12
その一週間の間に、フリューには変化が訪れていた。
けれど、時は僕に何も知らせずまま、素知らぬ顔で通り過ぎてゆく。僕はフリューを助けられると信じたまま無邪気に一週間を過ごした。
そして、ヒルダさんとの待ち合わせ場所に、心を弾ませながら歩いてゆく。
橋の上にはいつもの黒いドレスのヒルダさんが立っていて、僕はそれを見つけ小走りに近づいていった。
何しろ今日は、フリューに会わせてくれと頼む日だ。
「ヒルダさん!」
僕は腕を振りながら、呼びかける。
そして振り向いたヒルダさんの顔を見て……その場で足を止めてしまった。
「ヒルダ……さん?」
ヒルダさんの灰色の目には明らかに疲労の色があった。そしてその表情には何かの感情が浮かんでいた。怒り……いや、焦りだろうか。
「ど、どうかしたんですか?」
「姉様が……」
「フリュー? フリューがどうかしましたか? 病気が悪くなったんですか?」
僕は思わずヒルダさんの肩を掴んでしまっていた。
そのままガクガクとヒルダさんを揺すぶるが、ヒルダさんは僕に揺すぶられるまま、まったく抵抗しない。
僕はそのヒルダさんの姿に、何だか怖くなった。
僕は肩を揺すぶるのをやめて、ヒルダさんの言葉を待つ。
最悪の――最悪の言葉が紡ぎ出されることまでを覚悟した。
けれど、ヒルダさんの唇は動かない。じゃあフリューに何かあったというのは僕の早とちりなのかというと、それも違う。
ヒルダさんの白い肌が、はっきりとわかるほどに青ざめていた。
何かあったのは間違いない。
「ヒルダさん、本当は僕、今日フリューに会わせて欲しいって……」
沈黙に耐えきられなくなって、僕は今日お願いするつもりだった事を口にしてみる。
するとその瞬間、ヒルダさんの灰色の瞳がまっすぐに僕を見つめた。
そして、青ざめていた頬にわずかながら血の気が戻ってくる。
「姉様に……!?」
「えっと、僕がフリューの事を知っているのは、フリューだって知っているんだから、お見舞いって事にすれば、一度ぐらい会えんるんじゃないかと……」
こんなヒルダさんを見るまでは、それほど身勝手なお願いではないはずだと、僕はそう考えていた。
けれど今日。
ヒルダさんの様子から考えると、そんなことをお願いしている場合ではないような気がする。
「やっぱりフリューの病気は悪くなってるんですか? もう会えないほどに?」
やっぱりどう考えても、それ以外にヒルダさんの様子がおかしくなる理由が思いつかない。
だけどヒルダさんは、その言葉に首を横に振った。その細い身体は未だに震えてはいたが、それだけははっきりとわかった。
「あなたからの言葉が届くことが良かったのかもしれません。姉様の容態は僅かではありますが持ち直しています」
その言葉もはっきりと聞き取れた。
「じゃ……どうしてです?」
僕はわけがわからなくなった。じゃあ何で……何でヒルダさんの表情はこんなにも苦しげなままなんだ。
「姉様は確かに持ち直したんです。一時期はベッドから降りることも出来なかったのに……でもその持ち直した身体で姉様は……」
ヒルダさんの言葉で僕の頭の中でフリューが動き出す。
寝台から起き出したフリュー。
僕の知っているフリューなら……きっと――
「……フリューが何かしてるんですね?」
“青”を作り出そうとしているはずだ。
確信を込めた僕の言葉に、ヒルダさんの頬に血の気が戻る。
「……そう、ハンスさんなら……」
灰色の瞳がすがるようにして僕を見つめていた。
僕たちは教会を出た。
そしてヒルダさんが先に立って歩き始め、僕はその後をついていく。商人街はあの教会の事だけしか知らなかったから、ここはヒルダさんにまかせるしかない。
ヒルダさんのカツカツという靴音が規則正しく響く。
その音は嫌でも通りを歩き人たちからの視線を集めたけれど、ヒルダさんの黒いドレスが翻ると、全員がその視線をそらす。
完全に職人街の格好をしている僕なんか、変な目で見られてもおかしくないところなのに、全くの素通しだ。
ヒルダさんの――フリューの家がどんなに凄いのか、何となく伺うことが出来る。
周囲の様子に構うことなくドンドンとヒルダさんは進んでいった。
そうしている内に、その周囲の様子が変わっていった。今までの――僕が知っている商人街は、それでもまだ職人街の雰囲気が残っていた。
けれどこの辺りは、完全に別物だ。
なんと言っても道の周囲にびっしりと建物が並んでいないのが大きい。壁と壁の間から空が見えるなんて、職人街ではまず考えられない。
つまりは庭がたっぷりとある大きな屋敷ばかりが建ち並んでいるんだろう。
通りを歩く人もまばらになってきたけれど、ヒルダさんはさらに奥へと進む。
こんなに距離があるとは思わなかった。フリューが病気だったというなら、こんな距離を歩いてきて、平気でいられるものなんだろうか?
――もしかして僕と会い続けていたために、悪くなったんじゃ……
その想像に、僕の足は止まった。職人街とは違い、きちんと整備された石畳を見たくもないのに、思わずじっと見つめてしまう。
「ハンスさん?」
遅れた僕を気遣ってのことか、ヒルダさんも足を止めて声をかけてきてくれた。
「どうかしましたか? もう少しですよ」
「え?」
言われて顔を上げてみると、大きな二本の杉の木が見え始める。
「あ、あの木は……」
「私の家の庭に立っている木です」
「フリューに聞いたことがあります。『大きな木が私を見張ってる』って」
「ああ、姉様はそんな風に……」
二人でもう一度杉の木を見上げた後、僕たちは再び歩き出した。
近づくにつれて、その大きな木とその側に建っている大きな屋敷しか見えなくなってゆく。兎にも角にも格別に大きな屋敷だ。
壁は全部石材で出来ていて、職人街にある教会と同じ――いや、それ以上に立派な造りだ。ざっと見る限り、三階建てぐらいだろうか。
とんがった黒い屋根は二本の杉の木と競うほどの高さだ。
僕がその屋敷の大きさに見とれている内に、ヒルダさんは格子状の門を抜けて、僕を屋敷の中へと招いてくれた。
恐る恐る足を踏み入れると、そこから屋敷の玄関まではまた少し距離がある。
その屋敷の玄関が内側から勝手に開いていく。どうやって知ったのか、屋敷の使用人さんたちがヒルダさんの帰宅を察して開けたらしい。
開かれた扉の向こうには磨かれた石の床に、二階へと続く大きな階段。目眩がしそうな程広い、玄関ホールだった。
僕が圧倒されている間に、ヒルダさんは迎えに出てきた人たちになにやら耳打ちしている。時々、僕に視線が向けられるのは気のせいじゃないだろう。
そのままどうしたものかと、僕が戸惑っているとヒルダさんが手招きをして僕を呼んだ。
気後れしているのは確かだ。
だが、ヒルダさんだけは味方のはずだ。それを信じなくてどうする。
覚悟を決めて、僕はヒルダさんへと近づいた。ヒルダさんはそれを確認すると、街の中と同じように先に立って歩き始める。どうやら階段を上るようだ。
無理矢理、感情を押し殺したような使用人の人たちの横を、できるだけそちらを見ないようにして通り過ぎる。そのまま駆け足で階段を登りヒルダさんの横に並んだ。
「すいません、今使用人たちもピリピリしていて」
「……」
確かにおかしな雰囲気は感じた。
「わかりますか? この匂い」
「匂い?」
言われた瞬間に気付いた。酸っぱさが口の中に広がるような――そう、レモンの匂いがする。多分、香水か何かの匂いなんだろう。
でも、これが何だと言うんだろう?
「この匂いはごまかしです」
「ごまかし?」
僕の心を読んだように、ヒルダさんが説明してくれるが益々わからない。
尋ね返そうとしたその時、ヒルダさんの足が止まった。目の前には両開きの扉。
「……ここが姉様の部屋です」
「あ、はい」
うなずくしかない僕の前で、ヒルダさんはため息をつく。
「あ、あの……どうなってるんですか?」
悪い予感しか出てこない。けれどヒルダさんは初めてあった頃の、冷たい灰色の目でこう告げた。
「あなたの目で確かめて下さい。姉様はいま休んでいるようですから……」
「え? 寝てるんですか」
「とにかく中へ」
ヒルダさんは扉を開ける。
僕は自然、部屋の中に目を向けた。
――一瞬自分の目を疑う。
次には時間が逆に戻ったのかと、そんな馬鹿なことすら疑った。
なぜなら僕の前には、あの教会の小部屋と変わらぬ光景。
散乱する実験道具。部屋のあちこちに積み上げられた本、本、本。
「こ、これは……」
驚きのまま、二人の大事な秘密を口走りそうになった瞬間、あの小部屋とはまったく違う事があることに気付いた。そして廊下にレモンの匂いが振りまかれていた理由もわかった。
この部屋からは酷い匂いが漏れ出している。
部屋の一部が匂うんじゃない。部屋全体に酷い匂いがこびりついている。
「ヒ、ヒルダさん……これは……」
ようやくのこととで言葉が出た。言ってからやっと手で鼻を覆う。
見ればヒルダさんもハンカチで口元を押さえていた。
「一週間前からです……」
僕の言伝が伝わった辺りからか。そう思って考えを巡らせている間に、匂いも慣れてきた。
そして、これが肉が焦げる匂いに似ていることにも思い至る。
火を使っているのか……?
ヒルダさんの唇からは深いため息が漏れていた。
部屋の中がこんな有様のせいなのか、それともこの匂いのせいなのか。
――いや、両方か。
僕は改めて、フリューの部屋の中を見渡す。
確かに一目見たところでは、あの教会の部屋とあまり変わらないように見える。
けれどこれは……
「あなたと会っていた時にも、姉様は……」
「ええ、確かにフリューは……でも、こんなにひどいことには……それに匂いも」
この部屋の散乱具合は、あの部屋とは比べものにならない。単純に器具が多いというだけではない。片付ける気が最初から無いみたいだ。
失敗したら、そのまま放り出してしまっている。
しかもこの匂いだ。
もちろん教会の小部屋にいたときだって匂いはした。なんと言っても黒は桃の種を焼き焦がして作るのだし、他にも草の汁を煮詰めたりもしていた。
でもこの匂いはそれとは違っている。
何というか、生々しすぎるのだ。
「やっぱりそうなんですか……姉様も家で実験まですることはあったんですが……ここ最近はあまりにも……」
――青だ。
フリューは青を作ろうとしている。
それだけはわかった。
「ハンスさん、姉はいったいなにをしようとしているのですか?」
またも見透かしたようなヒルダさんからの問いかけ。
だけど、こればっかりは言えない。
絶対に――言えない。
「……ヒルダさん。少し二人だけにしてもらえますか?」
僕の言葉に、ヒルダさんは灰色の瞳でキッと僕を見据えて、そして軽くうなずいた。
そして、僕はフリューの部屋――青の工房に足を踏み入れる。