕がそう言うと、ヒルダさんはまたクスクスと笑った。
「な、何か?」
「だって、そんな丁寧な話し方、何だかハンスさんに似合わなくて」
「ああ……こういう言い方を覚えると、もめ事に巻き込まれないと……去年覚えました」
「去年……ですか?」
ヒルダさんはそう言うとまた短く笑った。
こんなに笑う人だっただろうか。
「……街まで歩きましょうか?」
「ええ」
僕の横にヒルダさんが並び、しばらくは黙って歩いてゆく。周囲の風景が変わらないのに、マドレッセンの城壁だけがドンドン大きくなっていった。
なんだか、マドレッセンが僕たちに近づいてきているような、そんな錯覚を覚えてしまう。足下の草が丈夫すぎるのか、何だか雲の上を歩いているような感触がそれを助長していた。
「……ヒルダさんは気付いていたんですか?」
思わず僕は聞かなくてもいいことを口にしていた。
結局はそう……心の中に何か引っかかりがあったのだろう。
「何をです?」
「フリューが、どうやって色を作り出そうとしていたのかです」
ヒルダさんの足が止まる。
フリューが何をしようとしていたのかは、あれからの手紙のやりとりで伝えてある。
ただ、最後にフリューが何を考えていたのか、そして実際にあの時僕と何をしたのかは伝えていない。
どう伝えればいいのかわからない――いや、やはり本当のことを伝えるのが怖かったのだと思う。
でも、やっぱり彼女は気付いていたのか。
昔と同じように、ヒルダさんの表情が消えてしまっている。
もし、フリューがそれをしているところを見てしまったら……
きっと、どうしようもない恐怖にさいなまれていたはずだ。何しろ血を求めていたのだから。自分の姉が怪物になったようにしか思えなかっただろう。
「……ハンスさんは、わかっていたんですね」
「あの日、フリューに血をねだられました。僕はその理由も知っていましたけど、さすがに他の人には話せません」
「私は実際にあなたの絵を、“青”を観ました。それでも……あの色が血から作られたというのは……信じられません」
「他の街で、ある画家の噂話を聞きました」
答えてしまってから後悔する。
どうやら僕は、未だにフリューのこととなるとムキになってしまうらしい。
このまま聞き流してくれないかと期待しながらヒルダさんの方を伺うと、続きを促しているのか、変わらぬ灰色の瞳でじっと僕を見ていた。
「……本当の話かは確認してませんよ?」
一応、無駄な抵抗というものをしてみる。ヒルダさんは小さくうなずいて、僕の逃げ道を断った。
「……僕たちはただ青色が欲しかっただけです。でも、その画家というのは白が欲しかったらしいです。その……僕たちが作ったような簡単な白じゃなくて、もっと特別な白です」 我ながら要領を得ないが、間にどのぐらい人が入っているのかわからない話だ。
それと悟ってくれたのか、ヒルダさんも特に口を挟んでこない。
「で、どうもその画家はですね病気の犬の血を……恐らくは何かの植物と混ぜて……」
そこまで言ったところで、ヒルダさんの足が止まった。
灰色の目が空を見上げる。何かを思い出しているのだろうか?
「ヒルダさん?」
思わず声をかけてしまった僕に、再びヒルダさんの目が向けられる。
「……それで、あの日の姉の真意がわかりました。それにしても……病に罹った血ですか……」
「そう……なんですよね」
恐らくは普通の血では、どうにもならなかったと思う。
フリューがあの“青”を求める限り、フリューが病気であることは絶対条件だった――ということになる。
「ハンスさん、いつかの話し覚えてます? 私が姉が好きなのか嫌いなのかわからないって話です」
「え、ええ……」
忘れるはずもない。
「最近、答えが出かかっていたんです。そして今、ハンスさんの話を聞いて、わかったような気がします」
そう言ってヒルダさんは笑った。
「私は姉様を愛していたんです。今なら胸を張って言えます」
「え……でも、嫌いって」
「愛という感情には、そう言った諸々の感情を含んでいると思うんです。あの方……神様はそういう風に我々を作ったんだと……そう思えて仕方がないんです」
「…………」
「姉様にも、最後にはつじつまを合わせて来ましたしね」
「ヒルダさん。それ全然褒めているように聞こえませんよ」
「そうですね。褒めてませんから」
そう言って、ヒルダさんはまた笑った。
「第一、一番頑張ったのは誰がなんと言っても姉様とハンスさんです。特に姉様のハンスさんを想う気持ちには、計り知れないものがあります」
僕は何も言わずに黙って、ヒルダさんの言葉を聞いていた。
「あの姉の心に触れていなければ、あるいは私はあなたの事を好きになっていたかもしれませんね」
その言葉に、僕は立ち止まる。
ヒルダさんの灰色の瞳の奥に僕はいつかの青色を見ていた。
――声が聞こえる。
懐かしい声だ。七年振りだというのに、誰の声なのかはすぐにわかった。
きっと散々耳元で怒鳴られたせいだろう。
僕は声の主、マリーカに手を振った。
「こっちだ、マリーカ!」
隣にいるヒルダさんも手を振っている。
僕がいない間に、二人は知り合い、そして仲良しになったとそれぞれの手紙に書いてあった。
そういえば、あの日僕が残していったあの絵を、ヒルダさんがマリーカに見せたらしい。
その時に来たマリーカの手紙――親方の代筆だったのかヒルダさんの代筆だったのかは覚えてない――は、ほとんど半狂乱だった。
凄い、物凄い、とってもきれいだ。
大体そんな内容が、そこから先三回ぐらいの手紙はずっと興奮しっぱなしだった。
が、面白いのはその次の手紙から、まったく絵のことに触れなくなったことだ。
恐らく、僕の絵を褒めすぎて、僕が絵描きになりたいと思い出したら困るとでも思ったんだろう。
どうしてわかるかというと、僕もそんなことを考えたことがあるからだ。
そう思って、いわゆるちゃんとした絵を見に行ったこともある。
そして、その時に思った。
僕に絵描きは無理だ、と。
もちろんあまりにも僕が下手すぎることに改めて気付いたと言うこともある。
でも、それ以上に僕の絵をそれでも“観られる物”にしていたのは、フリューの青だと気付いてしまったから。
そして、あの青はフリューが居なければ、作ることが出来ない。
――いや、フリューが居なければ意味がないのだ。
僕は、それがわかったとき何だか誇らしい気持ちになって、一生を革職人として過ごすことをはっきりと決めた。
何年か前の手紙で、僕はヒルダさんとマリーカにそう伝えてある。
「ヒルダさん、抜け駆けは無しよ」
僕たちに駆け寄ってきたマリーカは息を弾ませている。
格好は子供の頃に来ていたエプロンドレスと変わらないように思える。少しは成長したんだろうけど、あまり変わったように思えないのは僕が大きくなった分と同じ分だけマリーカも大きくなったんだろう。
いやまぁ、背の高さだけじゃなくて実際、綺麗になったと思う。
……ヒルダさんからの手紙で、そうとは知らされていたけど、人間目で見ないものはなかなか信じられないものだ。
「抜け駆けどころか、今ハンスさんを口説いていたところですよ」
そのマリーカに、ヒルダさんは澄ました顔でとんでもないことを言った。
「なんですって~~~!!」
即座に声を上げるマリーカ。全然変わってない。
「冗談だ冗談。ヒルダさんもマリーカの性格わかっていて、余計な事言わないで下さいよ」
「私とマリーカさんの仲の良さが良くおわかりになったでしょう。今ではこういう間柄なんですよ」
どうも笑うようになったヒルダさんには敵いそうもない。
僕は肩をすくめながらマリーカの方を見て笑って見せた。
そんな僕を見て、マリーカも笑みを浮かべる。
「ハンス、久しぶり。父さんから話は聞いてるよ。随分偉くなったね」
「偉いって……」
「最年少でマイスターになったんでしょ。胸を張ってもいい実績ですよ」
ヒルダさんの耳にも僕の噂が届いているらしい。
僕は苦笑を浮かべ、こう言った。
「僕には天使がついているからね。なんてことはないのさ」
自分の行き先が定まったのなら、フリューにも誇れるような自分でありたかった。そして、それはこうして形になった。
「……そう言いたいためだけに、努力したんでしょう」
「まだ、少し妬けるんだけど」
僕の気取った言葉に、二人の女性からそれぞれの感想を頂く。
そして三人で、マドレッセンへの道を歩き始める。
「親方は元気?」
「元気元気。ハンスと一緒になって、何を作ろうかって今も悩んでる真っ最中。母さんはますます太った」
「マリーカだって、年をとったら太っていくんだよ。娘なんだから」
「べ~~~~」
舌を出すマリーカ。
「そちらは?」
「商売は順調。父様は別の街でまた教会に寄進しているみたいです。この街でも教区の中にもう一つ教会を建ててしまえる程に寄進しているというのに」
その言葉に、僕の中で七年前の疑問が思い浮かんだ。
「……それじゃ七年前のクリスマス・イブのミサは……」
「新しい教会で行われたはずです。父様はマドレッセンの参事もしていますから、それにしっぽを振る人が――商人街のほとんどの人が集まったはずです」
そうだったのか。
だから、あの日あの教会にはほとんど人がいなかったんだ。
もしかしてフリューもそれを知って……
「……それじゃ僕からも、一つ。あの“青”の話」
マリーカはその言葉に振り返り、ヒルダさんは足を止めた。
「――僕はあの時絵を描いた服を、そのままバックに詰め込んで、この街を出た。だから服のあちこちにあの“青”が付いていたんだ。それを見た他の職人見習いがその青のことを他の人に話した」
いささか調子が良すぎるきらいのあった、半年だけの仲間のこと思い出す。
「“青”が珍しいことをそいつは知っていたんでしょうね。すぐに街にいる画家が僕の所にやってきた。その画家もやっぱり画家見習いでね、最後には画家の親方がやってきたよ。そして、僕とフリューの“青”に名前を付けたんだ」
丘の上を、マドレッセンに向けて風が駆け抜けた。
その風に乗せるようにして僕は言う。
二人の“青”の名前が、あの空へと舞い上がる事を期待して。
「その色の名は――