11
そして次の日曜日。
僕はヒルダさんに修行のことを説明した。
職人のしきたりというか、他の街に行く理由から説明しなければならなかったけど、ヒルダさんは、嫌がりもせずに黙って聞いていてくれた。
そんなところはフリューに似ているような気がする。
やっぱり姉妹なんだ、と僕は感心しながらさらに説明を続けていった。
すると僕の声が教会の中で反響して、まるで僕が話しているのに、もう一人の僕が居て先回りして僕が話そうとしていることを、説明されているような気分になってくる。
今までは気付かなかった。
フリューとの秘密がばれてしまうようで、僕自身もここで話すことに気後れしていたのかも知れない。だけど、今日は違う。
フリューとの秘密を守る、いやいつかヒルダさんに話すことが出来るように、僕はやれることを見つけた。
これは、気休めじゃない。
僕は、きっと何とかなると信じている。信じ続ける。
だからヒルダさんの前でこんなに話すことができるんだ。
「……で、行く先々で医者を捜して行って……」
やっとの事でこの話の一番肝心な部分を話しかけたところで僕は気付いた。というか、それまでヒルダさんの表情をよくよく見ていなかった事に気付いた。
ヒルダさんが何だか、難しい顔をしている。
「い、いえ、そりゃ行った先で都合よく良いお医者さんがいるとは限らないんですけど、修業先の親方や職人たちのつてを頼れば、今よりもずっと可能性は広がるわけで……」
「ああ、ごめんなさい。別に怒っているわけではないんですよ」
僕の慌てた口調に気付いたのか、ヒルダさんは僕の瞳を見つめながらそう言った。しかもその表情には、笑みが灯っている。
一体何事が起きたのかと、僕がそのまま硬直していると、ヒルダさんは僕から視線反らし、そのままイエス様の像を見上げるようにしてこう告げた。
「……私も少しお話ししていいですか? ハンスさんとは何度も会っているのにあまりゆっくり話したこともなかったですし、いい機会です」
「は、はぁ……」
僕には何とも返事のしようがない。だが、ヒルダさんは僕の返事に構わず話し始めた。
「私は姉が嫌いなんです」
「え?」
いきなり切り出された言葉に、僕は思わず声を上げた。そして、その言葉に戸惑っている間に、ヒルダさんはさらに言葉を継げた。
「だって、父と母は姉様にかかり切り。まず付けた名前からして違ってます。フリューリングなんて名前、よっぽど思い入れがないと付けませんよ」
何だか、とても嬉しそうにヒルダさんは話している。
「でも、その姉様は不治の病に冒されてしまった。父はそんな娘の全快を願って新しく教会を建てようとまでしている。母は自分の娘が姉様一人きりであるかのように、私が居るというのに悲しみに暮れて部屋から出てこない。平凡な名前を付けた“ヒルデガルド”という名の娘がいるというのに。私は病に冒されることも無く、健康に育っているというのに」
「………………」
言葉が出てこなかった。けれど、ヒルダさんの言葉は堰を切ったように止まらない。
「ね? 私が姉様を嫌うのに十分な理由があるでしょう? だから私は姉様が嫌いなんです。嫌いであるはずなんです」
「そ、そんな……ヒルダさんは……」
フリューのことが嫌いで、それで、それでこんなに毎週、僕に言伝を……
「ええ、でも私は姉様が好きなんです」
「え?」
僕はわけがわからなくなった。ヒルダさんの瞳は相変わらずイエス様を見据えたままだ。「両親に半ば無視されるように、屋敷の中でポツンと座っていた私を気にかけてくれていたのは姉様だけだった。いえ、そんな理由なんかいらない。私はただ、あんな天使みたいな人が自分の姉であるということだけで胸が高鳴った。とても嬉しかった」
「それは……」
わかるような気がした。僕だって最初は、あのあまりに綺麗なフリューの姿に見とれてしまったのだから。ヒルダさんは、そんなフリューを小さな頃から見ているのだ。
僕は、昼さんからもっとフリューのことが聞けるのかと思わず身を乗り出していた。
「でも、その姉の背を追い越したとき、私は何か大きな理不尽がこの世の中にあることに気付いてしまった」
しかし、次に放たれた言葉は僕の期待を裏切る者だった。
さらにヒルダさんの横顔から表情が消えてゆく。
「私は姉にどう接すればいいのかわからなくなりました。私は姉が嫌いであるべきなんです。実際に私は姉を疎ましく思うことがあるんです。けれど私は姉が好きなんです。これも嘘ではないんです」
僕の言葉と同じように、ヒルダさんの言葉が教会の中に響き渡る。
けれど、その声はヒルダさんが発したものに間違いなかった。ヒルダさんにしか言えない言葉だったからだ。
「ハンスさん」
「は、はい……」
「私のこの想い、感情はいったい何という名前なんでしょう? 私はいつの日からかそんなことばかりを考えていました。でも、神様は――あの方は、こんな感情に名前を与えてはくれなかったみたいです。だから、いつの日からか私の胸の中には諦めという名の黒い穴がぽっかりと空いてしまいました」
――ああ。
ここにも“青”がある。
神様が人に出し惜しみした、何かが。
「私がいつも黒いドレスを着ているのは、そんな私の心の穴が他の人に気付かれないように、そんな姑息な事を考えてのことなんですよ」
「あ……」
そう言えば、ヒルダさんはいつも黒いドレスを着ていた。僕はあまり深い意味を考得ていなかった。ただ、ヒルダさんに似合っている――
と、そんな事を考えていたことは内緒にしておいた方がいいんだろう。
「でも、ハンスさん。今のあなたの提案を聞いて気が変わりました」
「ど、どういう事ですか?」
「私も諦めるのはやめにします。もっと時間かけて、この感情の名前を探してみることにします」
それはつまり……
「あなたの提案はよくわかりました。現状でも言付けしか交換出来ないなら、街の外に出て、方法を探すというのは効率がいいですね」
そうだ。僕の提案に価値を見いだしてくれたと言うことだ。
「ぼ、僕もそう思んです。この街にいても、僕がフリューにしてあげられることはあまりないように思えます……悔しいけれど」
そんな僕に、ヒルダさんはゆっくりと首を横に振った。
「あなたの熱意には感心します。私も見習わなくてはいけませんね」
ヒルダさんはそう言って再び笑みを浮かべた。
――そして、その時教会の鐘が鳴る。
珍しく僕とヒルダさんで長く話をしたせいで、結構な時間が経ってしまっていたらしい。それでもフリューと会っていた頃よりは全然早い時間だったけれど、ヒルダさんにもう一つのお願い――一目でいいからフリューに会わせて欲しい――と言い出すには、少し遅くなってしまったかもしれない。
それに冬に向けての準備もある。
だから僕は、そのお願いをするのは来週でもいいか、と考えてしまった。
――一週間後に、酷く後悔する事も知らずに。