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第四章 冬 ~聖夜の夜に~
日曜日以外の僕は、いつも親方と一緒に仕事をしている。
もちろん、ここに来た最初の頃は水汲み、掃除、お湯を沸かしたりとか雑用ばっかりだった。
それでもその頃はそんな簡単な仕事でも手一杯で、一年ばかりは簡単な仕事でも失敗した。
親方によく放り出されなかったものだ。
やがて仕事に慣れると、今度は皮をなめす方法を教わった。
手順だけを並べるなら、まず皮を掃除して、それから木の渋からとった防腐液につける。
その前にも、それから後にも細かい手順はあるんだけど、大雑把に言えば、その二つの手順が一番大事だ。
僕が最初に教わったのは、皮の掃除の仕方。
これは手順さえ覚えてしまえば、後は丁寧にすること。そして丁寧に出来ることが当たり前になれば、今度は速度を上げること。
僕たち革職人の仕事の中でも皮掃除は基本中の基本だろう。
その次は防腐液の作り方だけど、これはとても難しい。
はっきりって僕がやってるのは、親方が作ってくれた防腐液に微調整をしているだけだ。一応、防腐液の作り方も教えて貰ってはいるけれど、こちらはあまりうまくいかない。
やっぱり親方は親方だ。
それでも、だんだんと仕事覚えていって、今では皮をなめす行程のほとんどを任されるようになった。皮をなめし終わるのに一ヶ月近くかかるから、今の僕の仕事の中心は必然的にこれになってしまう。
こうして“皮”をなめして“革”するのが僕たち職人の仕事だ。
他の街の革職人だとこれで大体仕事は終わりで、後は専門の靴職人、鞄職人、馬具職人なんかへと革を渡すまでが仕事になる。
けれど、このマドレッセンは小さな街で全部の職人が揃っているわけではなく――というか、革を扱える職人はウチの親方だけだ。
だから僕が皮をなめしているその横で、親方は色んなものを作っている。
考えてみれば、僕が親方のところで修行することのになったのは、親方が僕の家に馬具を直しに来たからだった。
これだけ何でも出来る人は珍しいらしくて、レオナルドがわざわざこんな田舎に修行しに来たのは、親方のところで修行するともの凄く効率がいいからだそうだ。
そんな親方の下で修行しているのだから、僕もなめす以外の仕事も徐々に覚えつつある。
午前中になめす仕事をして、午後からは親方の手伝いをする。
革を切ったり、鍛冶職人のシュバインさんのところに行って釘や金具を注文したり、色々と複雑だ。
その中でも一番多いのは親方の手伝いで、革引っ張ったり、木槌で叩いたり。
親方は何も言わないけれど、僕によく見えるように仕事をしてくれている。
何を期待されているのか――わからないはずもない。親方は僕が修行を終えて、この街に戻ってきた後に、僕に跡を継いで欲しいと思っているのだろう。
僕も、フリューに会う前には、きっと自分はそう言うことになるのだろうと想像していた。親方のような職人になりたい――というよりは、そうなるしかない、と思いこんでいた。でも、それだけじゃない事にも気付いた。
別に革職人になるのが嫌になったわけじゃない。
ただ、今の僕はきっとふわふわとした感じなんだろうと思う。
だけど、春にはとにかく僕はこの街を出る。
修行とお医者さんを探すために。
ほんの少し前にはそう決めていて、そのことに疑いも持っていなかった僕だったけど、その一方でヒルダさんが心配するフリューへの違和感に接してしまった。
それは、僕の心の中でどんどんと大きくなっていく。
そして何よりもあの時に感じた……
――“死”の手触り。
それが僕の心を凍らせていく。
そしてマドレッセンにも雪が降り、冬という季節が全てを凍らせていった。
ヒルダさんと日曜毎に会うことも難しくなっていた。
あまりに雪が積もっていて、身動きできなくなることが度々あったからだ。
それに会ったところで、もう言葉を探すことに随分苦労するようになっていた。
――何もかを閉じこめてしまう雪が、いっそのこと時間も閉じこめてしまえばいいのに。
積雪のため、外に出られなくなった日曜日。
ヒルダは、事情を説明するために姉の部屋を訪れていた。けれど窓の外から見える景色を見たときに、その説明が必要ないことを悟った。
見える範囲が完全に真っ白だった。
「姉様、この雪では恐らくハンスさんも……」
「わかってる」
フリューはヒルダの言葉を遮るようにして返事をした。思いの外、素直に納得してくれたことを意外に思ったけれど、姉が窓の外を睨みつけている様子を見て、ヒルダは得心した。
「神様も手を抜いたものね。何もかも真っ白にして何が面白いのかしら」
どんな時にも、天上への憎まれ口を忘れないフリュー。
だが、それもベッドの上からほとんど動けなくなった少女が口にするとなると随分と痛々しい。
ハンスが訪れた直後には、さすがに幾分か元気を取り戻していたようだが、今はまたほとんど寝たきりの生活だ。
「姉様、今日は少し体調がよろしいようですね」
「ひょっとして、私があの方への悪口言ったら調子がいいと思ってるんじゃないでしょうね」
「違うんですか?」
「私は体調悪くても、神様への文句は忘れないわ」
その言葉に、ヒルダはフフフと含み笑いを漏らした。
「ちなみに今日は本当に調子がいいのよ。本当ならベッドから降りて、作業する事ぐらいは何でもないのよ」
「姉様!」
「でもねぇ、今ちょっと煮詰まっちゃって、やることが思いつかないのよ。まいったわ」
妹の怒鳴り声を無視して、フリューは淡々と告げた。
ヒルダはさらに文句を言おうとして、しばらくの間口をぱくぱくさせていたが、やがて口を閉じて黙り込んだ。
「でもありがとう、ヒルダ。最近あなたが顔を出してくれるから気も紛れるわ」
妹のそんな仕草に心を動かされたのか、突然にフリューがそんなことを言った。
「……ハンスさんの代わりにはならないでしょうけど」
「そんなことないわよ。ハンスはハンス。ヒルダはヒルダ」
そう言って優しく微笑む姉の姿を見て、ヒルダは遂に今まで言えなかった言葉を口にした。
「……姉様がやろうとしていること教えてはいただけませんか?」
「ヒルダ……」
「ハンスさんが側にいれば、きっと力になれるのでしょう? それなら私にも、教えていただければ……」
「それはだめ」
フリューは言下に断った。
「ここまでやって来た私だからわかるの。私が今やってることは本気で神様に喧嘩売ってることなの。あなたを巻き込みたくはないのよ」
「じゃあ、ハンスさんは!?」
「ハンスは、こんなに大変なことだとわかる前から一緒にやってるんだもの。もう手遅れ。それにね、ハンスにはもっと凄いことをお願いするつもりなの」
「でも……!」
「それにあなた間違ってるわ、ヒルダ」
なおも言い返そうとするヒルダの気をそらすように、フリューは短く告げた。
「え?」
「私がやろうとしていることに、ハンスはほとんど関係ないの。それぞれ仕事が分担してあって、私の仕事にハンスはそれほどは関わっていないのよ」
その言葉は確かに効果的だったようで、ヒルダの口を一度は閉じさせることに成功した。
けれど、今日のヒルダは引き下がったりはしなかった。
何をしているのかは知らないけれど、フリューがその作業を続けようとしている限り、残された時間がドンドン削られていっている。
それはほとんど間違いないのだ。
ならば、早くその作業を終わらせて姉には出来るだけ安静にしていて欲しい。
それがヒルダの望みだった。
「ハンスさんはハンスさんで、私は私なのでしょう?」
「え、ええ」
突然放たれたヒルダの言葉に、フリューはうなずく。何しろほんの少し前に自分自身で行った言葉だ。否定のしようもないし、事実その通りだと思っている。
「であるならば、私はハンスさんと違って協力できるかも知れません」
「ヒルダ、もしかして妬いてるの?」
「姉様、私は真面目な話をしています」
「うーーーん」
眉を寄せて、困ったような顔をしてみせるフリュー。
「こればっかりはハンスでもヒルダでも変わりはないのよ。ハンスもまぁ……」
哀しみよりも悔しさでうつむいていたヒルダは、姉の言葉がそこで途切れたことを不思議に思い、視線を姉へと戻した。
すると、フリューは眉をいっそう潜めて、何だか苦しんでいるように見えた。
ヒルダはスッと血の気が引くのを感じる。
自分のわがままで、逆に姉の残された時間を削ってしまったのではないかと。
が、次の瞬間に、その不安は払拭された。
フリューが夏の日と変わらぬ、輝かんばかりの笑顔を見せていたからだ。
「姉様?」
あまりの変化に、ヒルダが声をかける。けれど、フリューにはもうその声も聞こえていないようで、ベッドから飛び降りるとヒルダが片付けた実験道具を引っ張り出してくる。
「そうよ、そうだわ。忘れてた。抽出だけが手段じゃなかったのよ。変化、合成、やれることはまだまだあったわ。ハンスがそうやって作っていたのを忘れてた」
「あ、あの姉様」
困惑しつつも声をかける妹に、フリューは青の眼差しを向けた。
「ありがとう、ヒルダ。あなたと話していて肝心なことを思い出すことが出来た。でも、これから先は本当にだめ。今からやることは混じりっけなしの錬金術よ。あなたを関わらせたら、私きっと後悔する。だから、お願い一人にして」
病に罹っているとは思えない、その強い口調にヒルダは気圧されてしまった。
けれど、これで易々と引き下がってしまっては、今までと同じ事だ。
ヒルダも負けずに灰色の目で姉を見据えた。
姉妹の睨み合いはそのまましばらく続いたが、先に根を上げたのはフリューの方だった。
「わかったわ。実を言うと、ちょっと協力者が欲しかったの。私が欲しがる物をこの部屋に届けてくれないかしら。そんなに高い物を要求することはないから。そうなると本末転倒だし」
「は、はい」
姉の譲歩に、ヒルダは目を輝かせる。
手伝えることがある。それはすなわち姉を早く安静にさせることが出来ると言うことで、そうすればハンスが街の外に出て、いい医者を見つけてくれるまでの時間を稼げるかも知れない。
そう、ヒルダはハンスが感じていたフリューの残り時間の少なさを、未だ感じ取ってはいなかった。
――いや、感じ取りたくはなかっただけなのかも知れない。
そして、その日は当たり前のようにやってきた――