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神様から取り上げて  作者: 司弐紘
第四章 冬 ~聖夜の夜に~
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16

 目覚めると、僕の側にはフリューの姿はもうなくて、ただ冷えた毛布があるだけだった。

 けれど、僕は自分が何をすべきなのか、はっきりとわかっていた。

 この部屋の隅で“青”を待ち続けたあの絵を完成させる。

 

 ――神様から空を取り上げてみせる。


 僕はそう決意して、絵筆をとった。


 ヘルマンマイヤーの屋敷で、その長女であるフリューリングが発見されたのは、朝方のことだった。

 場所は屋敷の玄関ホール。

 けれど、その身体は衰弱しきっており、慌てて駆けつけた侍医もただ脈を確かめることしかできないような、危険な状態だった。

 急ぎ、主人であるヘルマンマイヤーに連絡が取られ、使用人達は意味もなく右に左に屋敷の中を動き回る。

 そんな中、フリューリングの妹であるヒルデガルドだけは、じっと門の前に立ちつくしていた。

 白い雪の中で、黒いドレスのヒルデガルドはただ、一人の少年を待ち続ける。


 僕は神を呪い、自分自身を呪った。

 こんな肝心なことを忘れていたなんて。

 油だ。

 絵は油を使って描く。

 だから絵が乾くまでは、動かせない。重ね塗りも出来ない。

 いつもなら時間はあった。

 けれど今は違う。

 もう時間はない。

 ――きっとない。

 今日中に、この絵を仕上げなければ意味がない。

 ここには“青”がある。

 フリューが命がけで作ってくれた“青”だ。

 けれど、今それを塗り始めると――

 何か方法はないか?

 問題が油である以上、僕に出来る方法は早く乾かす方法を考えることしかできない。

 けれど、それが思いつかない。

 レオナルドは何か言っていなかったか?

 ああ――でも、早く描く方法なんて教えて貰った覚えがない。

 だってあの頃は、僕とフリューには無限の時間があると信じていたのだから。

 くそ!

 僕は何にもわかっていなかった。

 この絵にフリューが託した思いも何もかも……


 トントントン……


 階段を昇ってくる音が聞こえる。

 そんな馬鹿な。ここは僕とフリューしか知らないはずだ。

 じゃなければ、絵が残っているはずもない。昨日、人が来ないはずもない。

 けれど、実際に人は昇ってきて、僕の目の前に現れた。

 エプロンドレスに、やたらに大きな胸を弾ませて肩で息をする女の子。

「マリーカ……」

 間違いなくマリーカだった。

 その目は涙に濡れていたけれど、間違いなくマリーカだった。

「ハンスの馬鹿! こんなに心配させて何やってるのよ!!」

 いきなり怒鳴りつけられた。

 そうだった。

 今の今まで親方のことを忘れていた。僕は昨日の晩いきなり飛び出して、それから今まで何の連絡もしないでここにいる。

 親方の所を追い出されても、文句も言えないような、無茶苦茶なことをしている事に今さらながら気付いた。

 だけど今、帰るわけに行かなかった。マリーカが強引に僕を引っ張っていこうとしても……

 いや、それよりもマリーカがどうしてここに?

「マリーカ、ここ商人街だぞ! どうしてここに来れるんだ?」

「そんなの!」

 マリーカは叫ぶ。

「そんなの、好きな人が行くところだもん! 私が怖いのなんか関係ない! 我慢できる! でも、ハンスが他の女の子と仲良くなっていくのは我慢できなかった!!」

 ハァハァと肩で息をしながら、マリーカは叫び続けた。

「マリーカ、知って……」

「知ってるわよ、当たり前でしょ! あたしはあなたの後ろについていくって、ずっとそうやって……ああ、もうあたしの馬鹿!!」

 最後にそう怒鳴って、マリーカはスカートのポケットからビンを取り出した。

 ビンの中身は液体。

 

 ――まさか?


「レオナルドの最初の手紙と一緒に送られてきたの!」

 マリーカは叫び続ける。

「でも、私はこのビンのせいで、ハンスがあの女の子ともっと仲良くなっていくのかもと思うと我慢できなかった。だから……」

 マリーカはうつむいて唇を噛む。ポロポロとこぼれる涙が、マリーカの足下を濡らしてゆく。

「だから、隠してしまったの……ごめんなさい……」

 じゃあ、あの日僕を捜しに街をうろうろしていたのは、そんな自分の気持ちをごまかすため?

 親方は、手紙のそこの部分を黙っていたのか。マリーカがどうにかして丸め込んだのか……僕の修行の妨げになると思ったのか。

 いや、この際そんなことはどうでもいい。

「それをどうして今になって?」

「朝になってもハンス帰ってこないし、きっとここにいるに違いないって。それで、もしかしたら私がこれを隠したから、何かが出来なくなって戻ってこられないのかもって、だからビンを」

 相変わらず無茶苦茶な理屈だけど、今回だけは助かったかもしれない。

「それで、レオナルドは手紙でなんて言ってたんだ? いや、もう使った方が早い」

 僕はマリーカの手からビンを取り上げる。

 絵筆をひたす。

 次にフリューの“青”を取り出して、木の板の上でその液体と、青とを混ぜた。

 ここまでは他の色と同じ感触だった。液体は間違いなく油だ。

 僕はそこでいったん息を止め、立てかけてあった絵に向かい合う。

 そして、白く放置されたままの描きかけの絵に向かって“青”を引いた。

「うわぁ……」

 マリーカの声が上がる。

 僕も叫びだしたいのを必死で押さえ込んでいた。

 そこにあるのは間違いなく春の空。

 フリューと瞳と同じ色の“青”。

 間違いない。

 これで空を取り上げることが出来る。

 ただ、この油が……

「レオナルドは早く描くために必要なものだって」

 マリーカの言葉は、今の僕に一番必要な言葉だった。

「ハンスは今、大変な事に挑戦していて、そのために絵を描く時間が取れないかもしれないって。だから旅の途中で見つけた――」

「充分だ。後は僕が頑張るだけでいいんだ。こんなに簡単なことはない」

 僕は勢いで“青”を塗りたくりそうになるのを、必死の思いでこらえていた。

 それではダメだ。

 思い浮かべるのは、春の空。そしてフリューの瞳。


 ――良し。


 再び、青を引く。

 空を取り上げてゆく。

「……マリーカ」

 僕は絵から目を離さずに、話しかける。

「え?」

「親方に謝っておいてくれないか。今日はもう戻れそうにない。けれど明日には必ず戻る。僕をまだ弟子でいさせてくれるなら、必ず戻るって」

「ハンス……でも……」

「説明は、後からするから。今はとにかく時間がないんだ!」

 叫んでしまう。

 マリーカ相手には、一番やっちゃいけないことだ。

 きっと、ムキになって怒鳴り返し来るに違いない。

 けれどいつまでたっても、怒鳴り声は返ってこない。

「……わかったハンス。ちゃんと説明してくれるなら、父さんにはちゃんと伝える。それに安心して、ハンスを追い出させたりはしないから」

 その言葉に振り返ると、マリーカが今まで見たこともないような、素敵な笑顔で僕を見ていた。

「頑張ってハンス。いつかあたしにもその絵を見せてね」

 そう言って、マリーカは部屋を飛び出していった。

 後に残る光の粒。

 僕はその後ろ姿を見送った後、ただ空を取り上げることに没頭していった。



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