17
「お嬢様」
振り返ると、執事が立っていた。
「お体に障ります。どうか屋敷の中へ」
「姉様の容態は」
執事は黙り込んでしまう。
かなり良くないようだ。
ヒルダは唇を噛んだ。
(ハンスさん……)
どうか、今この時だけは……
ヒルダは呪い続けたあの方に、初めて祈りを捧げた。
雪は降っていない。
よかった。
ただ、日はもう傾き始めていて、雲の隙間から覗く空はすでに赤味が掛かっていた。
秋の終わりに、ヒルダさんの後について通った道を思い出しながら、僕は道を駆け抜ける。
絵は、あの毛布でくるんで脇に抱えていた。
大きいのでとても持ちにくい。
けれど落とすわけにはいかない。
落として割れてしまっては何にもならない。
――こんな事なら布に描いておけば良かった。
そんな後悔も頭の中をよぎるけれど、今はとにかく急ぐ事だ。
杉の木が見え始めた。
大丈夫、道は合っている。
そして、門の前に立つヒルダさんを見つけた時、気を抜いてしまったのか僕の足はとうとうもつれてしまった。
一瞬で、ヒルダは“それ”が一番大事なものなのだと理解した。
だから、転びそうになるハンスを放っておいても、毛布に包まれた“それ”を受け止めた。
正直、大きすぎて完璧に受け止められるはずもなかったが、転びながらも必死で支え続けたハンスの助けもあって、なんとか“それ”は無事だった。
「ハンスさん、待っていました。これが姉様が命を賭けてあなたに託したものなんですね」 その言葉に、ハンスは力強くうなずく。
「ヒルダさん、フリューは?」
「危険な状態です。早く、姉様のところに」
ヒルダはそう言いながらも屋敷へと小走りに向かってゆく。
その後に続くハンス。
どこに向かえばいいか二人ともわかっている。
だから、その足取りに澱みはない。
二人は屋敷の扉を開けて、二階への階段を駆け上がる。
両開きの扉を、それぞれに開ける。
部屋の中には、身なりの良い紳士。背が高くたっぷりとした黒い口髭を生やしているが、その表情は暗く、また疲れ切った顔をしていた。
もう一人は黒い革鞄を携えた男。小太りで、それ以外は特徴のない平凡な男だったが、身なりから医者と想像できる。
そして、ベッドの上に横たわる透明なフリュー。
「誰だ君は!? そんな汚らしい格好をして、すぐに出て行き給え!」
身なりの良い紳士が一喝する。
「お黙りなさい」
すかさず応じたのはヒルダ。
地獄の底から響いてくるような声で、紳士に応えたのはヒルダ。
「この方は、姉様の恋人です。父様が他の街に逃げている間、ずっと姉様を輝かせてくれていた人。姉様の身体の事を知っても、逃げ出さずに立ち向かってくれた人。父様、出て行けとは言いませんが、この人の邪魔をする資格はあなたにはありません」
灰色の瞳が、まっすぐに紳士――姉妹の父親を射抜く。
紳士はその瞳から目をそらし黙り込んでしまう。
けれどハンスは、そんな二人のやりとりにはまったく構わずに、スタスタとフリューが横たわる寝台へと近付くと、ごく普通の声で、
「フリュー、待たせたね」
「遅いよ、ハンス」
応じるフリューの声もごく普通の声だった。
その声に、もう一人の男――侍医が目を見張る。
「ごめんよ。これでも急いだんだ」
「わかってるわハンス。でも、もう少しで待ちきれなくなるところだった」
その言葉に、ハンスの表情にはっきりとした動揺が浮かぶ。
けれどフリューが浮かべる微笑みに、ハンスは再びごく普通な様子を装って、持っていたものから、毛布をはぎ取った。
――そこにある風景は春。
あの教会の窓から見える、マドレッセン郊外の姿は春そのものだった。
柔らかな春の青い空の下で、緑の大地も、爽やかな風も、そして小鳥たちのさえずりも、全てがそこにあった。
それは春の世界に飛び込むための窓。
そしてフリューは思い出す。
春のあの日、ハンスに初めて会ったあの日の事を。
屋敷を抜け出しただけで力尽きて、そのまま死んでしまうんじゃないかと気弱になってしまっていたその時、目の前に現れた男の子。
柔らかな光を放つ金色の髪はまるで太陽のようだった。
緑の瞳は、命脈打つ若葉を思わせる。
その男の子は“春”そのものだった。
自分の名前と同じ“春”そのものだった。
「ああ……ハンス、私たちまた春に会う事が出来たんだね……初めて会えたあの季節に……」
その言葉に息を呑む、父親と妹。
けれどハンスは力強くうなずいた。
「そうだよフリュー。僕たちが神様から“青”を取り上げたんだ。だからこれからは、いつだって春に会える。神様が貸してくれって泣きついてきても、決して貸したりはしない。この空は、フリューと僕だけのものだ。フリューが“青”を作って、僕が空を描いた。だから……」
その声が、涙ににじむ。
けれど、ハンスは話す事をやめない。
「……フリュー、君もだ。君も僕が神様から取り上げた、絶対に全部僕のものだ。そのきれいな銀色の髪も、優しい声も、見とれてしまうような青い瞳も全部僕のものだ。一つだってやるものか。僕の天使。僕だけの天使――
――フリュー!!!」
その声に応えるように、フリューの手がハンスの方へと伸ばされ――
――ベッドの上に落下した。
あの青い瞳は二度と開かれることがない閉じたまぶたの向こう。
けれど、その瞳の“青”は、少女が命を賭けて作り出した“青”の中に生きていた。
少女の恋人によって描かれた春の中に――
ハンスはフリューの前でただ泣き続け、
――そして春になり街を出て行った。