15
一年の中でも一番特別な日。
クリスマス・イブ。
イエス様の誕生を厳かに祝う日。
親方の家でもいつも通り、パーティが行われた。
いつも通りでないのは、僕の方だった。
去年までなら、ごちそうが食べられる、とそれだけで浮かれ気分になっていたけれど、今年はどうにも心は浮き立たない。
おかしな事に今年はマリーカも大人しかった。去年までなら、おかみさんの焼いてくれる甘い焼き菓子の匂いに興奮して大騒ぎをしているところだ。
僕が春から修行に出ることを、未だに引きずっているのだろうか?
けれど、本当なら静かに過ごすべき聖なる夜だ。
これが正しいのかもしれない。
パーティも終わり、窓の外の降りしきる雪を眺めながら、そんなことを考えていた僕のところに、おかみさんが何だか見たこともないような表情でやって来た。
「ハンス、あんたにお客さんだよ」
「客?」
言うまでもなく、随分前に日は沈んでいる。こんな夜中にやってくる客に心当たりはなかった。首を捻りながら玄関に向かう。
吹き込んでくるだろう、雪と冷たい風に覚悟を決めながら扉を開けると、待っていたのは灰色の瞳。僕は驚いて思わず声を上げた。
「ヒルダさん?」
「姉様がいないんです!」
僕を見るなり、ヒルダさんは叫ぶ。
ここまで走ってきたのか、頬は上気し吐く息はどこまでも白い。
髪は乱れ、急いで羽織ってきたのか黒いコートの前はきっちりと合わさっていなかった。
そして手に持っていたランプは割れて使いもにならなくなっている。
じゃあ、ヒルダさんはこの暗闇の中を駆けてきたのか。
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
ヒルダさんは、僕に縋り付くようにして、話し続ける。
「……気付いたら、どこにもいなくて……杉の木の間の柵の綻びも直していたのに、家の中にはいなくて……」
「と、とにかく落ち着いてヒルダさん」
僕はコートの上から、ヒルダさんの肩を掴む。
「フリューがいなくなったて、気付いたのはいつなんです?」
「つ、つい先程です。それで、まっすぐにハンスさんのところに……」
考えるまでもない。
フリューはあそこだ。
僕はヒルダさんの脇を抜けて走り出した。
「ハンスさん!」
背中からヒルダさんの声が聞こえる。
「心当たりがあります! でも、ヒルダさんは家に戻ってください!!」
それだけ言って、僕は闇の中を突き進む。
フリューはいつからあそこにいるんだ?
こんな寒い雪の日に、あの石造りの部屋の中にいるなんて、普通の身体でも命取りになりかねない。最悪の可能性が頭をよぎる。
僕はその悪い考えを振り払いながら、あの教会へと急いだ。
積もった雪が凍っていて、走りにくい。
降りしきる雪が僕のすぐ先の道の様子も覆い隠す。
それでも僕は、ただひたすらに教会を目指していた。
もう何度転んだのかは、覚えていない。
身体のあちこちが悲鳴を上げているけれど、その悲鳴に付き合うのは後回しだ。
ヒルダさんとの待ち合わせに使っていた、あの橋が見える。
欄干に手を掛けて、それを頼りにして曲がる。
足を取られそうになりながらも、身体の向きを変えて商人街へ――
クリスマス・イブだけど教会でのミサはもう終わっているはずだ。
もちろん人はいるだろうけど――
くそっ!
フリューはいったい何時からあそこにいるんだ?
ミサの前に教会に潜り込んでいたとしたら……
いっそのことこの教会にいなかった方が――
馬鹿な考えに身を委ねそうになり、頭を振る。
あの部屋にいない方が、もっと最悪だ。
中に人気がないのを確認して、ゆっくりと教会の扉を開ける。
祭壇の上のイエス様の周りには揺らめく蝋燭の炎。
その灯りを手がかりにして、礼拝堂の中を見渡す。
人は……いない?
そんな馬鹿なと思うけれど、そんな事情にかまっている暇はない。
急いであの部屋へ行かなくては。
祭壇の隣の扉を開ける。
階段が見えた。
二段とばしで階段を上る。
部屋に飛び込む。
僕はその部屋の中に、何を見出すことを期待していたのだろうか?
微笑むフリューの姿。
あるいは、くーくーと寝息を立てて幸せそうに眠るフリューの姿。
あるいは――
あるいは……
現実はどれとも違っていた。
フリューはあの窓枠に腰掛けて、呑気そうに降りしきる雪を眺めている。
その足下にはうずくまった毛布。
なるほど、それで寒さをしのいでいたんだろう。けれど、身体に悪い事に変わりはない。
声を掛けようとした瞬間に、フリューもこちらを見た。
僕が入ってきたことには気付いていたのだろう。
そして、無邪気に笑いながらこう言った。
「遅いよ、ハンス」
「フリュー……」
そのあまりに変わらぬ様子に、僕は胸をなで下ろすよりも先に、呆れてしまった。
そして改めて、フリューの姿に見とれてしまう。
夜にフリューの姿を見るのは初めてだった。
彼女の銀の髪は、闇の中で輝きを増しているかのように輝いている。
そして、その青色の瞳は夜の闇よりも深く、見つめているだけで吸い込まれそうだった。
「……フリュー、ヒルダさんが探していたよ」
僕はやっとの事でそう言うことが出来た。
「ヒルダには、後で謝っておくわ」
「で、でも……」
「もう時間がないの」
その言葉に、僕の心臓が跳ね上がる。
「知ってるんでしょ、私の身体のこと」
「あ、そ、それは……」
うまく口が動かない。
「もう長くないの。自分のことだからわかるわ」
「そんな、フリュー!」
叫んだけれど、その先が続かない。
レオナルドに医者を捜して貰っている。
僕もこの春から、街を出て探しに行く。
そんな言葉が頭の中に浮かんでは消えた。
――間に合わない。
その言葉が全てを打ち消してゆく。
「だから、私は今できることをする。これを見てハンス」
フリューは身体の影に隠してあった、ビンを取り出した。
「まさか……フリュー」
「“青”だよ、ハンス。やっと作ることが出来た。これで絵が完成できるね」
僕はそのビンをまじまじと凝視した。何しろほとんど真っ暗な部屋の中だ。けれど、月の光を受けて輝く、フリューの銀の髪がビンを仄かに照らしていた。
そこに見える色は間違いなく“青”
僕たちが求めたあの“青”だった。
でも、今重要なのは“青”よりもフリューの身体――命だ。
「フリュー、絵のことはいいよ。そんなことより君の身体は……」
「そんな事じゃない!」
フリューが叫ぶ。
「私にはもうこれしかなかった。神様に文句を言う方法はこれしかなかった」
フリューは窓枠から下りて、二つの足で立つ。
「ハンス、前に言ったよね。私はまだ本当に男の人に愛されたわけじゃないって。だからまだ私は神様の天使」
フリューは左手でビンを僕に向かって差し出す。
僕がそれを受け取ると、今度は右手を差し出してきた。
「ハンス、その青をあなたにあげる。そして私もあなたにあげる」
僕はフリューの右手を取った。
「だから、あの空と私を――」
――神様から取り上げて!
僕はその言葉に息を呑んだ。
そしてフリューが何を求めているのかを理解した。
フリューの身体が僕の腕の中に飛び込んでくる。
その感触のあまりの軽さに、僕はいたたまれなくなって身体を抱きしめてしまう。
フリューの濡れた青い瞳が僕を見上げる。
その瞳を見つめながら、僕はフリューに口づける。
――そして僕たちは冷たい石造りの床に倒れ込んだ。
……フリューの身体は雪のように冷たかった。
僕はその雪が溶けないように、出来るだけ優しく抱きしめ――
――フリューを僕のものにした。