13
部屋の中には日が差し込んできていた。
けれど、その光もこの部屋の中では影の部分を強く意識させるだけだ。
積み重なった本の影。
実験道具のガラスを通してできる歪んだ影。
あるいは、その機具の中に残る黒い液体の影は、もっと禍々しい。
改めて錬金術を戒めた神父様の言葉を思い出す。
僕はそんな影を避けるようにして、寝台へと近付いていった。
ふかふかの絨毯の上を、一歩一歩足下を確かめるようにして。
まず目に入ってくるのは、銀色の髪。
フリューの髪だ。
その髪をたどるようにして視線を移していくと、あの部屋で初めて見つけた時と同じ姿で眠るフリューがいた。
そして、あの白い服は本当にフリューの寝巻きだったのだと、改めて納得する。
くーくーと寝息を立てるフリューにゆっくりと近付いていった。
そして顔を覗き込む。
白くて広いおでこ。
あどけないその寝顔。
そして、あの日と同じようにフリューの目が見開かれる。
そこには、僕たちが求めて止まない“青”があった。
「ハンス!」
フリューが声をあげる。
久しぶりのその声に、僕は思わず泣きそうになった。
それをごまかすために、フリューにキスをする。
「ん……」
フリューもすぐにそれに応えてくれた。
そして僕たちは久しぶりのキスを楽しんだ。
やがて息が続かなくなって、僕たちは名残を惜しみながら唇を離す。
「ハンス、落ち着いた?」
それは確かにお姉さんの口調で、フリューが尋ねてくる。
「う、うん、フリュー……元気そうで……」
僕はその先を口にすることが出来ない。
「あ、うん。もう本当はいいんだけどね。さすがにこの家を抜け出すだけの体力はなくて」
あははは、とフリューは本当に元気そうに笑った。
「ヒルダには会ってるんだよね。毎週言付けをありがとうハンス」
僕はその言葉にうなずいて、そして部屋の中を見渡した。
そんな僕を見て、フリューは苦笑を浮かべた。
「ちょっと、ひどいでしょ。ハンスならわかると思うけれど……」
「“青”を作っていたんだね」
確認するように僕が尋ねると、フリューは嬉しそうにうなずいた。
「難しいん……だね?」
「あはは……抜け出せない代わりに青だけは作ろうと思ったんだけど、難しいね。神様は意地悪だよ……」
その言葉に、僕の中で何かが爆発しそうになる。
それを必死でこらえて無理に笑顔を作る。
「ヒルダさんが心配してたよ。随分無理してるんじゃないの?」
「あ、うん。そんなには……ヒルダにはもう迷惑掛けっぱなしだから、もう少し目をつぶっていてもらうことにする」
そんな勝手な、とは思ったがそれがフリューらしいとも思った。それにもっと基本的な問題がある。ヒルダさんに迷惑にかけるにしたって限度があるはずだ。
「この部屋にいたんじゃ原料だって不自由するだろう?」
そういうことだ。青を作っているのが秘密なら、それに関することをヒルダさんに頼むことだって出来ないはずなのだ。
すると、こちらも僕の考えを見透かしたようにこう切り返してきた。
「あ、それはね。今も考えていたんだけど……」
見た目はともかく、やっぱりこの姉妹は似ている。
そして青色の瞳で、じっと僕のことを見つめる。しかも、口元には小さな笑み。
この表情はよく知ってる。
神様に弱みがあること見つけたときの、不敵な笑みだ。
「ねぇ、ハンス。ヒルダは?」
「ここに連れてきてもらって、それで今は二人きりにしてもらっている。その……“青”の事があるからね」
それを聞いて、フリューはにんまりと笑みを浮かべた。
「ハンス、ちょっとこっちに来て」
上半身を起こしながら、フリューは僕を手招きする。
「来てってベッドの上に?」
「今さら恥ずかしがる仲でもないでしょ。早くこっちに」
その言葉に誘われるままに僕はベッドの上に登る。そして立て膝でフリューに近寄っていくと、いきなりのキス。
そして、わざわざ僕をベッドの上に呼んでおいて、フリューはそのベッドを降りてしまう。何だか呆れてしまうほどにフリューらしい。
部屋の隅へと向かうフリューを見送りながら、僕は何だかほっとしていた。
フリューのあまりの変化のなさに、病気だとしても、そんなに悪くはなっていないんじゃないかと、僕はそんな風に希望すら抱きかけた。
けれど、フリューが振り返った瞬間、背筋が凍り付く。
フリューが鏡台の引き出しから取り出したのはナイフだったからだ。
もちろん、僕等職人が使うような鋭さがないことは遠目でもわかる。きっとペーパーナイフのようなものなのだろう。
僕が驚いたのはナイフとフリューの取り合わせだ。
僕と教会で会っていた頃のフリューなら、こう断言できる。
絶対に似合わない、と。
だけど今のフリューには、こう言うしかなかった。
物凄く似合っている、と。
フリューが変わっていないというのは、僕の間違いだったのか?
「ハンス、あなたの血をちょうだい」
続けて放たれたその言葉で、僕はさらに硬直した。
この街に住んでいて知らないわけがない。
黒い森の向こう側には血を吸う化け物がいるという話を。
「あ、ああ……違うのよ……そういう話じゃないの」
フリューは慌ててそう言った。
化け物の話はフリューも知っているのだろう。今度は僕の表情から、何を考えているのかすぐにわかったのだろう。
すぐに否定してくれたのは良かったのだけど、右手に持ったナイフをヒラヒラさせながら言われても、全然安心できない。
「も、もちろん“青”を作るのに使うのよ」
「え? でも血は赤いよ」
「神様は人間を作ったのよ」
突然にフリューの話が飛んだ。よくあることと言えばよくあることだけど、久しぶりだったこともあり、これは本当に見当もつかない。
「……ええと、それは知ってるけど……」
そう言って切り返すのが精一杯だ。
「私の目を見て」
今度はすぐに、フリューの言いたいことがわかった。僕は慌ててフリューの小さな肩を掴む。そしてその青い瞳を覗き込んで、そこに変わらずフリューの瞳があることを確認して、ホッと胸をなで下ろす。
「……フリューびっくりさせないでよ」
「やだなぁ、目をくりぬいたりはしないわよ」
やっぱりナイフをヒラヒラさせながら、フリューは笑みを浮かべる。
「そんなことしたら、ハンスの絵が見られなくなっちゃうもんね」
「え、いや……」
「どう考えても片眼じゃ空の部分には足らないし」
もう、なんと言っていいのかもわからなかった。言葉が通じているのに、話が通じてない。
「そうじゃなくて!」
「だからね、瞳が青いんなら私の身体にも青い要素が含まれていることになるじゃない。それを取り出せれば青に辿り着けるんじゃないかと思って」
一瞬、なるほど、と僕はうなずきかけた。
けど、もちろんうなずいていちゃいけない。
「そ、そんな危ないよフリュー!」
「危なくないわよ。指先をちょっと切るだけで……ああ、ハンスは職人さんだから指先は良くないわね。え~~っと手の甲はどう?」
「え? 僕なの? あ、待ってフリューだからいいってわけじゃないよ。どっちにしたって危ないよ」
「ほんの数滴でいいから」
「だから、僕の事じゃないんだってば……数滴?」
さっきの瞳の話と言ってることが違うような気がする。
「そりゃそうよ。ハンスには青い所なんにもないじゃない」
胸を張って言い放つフリューを前にして、今度こそ僕は思わずうなずいてしまった。
「ああ、そうだね」
確かに僕の瞳は青くはない。
だけど、ここでうなずいていいわけがない。
「フリュー、血を使うなんて事はもちろんダメだよ。でもその前に聞きたいんだけど、僕の血を使いもしないのに、どうして僕の血がいるんだい?」
「私の血と比べるためよ」
フリューは即答する。
一瞬、呆気にとられてしまったけど、今までの話と組み合わせてみると、とりあえず筋は通っているようにも思えた。
つまりフリューの瞳は青色で、その血には“青”の要素が含まれている。
逆に僕には“青”の要素が含まれていない。
僕たち二人の血を比べて、フリューの血の中にある“青”の要素をはっきりさせることが狙いなんだろう。
「……うん、そこはわかった……ような気がする」
「良かった! じゃあ、さっそく血を貰うわね」
「い、いや、だめだよフリュー。フリューのやりたいことはわかったけど、やっぱり無茶苦茶だよ」
「でも……」
「それにもし、本当にフリューの血に“青”が含まれているとしたら、物凄い量が必要になるじゃないか。あの絵の空を塗るには」
「う……」
「あと、これは意地悪な言い方かも知れないけど、本当に“青”があるかどうかはわからないんだろう。それなのに、血を使うっていうのはやっぱり危なすぎるよ」
「…………」
ついにフリューは黙り込んだ。
言い過ぎたかも知れない、とも思ったが、ここで譲るわけにもいかない。
普通の人でも、血が身体から無くなったら元気がなくなる。
ましてやフリューは病気なんだ。
「あーーーーーっ! もう!!」
黙り込んでいたはずのフリューが突然叫び声を上げた。僕はびっくりして、思わず身をそらす。そのままベッドの上から転げ落ちそうになった。
思わず伸ばした僕の右腕を、フリューの左手が掴んだ。
僕はその手を――
――思わず振り払いそうになった。
冷たいのだ。
本当に身体の右半分が凍りつくかと思った。
「捕まえたわよ、ハンス。さぁ、覚悟を決めなさい」
そう言って笑うフリューの笑顔には、変わらずに僕をとろかせる輝きがあった。
冷たい手、輝く笑顔。
どちらが本当のフリュー?
そのフリューは僕の手の甲に、ペーパーナイフを押しつけて血を滲ませようとしていた。
フリューは気遣ってくれたつもりかも知れないけど、こういうときは鋭いナイフで一気にやってくれた方が助かるのだけれど……
それでも何とか血が滲み出した僕の手の甲。
その血が徐々に広がってゆく様を見ながら、僕の頭の中にもある考えがにじみ出てきた。
それは僕がフリューのためになると思って、色々してきたことは、こんな風にペーパーナイフで手の甲を切るような、気遣いをだったんじゃないだろうか?
フリューを追い込んでしまったのではないだろうか?
そんなことを考えるのも、フリューの手の冷たさを知ってしまったからだ。
僕はその冷たさを“死”そのものだと感じてしまったのだ。
だから――
フリューにはもう時間がないのかも知れない。そして、フリューはそのことに気付いていて、僕が街を出る前に“青”を作り出さないといけないと、焦っているんじゃないだろうか。
フリューの病気を治してくれるお医者さんを探すために街を出ようと決めた僕は、逆にフリューを追い込んでしまったのではないのだろうか。
見ながら、僕の頭の中に一つの考えが浮かびつつあった。
「さ、もういいわ。ちょっとそのままで待っててね」
フリューは僕をベッドに置き去りにして、小さな瓶を持ってきた。そして冷たい手で僕の手をひっくり返して、血を一滴瓶の中に落とす。
「すぐに、血は止まると思うけど。痛くない?」
「あ、……ああ、大丈夫。痛くはないよ」
僕は無理に笑顔を作ってみせる。
フリューは安心したのか、ホッと胸をなで下ろして、無邪気な笑顔を見せてくれた。
けれどその瞬間、カクンと崩れ落ちるようにベッドに横たわった。
「フ、フリュー! 大丈夫?」
「あ、は……やっぱり無理があったみたい」
そう言ってまた笑ってくれるけれど、今度の微笑みは目をそらしたくなるような、弱々しい笑みだった。
「ごめんね、ハンス。どうしようもないみたい……また、会いに来て……」
そのまま、フリューの瞼は閉じられてしまう。
僕はベッドから降りると、その額に手を当てた。
そこには確かにフリューの温かさがあったのだけれど、僕はどうしようもない冷たさを感じて、その向こう側に“終わり”を感じてしまった。
部屋を後にする。
扉の前にはヒルダさんがいた。
まるでこの扉の前でずっと待っていたみたいだ。
フリューの言葉を聞かれたのではないかと、少し逃げ腰になったけれど、その灰色の瞳には、ただ不安そうな色だけが浮かんでいた。
「姉様は……」
そこまで口にして、ヒルダさんにしては珍しく言い淀む。
きっと言えなかった言葉はこうだったのだろう。
――どこかおかしくはなかったですか?
僕はその問いに答えなければならない。
「……僕にもはっきりとはわかりませんでした。確かに以前とは違うところもあるようには思います」
「それでは……」
「でも、フリューがやろうとしていることは、僕と会っていた頃から変わってはいませんでした。方法を少し変えたみたいですけど」
「…………」
「フリューは変わっていないのだと思います。ただ、その……」
僕はその先を言い淀む。
ヒルダさんは形の良い眉をひそめ、僕を睨みつけるけれど結局何も言ってはこなかった。
そして、黒いドレスを翻して僕に背を向けると階段を下りてゆく。
僕もその後に続いた。
ヒルダさんのまっすぐな背中。
それを見て僕はふと思う。
もしかしたら僕が今日感じたような事――あまり時間が残されていないのではないか、ということをヒルダさんも考えているんじゃないだろうか。
けれど、僕にはその背中にかける言葉が見つけられなかった。
そしてマドレッセンに初雪が降る。
冬が来たのだ。
やがて雪は全てを閉じこめていく。
僕たちの絵も、時間ごとあの教会に閉じこめられれしまうことだろう。
そして、それを雪の中から掘り返すための手段は……
未だ僕の手の中にはなかった。
――“青”は遠い。