9
第三章 秋 ~立ち止まる世界~
夏の日差しはいつの間にか消え失せ、街の中を渡る風にも心地よさより先に、肌寒さを感じてしまう季節になった。季節は確実に移り変わってゆく。
けれど周りから見れば、僕に変化はないんだろう。
僕は相変わらず日曜ごとに出かけてゆく、確かにそこに変わりはない。
だけど、その中身は随分変化していた。
朝に教会のミサに行って、お昼を食べて、それから商人街に行くのは変わらない。
ただ、待っているのはフリューではなくてヒルダさんだ。
何度目かに会った後、ヒルダさんはこう告げた。
「時間の都合を考えると、お昼ぐらいに会うのが効率がいいようですね」
お互いが例の橋の上で待ちぼうけを経験した上でのことだろう。ヒルダさんは、あれ以来努めて感情のこもらない声で話すことに決めているらしい。きっとそうでもしないと、あの日と同じように叫びだしてしまうのだろう。
――僕と同じだ。
そんなわけで物凄く淡々とした声でいわれて、僕も何も言わずに――そもそも、文句もないんだけど――うなずいた。
そして、さらにヒルダさんは続けてこう言う。
「先にお伝えしておきますが、私も毎週ここに来られるとは限りません。それは理解しておいて下さい」
だけど、ヒルダさんはそう言った後も毎週、この橋の上に来ていた。黒いドレスを着て、街にとけ込むこと拒んでいるかのように、まっすぐに立ちつくして。
そこから、二人であの教会の礼拝堂に行って、言付けを交わす。
教会の上に秘密の部屋があることは言っていない。
言ってもいいような気がしていたんだけど、何となく言いそびれていた。
「姉からの言付けは変わりません『必ず用意するから、待っていて』」
確かに先週のものと変わりなかった。もしかしたらヒルダさんがそういう風に言葉を変えているのかもしれない。
いや、それよりもフリューは何か言うことが出来るような状態なのだろうか?
あれから、フリューの容態をヒルダさんから聞いたことがない。言ってくれない、と言うより、僕が尋ねることが出来ないでいた。
怖いのだ。
――絶望的な言葉を聞かされることが。
「ハンスさん。あなたからは?」
僕のそんな気持ちに気付いているのかいないのか、ヒルダさんの声音は何も変わらない。
「……その前にいいですか、ヒルダさん」
「はい?」
「ええと、フリューは僕がフリューの病気を事を知っているとは、まだ気付いてないんですか」
どうも上手く説明できない。本当に聞きたいことがあるのに、それをごまかそうとする、僕の弱い心がそうさせているのかも知れない。
ヒルダさんはきれいな眉をひそめた。
どうやら、僕の言葉を頭の中で組み立てているようだ。
何か他の言い方を考えた方が良いのかどうかと僕が迷っていると、やがてヒルダさんは首を横に振った。
「こんなに長い間、あなたに会いに来られないんですよ。そのための説明が必要だから、あなたには病気になって来られなくなったと言わざるを得なかった、と姉には話してあります」
何かの仕返しに思えるほど、僕の複雑な言葉に対するヒルダさんの答えも十分に複雑だった。
しっかりと理解できるまでたっぷり時間を掛ける。それからヒルダさんの顔を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「……凄く中途半端な感じがするんですけど」
「それでも最善だと私は信じています」
確かに、僕がフリューの身体のことを全部知っていると知れば、フリューはきっと大人しくしていないだろう。
本当にフリューのことを考えるなら、フリューは今ちょっとした病気に罹っているだけだ――と、知らないふりをするのが一番なのかもしれない。
「それで、言付けはどうします」
せかすように、それでいて変わらぬ淡々とした声でヒルダさんはもう一度言う。
「そうですね……」
改めて僕は考え込んだ。
今までは、フリューの身体のことは全く知らないことになっていた。
それが今のやりとりで、僕もある程度はフリューの身体のことを知っていてもいい状態へと変化があった。
それなら、それに相応しい言付けを考えるべきだろう。
「……『病気のことは聞いたよ。無理をしないように。君はいつも元気すぎるぐらいなんだから。大丈夫、僕は毎週待っているよ』……で、お願いします」
動かないヒルダさんの表情。
そして灰色の瞳だけをこちらに向けてきて、
「嘘が上手くなりましたね」
と素っ気なく告げた。さすがに僕もカチンと来て言い返そうと口を開きかける。
「そ……」
だけど、ヒルダさんは瞳を反らし、初めて感情の見える声で続けてこう言った
「私と同じです」
僕にはそれ以上何も言えなかった。
ヒルダさんの言葉に滲んでいたのは、これ以上ないほどの哀しみだったからだ。
フリューと会っている時と違って、ヒルダさんとの時間はすぐに終わる。
ヒルダさんは僕との言付けの交換が終わると、すぐに引き上げてしまうからだ。これはまぁ、仕方がないだろう。ヒルダさんは余計なことは言わない人だし、僕もあんまり話していると、言わなくて良いことまで言ってしまいそうになる。
その後一人で、商人街をうろうろしていても仕方がないので、結局は職人街に引き上げることになる。フリューに会えなくなった後、それでも夕方まで教会のあの部屋で待ち続けていたこともあったけど、今ではこうして引き上げることが多い。
フリューとの思い出が、辛く感じられてしまうようになったからだ。
太陽はまだ高い。
幸いと言うべきか、帰ったら帰ったでやることはあって、それは主に冬に向けての準備だ。
なにしろ、マドレッセンの秋は短い。
ぼやぼやしていたら、雪が降り始めてすぐに冬が来てしまう。
僕の仕事は、薪を割ってそれを家の裏手に積み上げることだ。これは職人の修行とは別で、親方の家で暮らしている――いやマドレッセンに住む者の義務みたいなものだ。だから、去年はレオナルドがこの仕事をやっていた。
そんな事情なので、空いた時間を利用して冬までに準備を整えればいい仕事だけど、他にすることもないし今日もそれをしようと思っていた。
それが一段落したら、親方に頼んで簡単な仕事を教えて貰うことにしよう。
何かしていないと、不安に押しつぶされそうになる。
もちろん、それで僕が不安から逃れられたとしても、フリューの容態が良くなるわけじゃない。
結局、僕は何もしていないのと同じ事なのだろう。
何かできることは……
そう考えることも、僕が不安から逃れるための一つの方法なのかもしれない。
「ハンス!」
不意にマリーカの声がする。
顔を上げてみると、確かにマリーカがいた。職人街のごみごみとした人混みの中、手を振りながらこちらに近付いてくる。
気が早いのかどうかはわからないが、マリーカはこの時期にはもう、いつもの服の上に、毛織物の上着を着ていた。
本格的な冬になればこれにマフラーと手袋に帽子が加わるが、今はまだそこまでしていない。
そのまま立ち止まってマリーカが近づいてくるのを待っていると、幾人かの男の人がマリーカに目を遣るのがわかった。
レオナルドが「マリーカは可愛い」と言っていたが、もしかしたら本当なのかも知れない。確かにまぁ、可愛くなくはないよな。
なんとなく、そのままマリーカを見ていると手に何か持っているのに気付いた。マリーカはそれをヒラヒラさせながら、僕の側まで近付いてくる。
「良かった、見つかった」
息を切らしながら、マリーカまずそう言った。それを聞いて僕は呆れて肩をすくめてしまう。
「怖いことをするなぁ。会えなかったらどうするつもりだったんだよ」
「でもハンス、ここのところいつも早く帰って来るじゃない。だからきっとこの道を通ると思って……」
「あんまり理由になってないような気もするけど、まぁいいや。で、その手にあるのは何?」「あ、そうだった」
マリーカは持っていたものを僕に差し出した。
「……手紙だな」
確かにそれは手紙の形をしていた。封は切られていないようだった。
「そう、手紙。レオナルドからみたい」
言っておくけど、僕もマリーカも字が読めない。つまり、
「レオナルドからかどうかわかんないじゃないか」
ということになる。
けれどマリーカはまったく動じずに、
「私ちょっとは読めるんだから。ここのところに“レオナルド”って書いてあるのよ」
手紙の上の文字を指さしながら、マリーは熱心に言う、けれど、もちろん僕にはわからない。
それよりも、道の真ん中で大騒ぎするマリーカを何とかした方がいい。
僕はマリーカの腕を取ると、家へと向かって歩き出した。
「な、何よ」
「少し読めるだけなんだろ。どっちにしろ親方に読んでもらわないと」
家では親方しか字を読むことが出来ない。
「父さんならいないよ」
「いない?」
その言葉に、僕は思わず声をあげる。
「何で驚くのよ、組合の会議があるって聞いてるでしょ」
「僕が驚いたのは、読めるあてもない手紙もってうろうろしている、おまえにだよ」
心底呆れかえった。これにはさすがにマリーカも堪えたようで、しばらく黙り込んでいたが、やがて良いことを思いついたと言わんばかりに、こう言った。
「そうだ教会に行って神父様に読んで貰おう」
そのマリーカの言葉に心臓が跳ね上がるけど、それはこっちの教区の神父様の話なんだと気付いた。
「まずくないか? 親方宛なんだろう」
「そんなの家に来たんだから、誰が読んだって一緒よ。別に読まれてまずいことが書かれてるわけじゃないでしょ」
書かれているかもしれない。
そんな不安が頭をよぎる。