浮かんで、空を見る
『 浮かんで、空を見る 』
一人の男が歩いて来た。
私はベンチから立ち上がって、その男を見た。
驚いた。
頭の上に、後光が差していたのだ。
差していた、と言うより、鎮座していた、と言ったほうが適切だったかも知れない。
後光と言っても、仏像の光背とかキリスト教の聖人像等に見受けられる光輪、円光、放射光といった洒落たものでは無かった。ただ、ボーと光り輝いているだけの後光だった。
しかし、私が知っている限り、その男自体、後光が差すような聖人君子では絶対無い。
私同様、極めて俗っぽい男なのだ。
私はポカンと口を開けたまま、その男の頭の天辺に鎮座している後光を見詰めた。
やがて、その後光は突然消えた。
と同時に、男の禿げた頭の天辺が視界に入った。
謎は解けた。
何ということは無かった。
通路の天井の照明がその男の禿げた頭の頂部を照らし、反射していただけだったのだ。
そして、後光が消え、俗人に戻った男は私のほうを見て、にやりと笑った。
閉じた唇を少し左側に歪ませるようにして、皮肉っぽく、にやりと笑った。
その笑い顔は私に遠い記憶を甦らせた。
遠い昔の或る光景だった。
四十年以上前の、大学の教養部キャンパスでの光景だった。
教養部のキャンパス自体、終戦から数年間は在日駐留米軍の駐屯地として使用された。
米軍が去った後でも、カマボコ形をしたバラック兵舎はそのまま残され、多くは学生の部活の部屋として利用されていた。
うだるように暑かった夏の或る日、私は部室の前の木陰に椅子を出し、本を読んでいた。
風は無く、日陰にいても汗ばむような暑い日だった。でも、カマボコ兵舎の部室の中に居るよりはましだった。部室は、夏はサウナになり、冬は冷凍庫となる。
私は本を読んでいた。おそらく、高橋和己か、吉本隆明の本でも読んでいたのだろう。
当時の学生ならば、ほとんどの学生が読んでいた。彼らの著書を読む時は、おもむろに、むつかしく、憂鬱そうな顔をしてから読む、ということが一般的に学生らしい読書作法とされていた。私も例外に洩れず、そんな顔をしていた、と思う。
人の気配を感じ、ふと眼を上げたら、彼がいた。私を見ながら、にやりと笑っていた。
今と同じ笑い顔だった。
「全てに絶望したような顔をしているな。憂鬱そうな顔は君には全く似合わないよ」
そのように断定する彼の言葉に、私は苦笑いするばかりだった。
性急と絶望は青春の特徴、と書いた亀井勝一郎の言葉通り、私を含め、当時の学生たちは性急さのあまり、簡単に絶望し、憂鬱で堪らない青春の真っ直中を生きていた。
いつも、何かに飢え、それが満たされていないと言っては、始終腹を立てていた。
その男は私の前に立った。
「武藤、久しぶりだな」
「ああ、去年の同期会以来だね」
「もう、十か月近くになるわけだ」
「ホテルのチェックアウトは済んだのかい」
「ああ、済んだ。でも、帰りのバスの集合時間までは、まだ二時間もある」
「それなら、ちょっと、館内でもぶらついてから、昼飯でも一緒に食おうか」
私たちは肩を並べて歩き始めた。
「ここで会おう、と君から連絡を受けた時は驚いたよ。一体、どういう風の吹き回しだったのかい」
「たまたま、さ。仲間に誘われて、ここの一泊ツアーに参加することになってね。結構安い料金で宿泊できるツアーなんだよ。それで、そう言えば、ここは武藤の地元だよな、ちょっと会って話をしたいな、と思ったわけさ」
「そうかい。でも、誘ってくれてありがとう。こんな誘いでも無ければ、ここへ遊びに来る機会も無いから」
「でも、入場料を払わせてすまなかった。結構、高いのだろう、ここは」
「いや、別に。僕はここの会社の株を少し持っているんだ。常磐興産という会社の株をね。で、半年に一度、入場料無料の株主優待券を何枚か貰える。しかし、その優待券を貰っても、実際の話、使い道が無かったんだ。今回、早速、優待券を一枚使って、無料で入場したという次第さ」
「へえー、君は株をやっているのか」
「例の震災後、地元の企業応援ということで、ささやかながら、最低購入単位の千株を買ったんだ。買った当時は安かったけれど、今は結構高くなっている」
「いい時期に買った、ということか。今は、ほとんどの銘柄が上がっているからな」
「でも、僕は株にはあまり興味が無い。儲けても、悪銭身に付かず、とどのつまりはあぶく銭さ」
「あぶく銭でも綺麗に使えば、綺麗なお金になるよ。お札に、悪銭とは書いていない」
「悪銭とは書いていないけれど、良銭とも書いていないぜ」
私の言葉に、宮本は口元を微かに歪めて、笑みを浮かべた。
私たちはホテルへの出入り口を兼ねた土産物売店を抜け、本館に入った。
館内は年間を通して二十八℃に設定されており、かなり暖かかった。
ハワイの年間平均気温は二十五℃程度であるが、ここはハワイより少し暖かく、設定されている。椰子の木の木陰の小道を歩いた。
右のほうの奥まったところに、テーブルを一杯並べた大きな休憩室があった。
私たちはそこに入った。奥の窓際のテーブル席に肩を並べて、腰を下ろした。
大きな窓から外の様子が見えた。
休憩室は薄緑色に塗られた柱を除けば、全体がクリーム色の明るい色調で統一されていた。四百人ほど収容できる休憩室で、明るい照明の下、何人かの人が水着姿のまま、のんびりと腰を下ろして談笑していた。椰子の実にストローを刺し、飲んでいる人もいた。
二歳ほどの男の子がよちよちと両手を振りながら、テーブル席の間の通路を歩いていた。
「可愛いものだな」
「宮本よ。じじい(・・・)目線になっているよ。自分の孫でも思い出したのかい」
「何、言ってやがる。そう言う武藤だって、じじい目線になっているよ」
「お互い、いいじじいになったものだ」
「なる気で、なったわけじゃないけどね」
「歳月のなせるわざだよ。しょうがないさ」
「武藤、孫はいるのか」
「いるよ。娘夫婦に二人。男と女の孫がいる。だが、いわゆる内孫はいない。息子はまだ結婚していない」
「外孫が二人、か。まあ、いいねえ。俺に孫はいないよ。うちは息子が二人いるけれど、君の息子さん同様、結婚はしていない。のんびりしたものだ。いい年をしているのだが、結婚の話なぞ、全然無い。長男なんか、もう四十近くにもなるというのに」
「今の流行じゃないか。結婚しない男女が増えている。昔だったら、見合い結婚という便利なものがあった。恋愛に縁の無いカップルでも結婚の機会はあった。今の時代は、恋愛結婚がベースとなっており、恋愛の機会が訪れない限り、おひとりさま歴が長くなる」
「しょうがないと言えば、しょうがないが、親としては気になるものだ。息子は二人共、別なところに暮らしているから、まだいいものの、根っこが生えそうな同居となると、いいかげん鬱陶しくなるというものさ」
宮本の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
いつの間にか、私たちは子供の結婚で悩む年齢になってしまったのか、と思った。
私は宮本の齢相応に老けた顔を見遣った。
見合い結婚という結婚の形式自体が馬鹿にされ、恋愛結婚という形だけが結婚の基本形式、ベースとなった。恋愛に不向きな男女の結婚はどんどん遅くなるか、婚姻率が減少していくという結果になっている。つまり、恋愛の機会の有無が婚姻率を決めていくことになる。おひとりさま歴が長くなった男女同士の熟年結婚もその内増えてくるのではないか。
熟年結婚では当然、子供の誕生といったものは期待できない。養子縁組による子供の獲得といったこともその内流行り出すのではないだろうか。養子を持たない夫婦となると、いずれお互いによる老々介護という切ない事態が待ち受ける。
いずれにせよ、私たちが生まれた時代の風潮とは異なる時代となっているのだ。
今後ますます、若者にとってはむつかしい時代になっていくのだろう。
私はそんなことを思っていた。私の思いを察したのか、宮本はにやりと笑った。
窓ガラス越しに、ヒバを短く刈り込んだ垣根が見え、その向こうに数本の木立が見えていた。空は青く、高く澄みきっていた。雲も少しあり、刷毛でさっとなぞったような薄い雲が空高くひらひらと浮かび、ゆっくりと流れていた。綿菓子機から紡ぎ出されたばかりの綿菓子みたいなひらひらした淡い雲だった。時々、カラスであろうか、比較的大きな鳥が木々の間を飛びかっている。しかし、鳴き声は聞こえない。二重窓にでもなっているのだろう。季節は晩秋を迎え、落葉樹の葉の色は緑から黄色、赤色にその色を変えていた。
木はヤマザクラか、ケヤキの樹であったろうか。葉は紅葉の最終段階にあり、緑色、黄色、橙色、赤色、褐色と様々に色を変えていた。そして、全体として地味ではあるが、錦模様に見えていた。
赤色を呈するのは、葉の中にアントシアニンという赤色の色素ができるから、と聞いたことがある。どれだけ、アントシアニンを生成できたかどうかが色調の濃淡のばらつきの原因となるのだそうだ。
地味な錦にも似た斑の色彩の葉を持つ落葉樹の林を私は美しいと思った。完全な紅葉より、ずっと良い。真っ赤な葉っぱで覆い尽くされた樹なんて、赤い造花の葉っぱをぶら下げたような嘘っぱちを感じさせる。人工的な虚飾を感じさせて、私は嫌だ。アントシアニン生成成熟が未完成、不完全のままの樹のほうがずっと自然でいい、と私は思った。
少し、ひねくれているのだろうか。
美に限らず、不完全の美は幸福、或いは人生という範疇にも適用される。完璧な幸福もなければ、完璧な人生といったものもこの世にはありはしない。瑕疵が少しある不完全な人生であったほうが完璧と思われる人生よりも本当は美しい、ということだって十分ありうるはずだ。このような見方は、不完全な人生を生きる、或いは、生きざるを得なかった人の負け惜しみにも似た慰めの言葉に過ぎないものかも知れないが。
目の前の落葉樹の林を眺めながら、漫然とそんなことを思っていた。
正面には、小高い山も見えている。山は六百メートルほどの高さを持つ湯の岳という山である。中腹に、赤い屋根を持つ建物も見えている。話に聞いたことがある、丸山公園という名前の公園の建物かも知れない。
澄みきった青空の下、高圧電線の鉄塔が寂しげな姿で立っている。
「宮本は同期会とは大分ご無沙汰だったな」
「ああ、去年の同期会が四十年振りだった。海外勤務が長かったせいだ。同期会開催の連絡も滞る。こんな頻度で開催されているということすら知らなかった」
「昔は五年毎の開催だったが、六十歳の還暦を迎えてからは毎年開催となっているのだ。五年毎の開催では、果たして生存しているかどうか、心配だよ、という幹事の有難い心遣いだ。言わば、生存確認も兼ねた同期会開催だ」
「そうらしいな。で、来月の飯坂の穴原温泉での開催が卒業四十一年の同期会となる。平均年齢、六十四歳の爺さんたちの集まりとなる。お互いの老いの確認と皺の比べっことなるか。まあ、それもいいか」
「僕も来年は六十五歳になり、高齢者の仲間入りさ」
「武藤は来年か。俺はもうなっているよ。一浪したもの」
私たちは顔を見合わせ、お互いの老いを確認して笑った。昔の宮本は私より一歳年上であったが、美少年の面影を宿した学生だった。湘南に近い街の出身で、あの頃流行った言葉で言えば、少しと(・)っぽい(・・・)男だった。地方出身で垢抜けない学生だった私は、どこか都会的な言動が目立つ彼の存在に憧れにも似た眩しさを感じていたものだった。
後頭部を含めて禿げあがった彼に、颯爽とした昔の面影は失われていた。
しかし、皮肉屋然とはしているものの、知的な感じだけはまだ残っていた。
「今年は何人、集まるのかな?」
「最終確認は未だされていないが、夏頃の幹事連絡では二十三人といったところだった」
「学科の同期は百人ほどだったから、参加率は二十%強といったところかい」
「去年は卒業四十周年記念ということで三十人近く集まったのだが。まあ、去年は例外さ。いつも、こんなものだぜ」
私の言葉に宮本は軽く頷いた。
宮本と私は同じ文芸サークルに属していた。入部当初は知らなかったが、同じ学部で同じ学科でもあるということを知った時から、私たちは急速に親しくなり、親友になった。
下宿も近かったので、お互いの下宿を行き来して、いろんなことをざっくばらんに話し合う仲となった。これ以上は散らかりようがないといった部屋でごろごろと寝ころんで、読んだ本とか観た映画の内容に対する感想、キャンパスで知り合った学生のこと、バスでよく見かける可愛い女の子のこと、お互いの郷里のことなどを語り合った。
文芸サークルの名前は、『未完成』というちょっとおかしな名前だった。学部に上がる前の二年間を過ごす教養部にあった文学同好会サークルだった。医学部含め全学部の一般教養課程で学ぶ学生なら誰でも入れた。創立は十年ほど前と云うことだったが、十年間も『未完成』という名前を律儀に継承したまま続いていた。シューベルトの交響曲・未完成から名前を取ったのかと入会した当初は思っていたが、文学部に籍を置いている先輩に訊いたら、違っていた。
文学は人間探究に主眼を置くものだろう、で、人間はすべからく未完成なものだろう、それで、この文芸サークルの名前は未完成になったんだよ、ということだった。
こう話してくれた男は雀荘に入り浸って二年も留年していた男だった。いいかげんな男だと評判を取っている男の話であり、本当の話かどうか、確かめるすべは無かったが、このように断定する先輩の言葉に私は素直に納得した。そして、サークルの名前、『未完成』という名前は悩み多き学生らしく、なかなか良い名前じゃないか、と好きになった。サークル構成員の学部はばらばらで十名足らずだったが、年に四回程度はガリ版刷りの文集を発行し、構内で教官、学生に配るというサークル活動を行なった。
始めは一応有料としていたが、全く売れず、その内に、無料で配布することとなった。
無料配布でもなかなか受け取って貰えなかった。そこで、暇そうな様子で歩いている学生を見つけては、無理やり押し付けることも度々あった。あまり活発なサークルではなかったが、それでも決められた発行予定日に間に合わせるべく、部員に原稿を催促したり、徹夜でガリ版作業をしたり、結構大変だった。
今でも、ガリ版のインキのにおいを覚えているくらいだ。
未完成サークル自体は私たちが教養部の単位を取り終えて学部に上がった時点で無くなった。肝心の教養部自体が学生自治会によりバリケード封鎖され、その煽りを喰らって、入部者も無くなり、自然消滅したからだった。しかし、今でもあの頃の文集の発行作業を思うと懐かしくて堪らなくなる。わさびを食べた時のように、鼻の奥がツーンとしてくるのだ。この感情だけはどうしようもない。未完成サークルの仲間同士のコンパで酒を呑み過ぎ、二日酔いどころか、三日酔いとなって下宿でうんうんと唸って寝転がって、終日ゲーゲーと吐き通しということもあった。そんなだらしない私を見て、下宿のおばさんはえらく心配してくれた。胃腸薬とリンゴを貰った記憶もある。
そんな思い出も今となっては懐かしく、青春時代の貴重な思い出となっている。
特に、宮本という友達と過ごしたこの教養部の濃密な二年間はかけがえのない思い出に満ちている。金は無かったが、時間だけはたっぷりあった。思い出す度、胸が熱くなる。
あの頃の思い出として、こんな思い出もある。
宮本と私が下宿していたところは、小高い丘に造成された新興住宅街だった。
宮本は賄い付きの下宿だったが、私の場合は間借りで、賄いは付いていなかった。
おばさんの体調が優れず、下宿人に対する食事を作る気力が無いらしく、家の離れの二階建ての部屋だけを学生に貸していたという事情があった。役所を退職したおじさんとおばさんに子供は無く、年寄りの二人暮らしでは何かと物騒だと思ったらしい。それならば、学生に部屋を貸して、言わば用心棒代わりになってもらおうという算段もあったのかも知れない。新築の割に部屋代はとても安く、間借り人としてはありがたかったが、あいにく、私ももう一人の学生もとても用心棒代わりになるような男たちでは無かった。口より先に、手が出るといったタイプの男ではなく、むしろ、その逆だった。手が出ず、口ばかりでは、肝心な時、頼みになる用心棒にはならない。
私と他の間借り人は隣の下宿屋で朝・晩の食事を摂った。おばさんが手配してくれた。
居候、三杯目はそっと出し、とは巷間よく言われる言葉である。私を含め、そこで食べる学生は五人いたが、私たちの食欲は凄まじく旺盛で、そんな遠慮はこれっぽっちも無く、ご飯を平らげては自分でどんどんお代わりをして食べた。その結果、ご飯が入った炊飯器はすぐ空になり、隣のおばさんを顰蹙させたことも度々あった。おばさんの家族のご飯の量が減ったのは間違いない。隣の家のおじさんは元々痩せていたが、どんどん痩せていくように思われた。
教養部キャンパスから下宿までは結構遠かった。
教養部キャンパスから山道をだらだらと登り、山の頂上にある学部構内を通り抜け、断崖絶壁に架けられた橋を渡り、大きな動物園の脇を通って、下宿に辿り着く。歩いて、一時間ばかりの行程だった。急な坂もあり、結構きつい行程だった。
バスは通っていたものの、夜中になると、通らなくなる。文集のガリ版刷りは夜中までかかり、宮本と二人、てくてくと歩いて下宿に帰ることも何回かあった。
途中の断崖絶壁に架けられた橋は当時、自殺の名所と云われていた。
今は高い柵が橋の両側に設置され、飛び降りを防止しているようであるが、当時はそれほど高い柵は設置されておらず、簡単に乗り越えられた。橋から下の岩だらけの谷川までの高さは七十メートルほどあり、落ちたらまず助からない。昼間はバスも通り、車も結構通る橋であるが、夜になるとバスは通らず、車もほとんど通らなくなる。
そこで、夜間の自殺が頻発するようになった。
年間で四、五人ほどの人がこの橋から身を投げて死んでいたはずだが、近くに観光の名所があって、風評被害を恐れてか、当時、自殺ニュースは報道管制されていたようであった。新聞に載ることはほとんど無かった。落ちた人の体は脚が胴体にめり込み、半分ほどの身長になってしまう、という薄気味悪い話も学食ではまことしやかに囁かれていた。
ミートローフ・ランチを美味そうに食いながら、そんな恐い話をする学生もいた。
そのように云われている橋を夜中に渡るのはまことに気味が悪い。
渓谷になっているためか、始終風が強く、ヒュー、ヒューと唸っている。
時には、恨みを呑んで死んだ人の怨霊が耳元で、早くお前も来い、いつまでも憂き世にしがみついているんじゃない、早くこちらへおいで、と囁くような声にも聞こえてくる。
この橋は日本でも有名な心霊スポットにもなっており、時にはいい心霊写真も撮れるらしいよ。なんでも、橋の入口で写真を撮ると、背後にボーと他人の顔が写っていることもあるのだそうだ。このように話す学生も居た。
そんな橋を夜中に、私たちはよく渡って下宿に戻った。宮本も不気味に思っていたのか、橋にかかるまではゆっくり歩いていた彼が、この橋を渡る時はいつも、かなり早足になったように思われた。女ならば、手を繋いで駆け足で渡るかも知れない。しかし、痩せても枯れても、男は男だとばかり、男の矜持も手伝ってか、私も宮本もさすがに手を繋ぐということは無かった。でも、何か不気味な音がドンとばかり聞こえてきたら、思わず手を繋いだかも知れない。男同士だって、手を繋ぎたくなる瞬間はあるものだ。
教養部時代は宮本と歩いたが、学部では宮本とは言わば冷戦状態が続き、夜中一緒にこの橋を渡って下宿に戻るといった状況は無くなった。卒業論文に取り掛かり、実験が続き、晩秋から冬の三か月程度は夜中まで実験がかかるという日々が続いた。
寝袋を研究室に持ち込み、実験終了後は少し仮寝をして翌朝の始発バスに乗って下宿に帰る、というのが普通だった。しかし、たまには、夜中に歩いて帰る時もあった。
雪が降り始め、このまま朝まで待てば、雪でバスが運休する恐れがあった時は、しょうがなく歩いて帰った。当然、雪が降る中、この橋を通ることとなる。
シーンと静まりかえった中で、風の音だけがヒュルヒュルと不気味に聞こえてくる。
毛糸の帽子を目深に被り、薄っぺらなコートのポケットに手を突っ込んで急いで渡る。
でも、半ば凍った雪に足を取られ、なかなかうまく歩いていけない。急いで渡りたいのに、早足では渡れない。とても、もどかしく感じたものだった。焦りながら、歩いた。
冷えきった体で下宿の離れのドアをそっと開け、部屋に入って、万年床に急いで潜り込む。暫くは、ガタガタと寒さに震える体を持て余しながら、じっと耐え忍ぶ。
その内、布団も次第に暖かくなり、疲れ切った体は回復を求め、深い睡眠に墜ちていく。
でも、そんな時に見る夢はろくなものではなく、橋が急に崩れ、谷底に真っ逆さまに落ちていく夢とか、雪山で遭難し、雪の中に埋もれて徐々に凍え死んでいく夢とか、嫌な夢ばかりだった。
もう、十年ほど前になるが、同期会がこの街の近郊の温泉で開催されたことがあった。
翌日、時間があったので、三十年振りにこの間借り先を訪れてみた。私の気紛れだった。
家は当時のままあったが、かつての小奇麗な面影はなく、率直に言えば、半ば幽霊屋敷になっていた。かつて、賄いを提供してくれた隣家に挨拶をして、尋ねたところ、おじさんは二十年ほど前、おばさんも十年ほど前に亡くなっていた。家はおばさんの親戚が管理しているようであるが、ここ数年は訪れることもなく、家は勿論、庭も荒れ放題で、ご覧のような状態になってしまったんですよ、ということだった。草は刈られることもなく、伸び放題、本宅の玄関先にあった柳の木も手入れされず、随分と大きくなって、細長い葉をいっぱい茂らせた枝が不気味に垂れ下がっていた。夏の夜ならば、この柳の木には幽霊がよく似合うかも知れない、と私は思った。
暫く、その懐かしい家を茫然と眺めてから、帰路に着いた。懐かしい思い出はいっぱいあったが、何だか急速に色褪せていくような気がして、これならばいっそ再訪しなければよかった、と思った。思い出深いところに、再訪してはならない、という古人の至言もある。こんなはずでは無かった、という幻滅、失望を味わいたくなければ、決して訪れてはならぬ、という戒めの言葉だ。
私は郷愁に浸ることもできず、残念な思いだけを抱いて、そこを去った。
宮本との交遊の多くは今でも楽しい思い出となっているが、楽しくない思い出もある。
宮本に女の子をとられたという苦い思い出だってあるのだ。苦く辛く悲しい思い出だ。
教養部二年の初夏の頃だった。青葉、若葉に満ち満ちた、気分も浮かれる季節の頃だった。私も宮本も極めて俗っぽい学生だったので、世間の風潮には敏感で、当然のように浮かれた。目に青葉、山ほととぎす、初鰹、だとばかり、ハイキングをして自然を満喫しようということになった。そこで、私たちはバスで少し遠出をして、近郊の温泉場周辺を散策した。山道は疲れる。『こわい』、と言ったら、宮本は怪訝そうな顔をして、ちっとも怖いことなんか無いよ、少し疲れるだけだよ、と言った。『こわい』というのは私の郷里の方言で、疲れるという意味だ。疲れて頭がぼうっとすると、思わず、方言を使ってしまう。
宮本が坂になっている山道を歩きながら、さかんに疲れた、疲れた、と言っていた。
こわいのかい、と思わず訊いたら、馬鹿言うな、怖いことなんかありはしない、ただ疲れただけだ、と宮本が言う。どうも、まともな会話になっていないな、と私は宮本に知られないように苦笑いするばかりだった。
涼やかに流れる渓流を横目で見ながら、細い山道を歩いていると、道の傍らに洒落た作りの木のベンチが置いてあった。流木を組み合わせて作ったようなベンチだった。
そのベンチはさあお座り、疲れただろう、と私たちを誘っているように思われた。
先客がいたが、かなり歩いて疲れていたので、遠慮は無用とばかり、そのベンチに座ることとした。
先客は少女の面影を宿した女の子だった。ベンチの端にちょこんと座っていた。
瓜実顔で少し愁いを帯びている。眉が細く、睫毛が長い。美人というわけではないが、すっきりした顔立ちをしている。私好みの顔をしていた。少し、心がときめいた。
私はさっさと女の子と反対側のベンチの隅に腰を下ろし、宮本はベンチの真ん中に、女の子と私の間に座ることとなった。女の子は私たちの出現に、緊張したらしく、固い表情をしていた。でも、宮本はこんな時、妙に世慣れた態度で口がきけるタイプだった。
今日は暑いですね、といった他愛ない挨拶から始まり、その内、私たち三人はかなり打ち解けた会話を交わすようになっていた。年齢も同じくらいということも、打ち解ける要因の一つになっていたことと思う。訊けば、短大生で今、私たちと同じ街で時々バイトをしながら暮らしているらしい。バイト先は有名な最中の店で、そこの職場旅行に誘われて、今は近くの旅館に泊まっているということだった。職場旅行には来たものの、おばさんばかりで話が合わず、抜け出して、旅館の周囲をぶらぶらと歩いていた、と言っていた。
暫く雑談を交わしたが、時間なのでそろそろ旅館に戻らなくては、と女の子が言った。
女の子をエスコートする形で、私たちは旅館までその女の子と歩いた。
途中の道で、宮本は犬か猿の糞でも踏んだらしい。歩いていると、宮本の歩く足元から臭いにおいが立ち昇ってきた。宮本に言うと、宮本は女の子との話に夢中になっていたのか、気づかなかった、と言う。見ると案の定、宮本の靴底にはしっかりと糞が付いていた。
私は思わず声を上げて笑ったが、女の子は笑うまいと我慢したらしい。
他人の不幸を笑うのは、エチケット違反だと思っていたのか。
女の子は下を向いて歩いていた。しかし、笑いを堪えている事は手に取るように分かった。どちらかと言えば、青白いほうだった彼女の頬は、その時は紅潮していたのだ。
宮本も苦笑いして、自分のドジを照れくさそうにしていた。靴底を地面になすりつけ、付着した異物を何とか落そうとしたが、異物は靴底の段差、ギザギザの隙間にしっかりと固着しているらしく、取れなかった。しょうがないなあ、じゃあ、道の下に行って、靴底を洗って来るよ、と言って宮本は道端を渓流に向かってばたばたと降りて行った。
でも、途中、ぬかるんだところがあったらしい。宮本は私たちの目の前ですってんころりんと派手に転び、尻餅をついた。起き上がった宮本は照れくさそうな顔はしていたが、私たちには何でもないよ、とばかり、Vサインを示しながら手を振った。こんな時に、Vサインもないだろう、と思った。旅館の前で、再会を期して、私たちは別れた。
別れた後、私は宮本のジーンズの尻がびしょびしょに濡れて汚れていることに気付いた。
指摘すると、どうもけつ(・・)が冷たいと思っていた、と宮本はのんきな口調で言った。
おかげで、帰りのバスでは、座席を汚してはいけないからと言って、宮本は一時間ばかり立ち通しだった。行きの山道では歩き疲れ、帰りの揺れるバスでは立ち疲れ、結局このハイキングは宮本にとってさんざんなハイキングとなってしまった。
普通はそのまま、女の子と再会もせず、束の間の淡い交遊で終わるはずだったが、そうはいかなかった。一週間ほどして、宮本が私を誘い、あの女の子に会いに行こうということになった。女の子と付き合うという軽い冒険をしたくなったのだ。振られて元々、脈があればそれは儲けもの、といった軽く不埒な気持ちで会いに行った。
彼女は売店の売り子として、店に出ていた。少し意外そうな顔をしたものの、私たちに会釈し、同時に、笑顔を見せた。少しはにかむような笑顔に私は魅せられた。
しかし、宮本が私同様、彼女に魅せられていたということには気付かなかった。宮本好みの女の子ではない、と私は端から決めていたからだ。その後、私たちは三人で時折街をぶらぶらと歩く仲になった。最初のデートは宮本が誘ったが、その後、彼女を誘う役目は私になった。下宿近くの公衆電話に行き、彼女のアパートに電話をかけ、彼女を呼び出してもらった。声が震えるのが自分でも分かり、俺は小心者だと思い、我ながらいつも、いまいましく思ったものだ。
彼女とのデートの際、私は宮本を必ず誘った。一人で彼女とデートするのが怖かったのかも知れない。彼女に対して、どんな話をすれば良いのか、どんな振る舞いをすれば良いのか、皆目見当がつかず、自信もなかったからだ。宮本がいれば、なんとかなるし、自分もさりげなく振る舞っていられる、という安心感も手伝っていた。
そんな関係が半年ほど続いた。或る時、私は街の大通りを行進する反戦デモ隊の行列の中に彼女を見かけた。同時に、彼女と手を繋いでいる宮本の姿も眼に映った。宮本は政治的にノンポリ、無関心の私と違って、全共闘の一員として当時の大学闘争に積極的に参加していた。黒ヘルをとっぽく被り、デモに参加するよう、私を誘いに来るのはとても迷惑だった。酒を呑み、酔うと、大きな声であたり構わず、ヴ・ナロード(民衆の中へ)! と叫び、私を辟易させるのも常だった。帝政ロシアのナロードニキでもあるまいし、民主主義の国家である日本には似合わないよ、啄木の真似はやめろ、と言う私に彼は反発し、君みたいなナルホドニキには分からん、と言い返してきた。自分の意見を持たず、相手の言うことをなるほど、なるほどと相槌を打って聞いてばかりいる私への当てこすりが、ナルホドニキという表現だった。言われる都度、私はムカッとした。馬鹿にするな、と言いたかった。しかし、その反面、宮本の言うことは当たっているかも、と心の片隅で呟いていたのも事実だった。
私は宮本と手を繋ぎ、シュプレヒコールを声高に叫ぶ彼女の生き生きとした姿を目の前にして、言葉を失い、茫然と見詰めていた。その日は、私は彼女をデートに誘っていたが、都合が悪いと断られていた日だったのだ。生き生きとして、少し紅潮した彼女はとても綺麗に見えた。時々、彼女を見遣る宮本の優しい微笑も私は見逃さなかった。
歩道で見詰める私と彼らの距離は五メートルほどであったが、随分と離れているように感じた。彼らは私から随分と遠くに行ってしまったように感じたのだ。そして、同時に、恋の終わりも感じた。その後、私は心の中で、彼女を封印した。それ以来、宮本の前で、私は彼女のことを話すことは無くなった。
しかし、失ったものの大きさは後でボディブローのように効いてくるものだ。読書に疲れ、時々、蒲団に寝そべったまま、ぼんやり天井を見ていると、ふいに彼女のことが思い出され、胸がつまってくることがあった。どうにも我慢できず、嗚咽することもあった。
そんな時は蒲団をかぶって、じっと耐え忍ぶしかなかった。
幾度、そんなことをしたことだろう。
「しかし、昨年の同期会は傑作だったなあ」
宮本が笑いながら言った。つられて、私も笑いながら言った。
「土いじりの話は傑作だった」
去年の春に退職した男が同期会の席上、近況報告の時に話した内容はこんな感じだった。
「趣味は何ですか、と訊かれ、庭仕事と答えるつもりだったが、仕事というのがおこがましく、無難なところで、土いじりと答えることとしており、ええ、土いじりですよ、と答えると、お元気ですなあ、とか、お達者ですなあ、とか、お若い、とか云う反応が返ってくるんです。と同時に、何とも言えない、にやにや笑いも伴っています。それが、何回か続くと、さすがにおかしな反応だと僕も思ってくるんです。で、或る時、その反応がどこからくるのか、判明しました。或る人が、おさかんですなあ、と感嘆したように語ったことで、ピンときたわけです。僕はご承知のように、郷里の訛りが強く、僕は土いじりと話していても、相手の耳には、どうも、乳いじりと聞こえるんですな。真面目な顔をして、趣味を乳いじりと言う人に対して、相手としては、にやにや笑いをしながら、お若い、お元気ですな、とか、お達者ですな、おさかんですなあ、と言うしかない。で、それからは、趣味は庭仕事です、と答えることにしています」
全員が爆笑した。と同時に、日本では土いじりでも、ベトナムでは乳いじりをしたんだろう、という茶々も入り、また、全員が爆笑の渦に巻き込まれた。その男は技術指導ということでベトナム出張が多かった男でもあったのだ。
彼ばかりではなく、同期の中には、海外勤務とか海外出張が多かった者も数多くいた。
中国駐在が長かった者は、接待は大変だったよ、と語るし、東南アジア出張が多かった者は、接待はなかなか良かった、と語っていた。接待をする者は大変だったろうし、接待を受ける者はなかなか良かったのだろう。行きはよいよい、帰りは怖い、と調子っぱずれに唄い、中国帰りの同期の近況報告に対して中国ビジネスを揶揄する者もいた。中国でのビジネスは参入より撤退が難しいからだ。
同期で大学教授になった者も数名おり、また、大企業の取締役とか、子会社に転じて社長になった者も何人かいるが、同期会の中では、現役の頃の話はほとんど無かった。野暮だと思っていたのだろう。そんな話よりは、昔の悪太郎に戻って、昔の馬鹿話をしたほうがずっと良い。当時経験した滑稽な話を披露する者、つるんで遊んだ仲間のことを得々と話す者、近況を、特に罹った病気のことなどを面白おかしく話す者、などいろいろ居た。
そして、わいわいと騒ぎながら、賑やかな宴会は二次会のカラオケに引き継がれ、場所を変えて延々三次会まで続くのが普通だった。
ただ、同期会では子供とか孫の話題はあまり出なかった。同期の仲間には子供が居ない、或いは、孫がいないという仲間もいたからだ。無邪気に、或いは無神経に子供自慢、孫自慢をして、子供とか孫に恵まれなかった仲間に不愉快な思いをさせてはならない、という配慮も無意識に働いていたのだろう。同じ学科の同期百人の中で、六名ほどが既に亡くなっており、同期会に集まった仲間の中には奥さんを亡くしている者もいた。
「うっかりと、女房のこと、子供や孫のことなど、言えないな。まあ、人生、いろいろ、男もいろいろ、だよ」
私が呟くと、宮本が皮肉っぽく笑いながら受けた。
「でも、人生、最後が肝心だぞ。あのナポレオンだって、こう言っている。いかなる生涯においても、栄光はその最後にしかない、とね」
「人生の過程での栄光は束の間の栄光であり、仮のものでしかない、ということか」
「そう言ったナポレオンの末路は哀れだった。絶海の孤島、セントヘレナで栄光どころか、孤独に包まれて死んだのだから。皮肉なものだ」
窓の外で、木々が揺れていた。風が強く吹いているらしい。
「同期会って、逆日めくりみたいなものだなあ」
「逆日めくりって、どういう意味だい」
「いつも感じることだが、僕は同期会の会場に行く際、日めくりを逆にめくって、昔の自分に戻っていくのを感じるんだ。一挙に、昔に返る人もいるけれど、僕は違う。バスとか電車の中で、車窓の風景を見ながら、一枚、また一枚と日めくりを逆にめくり、昔に返って行く。白頭の翁から紅顔可憐な美少年に帰っていくのさ。そして、同期会の会場で仲間の顔を見た途端、僕は二十歳の若者になる」
私の大袈裟な言葉に宮本はアッハッハと笑った。
「でも、武藤よ。同期会が終わって、家に帰る途中で、逆にめくった日めくりはまた現実に向かってめくられていかなければならないんだぜ。そして、否応なしに、元の白頭の翁となっていくんだ。元の木阿弥に戻るのさ」
昼食でも摂ろう、ということになった。休憩所を出て、温水プール脇の高架通路を歩いて、江戸情話・与市というところにある蕎麦屋に入った。その店の片隅に座り、ビールを飲みながら、与市セットというミニ丼が付く蕎麦定食を注文した。
宮本は昔から如才ない男だった。この時も、店の女の子を相手にこんな会話をした。
「おねえさん、この店のお勧めは何?」
「与市セットが人気ありますよ」
「じゃあ、それを貰おうか。で、ミニ丼が付くけれど、どんなミニ丼があるの?」
そして、注文した後も、女の子に話しかけていた。
「おねえさんは、フラダンサーとは関係ないの?」
「私はここの店員で、フラダンサーの方は常磐音楽舞踊学院を出た人しかなれません」
「その常磐音楽舞踊学院という学校はむつかしいの?」
「毎年、五・六人の卒業生しか出しませんから、むつかしいと思いますよ。私なんか、到底無理です」
「へー、そんなものかい。おねえさん、スタイルもいいから、何とかなると思うけど」
女の子は笑いながら、お茶を置いて戻って行った。あの頃と全然変わっていない。
私は宮本が店の女の子と交わす気楽な会話を聞きながら、そう思っていた。
暫くして、注文した与市セットが運ばれてきた。
「会社の方は少し早めに退職したんだが、ちょっと暇を持て余してね、・・・、この夏頃から、或る会社の嘱託社員として働いているんだ。ここへのツアーもその会社の職場旅行さ。福島復興支援としてね」
宮本が蕎麦を箸でつまみながら、話し始めた。
「銀座近くというか、新橋に近いところにある貿易会社でね。前の会社と取引のあった会社なんだ。そこの知り合いから誘われて、週二回程度の出勤で、東南アジアでのビジネスのアドバイザー的な役割を果たしている」
ペイは大したことはないが、頭の刺激にはなる、一種のボケ防止だよ、と宮本は続けた。
そのせいか、宮本は一年前の宮本とは違った明るく、生気に溢れた表情をしていた。
私はそう語る宮本に少し羨望を感じた。意外な感情であった。時間がたっぷりある、今の暮らしに満足しているはずの私が再び働き始めた彼に羨望を感じたのだ。
私は今年の三月に、出向していた業界関連協会の理事を退職して郷里に戻った。言わば、Uターンして地元に戻った出戻り組だった。お盆とか正月の短期帰省はともかく、高校卒業後、四十五年振りの最終的な帰省で、ここがいわゆる終の棲家となるのだ。大学を出てからは四十年、団塊世代の例に洩れず、働きずくめのサラリーマン人生だった。
現役当時は三連休でもあると、しめしめとばかり、さあ何をしようかとわくわくした気分になったものだが、毎日が日曜日という状況になると、四月、五月は妙に落ち着かない気持ちになり困ったものだった。サンデー毎日に憧れていたはずなのに、いざ、そのサンデー毎日という状況になると、妙に落ち着かないという心持ちを味わったのだ。
それでも、六月頃になって漸く、閑暇な日々に対する過ごし方の要領が分かり始め、時間をさほど持て余すことも次第になくなった。そして、時間がたっぷりある現在の暮らしを感謝するようになった。言わば、極楽蜻蛉といった気分で、時間的に余裕のある生活のペースに馴染んできた。
その私であるのに、今こうして宮本が再就職したという話を聞いて、心穏やかではなくなる自分がいるのに少し驚いていた。実を言えば、この頃、私は浮遊感に悩まされている。
どうも、ふわふわとした感じに囚われることが多くなったのだ。時間にとらわれず、気儘に生きている今の暮らしに十分満足しているはずなのに、どうも、気分がふわふわとしてくるのだ。このまま、老いて死んでいく。お前はそれで満足しているのか、という呟きも心の奥底で木霊するようになった。その木霊を聞くようになってから始終、私はこのぼんやりとした浮遊感に悩ませられている。ふわふわと、頼りなく漂っている自分、という意識に悩ませられているのだ。
人生、ふた山だ、もうひと花咲かせたい、とでも思っているのだろうか。
「実際、会社を辞めて初めて気づいたんだが、日本と云う国は肩書社会だったんだな、ということさ」
宮本がぼそっと呟いた。
私は宮本の真意をはかりかねて、尋ねた。
「肩書社会って、どういう意味で言っているんだい」
「現役の頃は、初対面の人にはまず名刺を渡すということが当たり前だったろう。あれは、つまり、自分はこういう組織に属し、こういう地位に居ります、という自己紹介旁、自分と云う存在価値を表わす行為だったとも言えるだろう」
「なるほど、名刺交換という習慣がその代表的な行為ということか」
「現役の頃は、会社から与えられた名刺で十分だったが、いざ、会社を辞めてみると、渡すべき名刺が無くなる」
「渡すべき名刺が無くなる。当たり前じゃないか。名刺を作ってくれた組織から離脱したのだから。でも、中には、『元・・・』と書いた名刺を自分で作って渡す人も居るよ。僕も、『・・・会社 元執行役員 何某』と書かれた名刺を貰ったことがあるよ」
「俺は普通の老人じゃない、執行役員まで務めた人間なんだぞ、という自己アピールか。なんか、侘しいねえ」
宮本がにやりと笑い、私もつられて笑った。
「武藤は結構長く会社に居たから、そういう思いは無いだろうけれど、早めにリタイアした人間にとって、初対面の人から名刺を貰うということはなかなか辛いことなんだぜ。
こちらから、渡すべき名刺が無いのだから。釣り合いが取れないというか、間が悪くってねえ」
「でも、宮本よ、今は名刺を作って貰っているんだろう。持っていれば、見せてくれよ」
私から言われて、宮本はボストンバッグの中に手を入れてごそごそとしていたが、やがて一枚の紙片を取り出して、私に渡しながら言った。
「要らないと言ったんだが、作ってくれてね。でも、改めて持ってみると、結構便利なものだなあ、と再認識したよ。初対面の人に渡す時、何か晴れがましい気分になるもの。俗物なんだよ、俺は」
「現在の肩書は、社長補佐、かい。たいした肩書じゃないか」
「小さな会社でね。社長補佐は俺の他、五人も居るよ。・・・部・・・部長、といった肩書は一人に限定されるけれど、社長補佐は何人居たって、困るものじゃないもの」
宮本の率直な言葉に私は噴き出してしまった。
「名刺が無くなって、初めて名刺の有難味が分かるということか。僕も経験しているよ。肩書が無くなって、単なる一社会人になるということは実に寂しいもんだ。会社員から無職の社会人になるというのも、少し訓練を要するものだ。言わば、一住民として、地域社会に復帰するということだ。社会人になるリハビリも必要ということかなあ。今まで、仕事にかまけて、地域のことなんか、これっぽっちも思わなかったんだから。今は、女房殿に尻を叩かれているよ。もっと、常識的な社会人になりなさいよ、とね。会社人にはなれても、地域の付き合いに馴染む社会人にはなかなかなりきれないものだ。会社と社会。字を逆にしただけれど、違いは本当に大きいものだ」
このように宮本に話しながら、私自身、リタイア後の肩書無しの自分に対する戸惑いと同時に、単なるただの年寄りになってしまったことに対する苛立ちもあるのかと思っていた。自分自身に対する思い上がりという厄介なものはなかなか消えないものだな、とも思った。
「武藤は今、のんびりしているのか。もう、働く気はないのかい。確か、去年の話では協会も今年の春で辞めるという話だったけれど」
「ああ、予定通り退職した。もう、働く気は今のところはないよ。ようやく、のんびりするのにも慣れたところだし」
「協会の理事って、どんな仕事だった?」
「加盟各社へ業務連絡を定期的に行ない、了承を得る仕事とか、業界と関係筋の間のいろんな利害関係の調整といったところがメインだったな。たまには、関連団体に赴いて、感謝状とか表彰状を渡したりする仕事もあって、結構忙しかったよ。あの街にも協会関連の出張で二回ほど行った。随分変わっていて、びっくりしたよ」
宮本は私の話を頷きながら聞いていたが、ふと思い出したように話し出した。
「ところで、山本の話、聞いているかい?」
「僕と同じ研究室だった、あの山本の話かい。一体、どんな話?」
「栗山から去年聞いた話では、若い頃、離婚した女とつい最近、再婚したという話だよ」
「離婚した奥さんと再婚した、というのか。一体、どんな風の吹き回しだったのか」
「栗山が笑いながら言っていた話によれば、別れて別な女と結婚はしたものの、うまく行かず、最終的には離婚して、長いこと独身で暮らしていたんだって」
「子供はいなかったのかい?」
「いなかった。それで、淋しくなって、昔別れた彼女に連絡を取って、また、結婚したという話だよ」
「よく、昔の奥さん、承知したなあ」
「彼、土下座して頼んだらしいよ。離婚した原因も彼の浮気が原因だったらしいし、今更どの面下げて、また、結婚してくれと言えた義理ではないけれど、何とか一緒に暮らしてくれ、と必死に頼み込んだらしい」
「それで、奥さん、承知したのかい」
「最終的には、承知したんだろうな。山本が栗山に話したところでは、収入の方はともかく、お一人様の暮らしが何とも侘しく、老後のことも心配になって・・・、という話だった。言わば、齢を取って、不都合な真実に気付いたということかも」
「孤独死を恐れて、ということか」
「でも、彼の奥さんはまだばりばりの現役で、マンション販売の斡旋会社で一杯稼いでいるらしい。品川の方にマンションを買って、山本は自分の金は自分一人で使いたい放題らしい。ゴルフも月に二回は行っているらしい」
「いい身分だな。しかし、山本は俺には一言もそんな話はしないよ。同期会で相当会って、話をしているのに」
「武藤には、話しにくかったのだろう。でも、栗山には話せる。何と言っても、山本と栗山はポンユーで学生時代はろくに勉強をせず、適当に遊んだ仲間だから、気安い話ができるのさ」
宮本はそう言いながら、思い出したように言葉を続けた。
「山本と栗山のことを言える義理じゃない。俺だって、そう真面目な学生じゃなかった」
その言葉を聞いて、私は宮本に対して悪いことをした過去を思い出した。
大学四年の春の就職活動の時のことだった。教養部の二年が過ぎ、学部に上がった時、宮本と私は、学科は同じであったが、研究室はそれぞれ違う研究室を選んだ。
かつては、下宿を往来する仲だったが、女の子の事件以来、どうも気まずくなり、私たちはお互い距離を置くようになってしまった。教室で一緒になっても、ろくに口もきかないという、よそよそしい関係となってしまった。好きだった女の子を奪われたという、私が一方的に心に抱いたわだかまりが原因であった。
四年になって、就職活動の際、私は宮本に残酷なことをしてしまった。
今はどうなっているか知らないが、その当時は、新入社員募集の企業案内は先ず、学科の掲示板に張り出された。その企業を希望する者は氏名記入欄に名前を書いて、とりあえず、ノミネートするのがルールとなっていた。早いもの順といった優先順位などはなく、ノミネートすること自体は自由だった。企業からの募集人員を越える時は、教授が調整を行なうこととされていた。応募者に募集人員は知らされておらず、人気のある企業には何名かがノミネートするという事態も多くあった。
教授による調整は成績を考慮して行われるのさ、ということも学生の間では秘かに囁かれていた。でも、 当時は学生百人に千社以上からの求人があり、選り取り見取りで就職できる状況であった。
今と違い、全体的に右肩上がりの経済状況の中で、就職活動は極めて楽な状況だった。
何気なく、募集案内を見ていたら、応募枠に宮本の名前があった。その企業はその業界の中で一番給料が良いという評判を取っている会社だった。何名の募集かは知らないが、ちょっと応募してみようか、という気になり、私も宮本の下に名前を書いた。募集人員が二名であれば、私と宮本の二人共、入社試験に行くことができる。
入社試験は形式的なもので筆記試験は無く、面接試験だけだった。
学校の推薦があれば、ほぼ百パーセント、入社できる時代だった。しかし、企業の募集人員枠が一名であれば、どちらかが調整されることとなる。調整が成績順ならば、私と宮本のどちらが成績上位か、図らずも知ることとなる。面白いじゃないか、と私は軽い気持ちでそう思った。正直に言えば、成績の面で私は宮本に劣るとは思ってはいなかった。
調整された結果、宮本が弾きとばされれば、いい気味だと思う気持ちもあった。
何と言っても、宮本は私の恋敵であり、恋に関しては私を打ち負かして勝者になった男だ。人生、思うようにはいかないよ、とお仕置きをしたい気持ちだった。
恋の恨みを思い知れ、とばかり、私は自分の名前を力強く書いたのだ。
数日後、所属している研究室の教授に呼ばれた。
調整されるのは意外にも私か、とびくびくして行ったら、宮本君もノミネートしているのだが、君はどうしてもこの会社に行きたいのかね、という質問が教授の口からなされた。
いつもは柔和な表情をしている教授にしては、少し真剣な眼差しをしていた。
はっきり言えば、どうでも良かったが、その時は弾みで、ええ、行きたいです、以前から希望していた会社ですから、と答えてしまった。その時は勢いで、そう答えたものの、宮本にすまないという気持ちもあり、二、三日は何となく憂鬱だった。やはり、ノミネートはやめておこうと思い、名前を消しに行った。しかし、時既に遅く、掲示板を見たら、宮本の名前が消され、私の名前しか無かった。調整はもう済んでいたのだ。
予期したことが予想通り成就したという達成感はまるで無く、私は忸怩たる思いで、掲示板の名前が消された跡を見詰めていた。何という、理不尽なくだらない復讐をしたものだ。取り返しのつかないことをしてしまった、と思った。今でも、その疼きは私の心の奥底のどこかにある。宮本は別な企業を選択することとなったが、私へのクレームは一切無かった。不愉快に思っていたことは疑うべくもないことであったが、ついぞ、口にすることはなかった。今もそのことは、宮本の心の中で封印されているのかも知れない。
「宮本は五十九歳で早期退職したということだが、早期退職した理由は何だい。その年齢じゃ、リストラでもあるまいし」
「俺は海外赴任が結構長かったのだ。東南アジア中心に通算で十五年ばかり、三回ほど、駐在したかなあ。家族を呼んで一緒に暮らしたこともあったし、単身赴任で頑張ったこともあった。でも、疲れてしまった。疲れたんだよ。心も身体もね。五十七歳になって、タイから本社の管理部門に戻った。生産現場から生産管理部門に配属されたという次第でね。本社に戻って、やれやれと思っていたら、二年ほどして、またぞろ、海外赴任の話が持ち上がってね。タイかな、と思っていたら、今度はマレーシアという話だった。マレーシアっていう国、知っているかい。マンションでも、窓という窓、ドアというドアに鉄格子がはまっている国だぜ。治安を考えての配慮の鉄格子さ。鉄格子なんて、見た目が悪いし、居住者は全て囚人みたいなものさ。いくら、外からの侵入防止と言ってもさあ。嫌な感じを抱くよ。若い頃なら、何とかなるさ、と赴任できても、齢を取って日本に戻って、神経を使わずに済む、安楽な暮らしに馴染むと、もう駄目さ。行きたくないと思い、その話を断り、勢いで、ついでに少し早めに会社を辞めてしまったということだよ。早期退職制度のギリギリのところで、ちょっと、割増しの退職金はついたけどね。それと、正直に言えば、いろんな『ごっこ』遊びにも飽きてしまった、ということもある」
「『ごっこ』遊び? 何だい、それは」
「武藤だって、経験あるだろう。ほら、会社で昇進するにつれて、課長なら、課長らしくあれ、部長なら、部長らしくあれ、あの人を見ろ、あの人の真似をしていれば間違いない、あの人の真似をしろ、というやつさ。何はともあれ、その役職に習熟しなければならない。言ってみれば、ごっこ遊びみたいなものさ。課長ごっこ、工場長ごっこ、部長ごっこ、社長ごっこ。サラリーマンとしての世渡り習熟ごっこさ。俺の場合は、課長職を経験してから、タイで工場長職を経験し、本社に戻ってから部長職を経験したのだが、或る時、ふと気付いたのさ。俺はなんのかんの言いながら、結局はガキ大将にくっついて遊ぶ、ごっこ遊びを真面目な顔をして、していたのではないか、と。そう思うと、何だか、空しくなってね。もう、いいかげんにして、止しにしたくなったのさ」
宮本はそう言いながら、泡の消えたビールを不味そうに飲んだ。
「会社を辞めて、三年ほどのんびりとしていたのだが、どうしても時間を持て余し気味になってさ。日本のいろんなところを旅行したり、時には海外旅行もしたりしたんだが、もやもや感がどうしても収まらなくってね。少し、鬱気味にもなっていたんだ。そんな時たまたま、知り合いから、話があったのを渡りに船とばかり、また働き始めたということ。小遣い稼ぎにもなるしね。旅行とかゴルフの足しにはなるよ」
私に、残ったビールを注ぎながら、宮本は私に訊ねた。
「で、武藤は今、時間を持て余してはいないのかい」
「ああ、余り持て余してはいないよ。未だ、リタイアしてから半年ちょっとだからさ」
嘘を吐いている、と私は思っていた。持て余してはいない、と宮本には答えたが、真っ赤な嘘だと私は思っていたのだ。辞めて二ヶ月ばかりは持て余し気味で困ったが、三か月ほどすると、ペースに慣れてきたのか、さほど気にならなくなった。
しかし、この頃になって、やはり自分は時間を持て余しているのだ、という気になってきた。自由な時間がたっぷりあるという生活のペースには馴染んだものの、そのペースに違和感を覚え始めている自分にも気が付き始めているのだ。どうも、しっくりしないのだ。
このまま、何もせず、のんきに暮らしていいのだろうか。自分にはもっと自分らしいアピールを外の世界に示すことができる能力があるのではないか、と思うようになってきた。
四十年ほど働いてきたものの、自分を十分アピールできたかと言うと、全然自信が持てないのだ。もっと、やれたんじゃないか、という思いをどうしてもふっきれないでいる。
その時、その時で一生懸命やってきたつもりだが、今となって振り返ると、何か物足りない、本気を出してはいなかったのではないか、という気持ちに襲われる。永遠の飢餓状態に陥っているのかも知れない。その結果、自由な時間がたっぷりある今の生活をエンジョイできなくなっているのではないか。自己実現というか、自分を発揮できる道を模索しているというか、このまま老いていくことへの反発というか。何だか頼りない空間をふわふわと漂っているような浮遊感を、この頃感じ始めている。これまでの自分の人生を肯定する気持ちと、否定する気持ちとの狭間に今の自分がいるのかも知れない。飢餓状態の宇宙でふわふわと頼りなく浮いているような嫌な感じを味わっているのだ。そのような気持ちの中で、再度働き始めた宮本に羨望を感じたのは自分としては意外ではなかったのかも知れない。簡潔に言えば、もっと生き生きとしたい、ということか。
それにしても、一体、俺はどこへ行こうとしているのか、何がやりたいのか。
私は自問自答しながら、宮本の顔をぼんやりと見ていた。
宮本とはポリネシアン・ショーが行われる舞台の前で別れた。バスの集合時間が一時だから、これで失敬するよ、また来月、穴原温泉で会おう、あの辺りは林檎が上手いという話だよ、重いけど、土産になるかな、と宮本は言って去った。宮本の後ろ姿を見ながら、私は来月の同期会であの時の就職ノミネートのことを謝ろうと思った。
とにかく、あの時の私の行為による積年のわだかまりだけは解消したいと思った。
このままずっと、わだかまりを持ち続けるのは嫌だ。そろそろ、けり(・・)をつけるべきだ。
彼と別れ、私は二階の観客席に腰を下ろした。二階席は一階よりずっと暖かく、汗ばむほどだった。私は別れ際に言った彼の別の言葉も思い出していた。牛のように、何回も心の中で反芻していた。
「去年、久しぶりに行った同期会で君に会ったことを、うちの家内に話したらね。うちの家内、とても懐かしがってさ、今度会ったら、宜しく言っておいてね、ということだった。あやうく、忘れそうだった。今、言っておくよ」
一瞬、頭が混乱したが、すぐ判った。
そうか、彼女は宮本の奥さんになっていたのか。
ああ、良かったと思う反面、微かな胸の疼きを覚えた。安堵の思い、微かな嫉妬と羨望。
様々に入り混じった複雑な思いを私は味わった。ほろ苦い思いだった。同時に、目頭が熱くなるのを感じた。私は迂闊な男だ。宮本はひょっとすると彼女と学生結婚をしていたのかも知れない。長男は四十近いと言っていた。随分と早く結婚したものだと思っていたが、それならば、辻褄が合う。彼女のことをもっと訊きたい、と私は思った。
知ってどうする、という思いもしたが、何と言っても、長年私の心のしこりとなっていたのは彼女のその後のことだ、ざっくばらんに宮本と語り、けりをつけたい、と思った。
彼女は宮本より二つほど若く、私とは一つしか違わなかった。今では、還暦も過ぎ、いいおばあさんになっていることだろうが、私の記憶の中では今でもあの時の少女の面影を宿した女の子のままだ。そうかと言って、会う必要は無い。会えば、お互い幻滅するだけだ。でも、彼女のことは宮本の口からもっと聞きたい。何と言っても、好きだった女の子だ。どのように宮本と暮らしてきたのか。今でも、彼女と交わした当時の会話は鮮明に覚えている。忘れられるものではない。
散り始めたこぶしの花を見ながら、こう呟いたことがあった。
地面に落ちたこぶしの花びらは冷たい雨に打たれていた。
『こんなに早く散ってしまう花って、可哀そうすぎる。でも、・・・、人も同じかも』
時には、好きだった中原中也の詩の一節を口ずさんでいた。
『あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・吹き来る風が私に云ふ』
記憶は時と共に風化していくと云われるが、恋した女に対する記憶というものはいつまでも風化しない。ますます、美化されて人を惑わす。そして、心の襞に刺さった棘は永遠に痛みを伴うものだ。
疼痛を伴う甘美な痛み。
午後一時半から演じられるフラガール・ポリネシアン・レビューと称するショーを観ようと思った。ショーを観るのは随分と久し振りになる、と私は思った。
昭和四十一年に営業を開始した、この娯楽センターは当初は常磐ハワイアンセンターという名前だった。もう、五十年ほど前になる。
当時、私を含め、地元の人には際物としか思えなかった。東北地方の中ではいくら暖かいところとは言え、所詮東北の片田舎ではないか、常夏ハワイのフラダンスのショーが根付くとは到底思えなかった。
地元の人の眼は結構冷淡で厳しい。けつ振りダンスじゃないか、恥ずかしいことをよくやるよ、人気が出たとしてもまあ数年だろう、と多くの地元の人間は思っていた。
だが、地元の中傷、嘲笑にめげず、その後、スパリゾート・ハワイアンズと名前を変えたこの娯楽センターは立派に根付いた。いわき市、と言えば、全国の人に、あのハワイアンセンターがあるところか、とまで言われるようになったのだ。『フラガール』という感動的な映画の成功もあったにせよ、フラダンサーを始めとする全従業員のひたむきで素晴らしい努力がなければ、今の成功はありえない。
そんな感慨に浸りながら、私は観客席に腰を下ろして、ショーの開演を待った。開演時間が近づくにつれて、観客席は混みだしてきた。最前列の有料席にもホテル・ハワイアンズ宿泊者用のアロハシャツ、ムームーを着た男女の団体客が座り始めてきた。
一時半になり、ショーが始まった。ショーの途中で、観客を舞台に上がらせて、フラダンスの練習が余興としてなされる。タヒチアンダンスの基本の動きを教えることから始まる。三種類ほどあるらしい。
腰を落として、腰を左右に動かす動き。数字の8の字になるように腰を動かす動き。
そして、腰を左右前後に動かして、ゆっくりと大きく回す動き。
勿論、舞台に上がった素人にはむつかしい動きで、ぎごちない仕草は観客の好意的な笑いを誘っていた。その後は、名物となっているファイヤーナイフダンス・ショーがあり、数人の逞しい体つきをした若者が舞台狭しとばかり、燃え盛る松明をぐるぐると回しながら駆け巡る。回す松明の端は両方共激しく燃えている。見事なものだ。
後半の主体を占める官能的なタヒチアンダンスを観ながら、私は昔、スペインに出張した際、セビージャのロス・ガジョスという店で観たフラメンコを思い出していた。
フラメンコという踊りは差別され続けているロマ民族の怨念の結晶である。
大きな鶏が壁一杯に描かれた舞台で情熱的に踊るフラメンコに私は圧倒された。
リオハのワインを飲みながら、私は踊るダンサーを観ていた。ダンサーは若い娘で赤いスカートを身に纏っていた。グラスの中で揺れる赤いワインとひらひらと舞う赤いスカートを交互に眺めながら、私は軽い酔いに身を任せていた。
ワインのアルコールによる酔いと官能的に舞い踊る衣装による視覚的な酔い。あの時、私はどちらの酔いに身を任せていたのだろうか。
一方、目の前の舞台で踊られているポリネシアンダンス、つまり、フラダンスとタヒチアンダンスも情熱的であり、官能的だった。私は自分自身がフラメンコを観た時に感じた軽い酩酊感に再度包まれていくのを感じていた。鍛え抜かれたダンサーの肉体の躍動感は私を酔わせるに十分だった。フラメンコと違い、フラダンスには、流行の言葉で言えば、おもてなし(・・・・・)の心があると思った。
踊りは凄い。人を酔わせ、感動させる。人を幸せな気持ちにさせる。踊りが一段落する毎に、感動の拍手が起きる。踊り手と観客の間に一体感ができつつあるように思われた。
久しぶりに、心の中が感動に包まれていくのを感じた。
フラダンスだろうと、フラメンコだろうと、踊りに優劣は無い。好き嫌いがあるだけだ。踊り手の意志、心構え、少し大袈裟に言えば、覚悟が観客にどのように伝わるか、があるだけだ。
微笑みを絶やさず、常に口元に微笑を湛えて踊るポリネシアンダンスは、人生は楽しいものであり、生きていることの喜びを観客に語りかける。
一方、フラメンコは眉根を眉間に寄せて踊り、人生は苦痛に満ちており、生きることのむつかしさを観客に語りかける。
どちらも、人生の真実なのだ。しかし、明るく華やかな舞台を観ながら、意外なことに、私の心は徐々に沈んでいった。本来は明るい気分になるはずであるが、自分ではどうしようもなく、気分が重く沈んでいくのを感じた。無為の中で、徐々に老いを迎えている、という心境の味気無さをざらついた砂を噛むような思いで味わっていた。
ダンシングチームの今のリーダーは津波の被災地で、かつ原発関連では全区域避難地区となっている浪江町の出身である。今日はそのチームリーダーがソロのダンスを踊っていた。大柄で華やかな印象を与えるダンサーであり、終始振りまく笑顔がとても綺麗だった。
ソロのダンスが終わり、ショーは情感溢れるフィナーレを迎えた。
しかし、私はぐったりとした疲労感とやるせなさを感じていた。ショーが終わり、観客が次々と席を離れ、立ち去っていく中、私は悄然とうなだれたまま、座っていた。
再び、高架通路を通って、江戸情話・与市の蕎麦屋に行った。その店の廊下脇の暖簾を潜って露天風呂に行った。露天風呂の戸を開けると、涼しい風が私の身を包んだ。
広い露天風呂が視界一杯に広がって見えていた。この露天風呂は面積が千平方メートルもあり、世界一広い露天風呂としてギネスブックにも認定されている大きな露天風呂である。いわき湯本温泉の豊富な湧出量がこの巨大な露天風呂を支えている。掛け湯と上がり湯を兼ねた源泉掛け流しの石造りの湯溜りはあるものの、石鹸とかシャンプーが使えるような洗い場はない。体を洗う洗い場は館内奥の大浴場のほうにある。露天風呂には洗い場なぞ無いほうがすっきりしていて良い。
古木を使った床を歩いて、脱衣所に向かった。踏みしめると、ミシミシとなる木の床は素足に柔らかい感触を与え、心地よかった。歩きながら、まるで昔の小学校の廊下の床のようだ、と思った。百ほどのロッカーが設置されている脱衣所で服を脱ぎ、戸を開けて、湯溜りに出た。片手桶で湯を汲み、体に掛けた。ショー見物で相当汗も掻いていたので、ついでとばかり、頭にもザブッとばかりお湯をかけ、髪の毛を濡らした。
髪の毛をタオルでごしごしと拭いて、さっぱりしてから、石の階段を下りて、露天の風呂に体を沈めた。湯に浸かった途端、硫黄泉らしく、微かなにおいが嗅覚を刺激した。
湯は大分温めに設定されているようであった。この湯なら、長時間お湯に浸かっていても、のぼせることはないと思った。その内、膚がつるつるとしてきた。
私はお湯の滑らかさを味わいながら、周囲を見渡した。上を見上げると、木製の太い柱に支えられた屋根が見えた。
その柱はお湯の中から、にょきにょきと生えているようにも見えて、少し可笑しかった。
屋根の無いところには青空が広がっている。正面に蔵造りの蒸し風呂の施設が見える。
蔵の下部は黒地に白の漆喰を厚く盛り上げた海鼠壁となっており、白と黒の碁盤目が斜めに交差している。正面の右側には、一筋の滝も見えた。勿論、人口の滝ではあるが、露天風呂の静寂を破る形で、ジャブジャブと音を立てて、お湯が流れ落ちていた。うるさくはなく、耳に快く響く音となっていた。いかにも自然な滝の面影を宿しており、この露天風呂のアクセントになっている。湯煙の滝、と私は勝手に名付けた。
お湯の中に、一つ二つ、人の首だけがぽっかりと浮かんでいる。岩が二か所ほど、湯の中に浮かんでいる。竜安寺の石庭を模しているようにも思われた。
湯面は穏やかであるが、時々人が動くと、湯面が波打ち、さざ波となって周囲に円環状に広がっていく。さざ波は次第に小さくなり、やがて元の平穏さを取り戻す。
私は露天風呂の中央付近に移動して、再び湯に浸かった。
いつの間にか、露天風呂の中は私だけになっていた。
こんなに広い露天風呂で貸切り状態というのも悪くない。贅沢な気分を満喫した。
風が吹いてきた。濡れている首筋に涼しさを感じた。近くにある柳の木の枝が揺れ、細長い葉が微かな音を立てた。秋も大分終わりに近づいている。
秋には音がある。ふと、秋は聴くものか、と思った。秋は風情ある音に満ちている。
野原で秋の終わりを悲しむように鳴く虫のカノン(輪唱)、歩く足元でかさかさと乾いた音を立てる落葉の囁き、誰もいない道端で揺れ動くススキの呟き、夕暮れに鳴り響くお寺の鐘の寂しげな溜息。
一方、春は観るもの、眺めるものだ。
春の到来による草木の息吹、櫻を始めとする咲き誇る花の雄叫びにも似た自己主張の姿など。春の眺めは値千金とは小せえ、ちいせえ、と見得を切る石川五右衛門ばかりでなく、春は眺め視るべきものに溢れている。
とすると、夏はにおいを嗅ぐものか。
生命に溢れる草いきれの噎せ返るようなにおい、暑さも和らぐ夕暮れの路地に漂う夕餉のにおい、昼間の煌めくような明るさの分だけ、夏の夜は深くて濃い、その深く濃い闇が醸し出す官能的なにおい、暑い風が運んでくる浜辺の潮のにおいなど、夏は嗅ぐべきにおいに満ちている。
冬は何だろう。触れるものかも知れない。
鉛色をした空から首筋に舞い落ちてくるひらひら雪の冷たさ、捻った蛇口から出る水のハッとする冷たさ、思わず肩を竦める木枯らしの冷たさ、寒い戸外から家に入った時に感じるほっとする暖かさ、冷え切った体を浴槽に浸けた時に感じるピリピリとした温かさなど、触れてハッと感じるものが冬には多い。
私はお湯に浸かりながら、柳の枝を揺らし、吹き渡り、そして、過ぎていく風の溜息を静かに聴いていた。人生というのも吹き渡り、過ぎ去っていく一陣の風にすぎないのかも知れない。無窮の時の流れの中で戯れに一瞬の間だけ存在し、そして、消えていく儚い存在である私の人生。私は今、老いを迎え、人生を全ての五感で感じているのかも知れない。
視る、聴く、嗅ぐ、触る、そして、味わうという五感。
そのようなことを思いながら、湯に浸かっていると、奇妙な浮遊感に襲われた。
懐かしい浮遊感とも言えた。
いっそ、浮かんでみよう。戯れにお湯の中で浮かんで、ふわふわとした浮遊感に身を委ねることとしよう。幸い、人影は見当たらない。
少し、羽目を外しても大丈夫だ。よし、羽目を外してみよう。久しぶりだ。
水死人のように、浮かんでみるのも面白い、と思った。
ハムレットの中のヒロイン、オフィーリアは溺死した後、仰向けになって小川を流れている。そんな絵をどこかで見たような気がする。
全身の力を抜き、両手を広げて体を湯面に横たえた。
耳が湯に隠れ、何も聞こえなくなった。そして、静寂が訪れた。
目の前に、空があった。青い空があった。うっすらと、刷毛で引いたような雲が柔らかく浮かんでいた。ふと、空に吸い込まれていくように感じた。
空に吸はれし十五の心、と詠んだ啄木の短歌が脳裏を過ぎった。
五十を足して、空に吸はれし六十五の心か、と思った。
思わず、にやりとした。少し動いた弾みで、お湯が唇を濡らした。舐めてみた。少し、塩辛い味がした。この温泉は硫黄泉ということだが、少し、塩の成分も含んでいるらしい。
空がゆっくりと形を変えながら、目の前を流れていった。
先ほど別れたばかりの宮本のことを思った。彼とはいろんなことがあったが、これから先は、長生き競争か、と思った。団塊の世代は競争の世代だ。敗者にはなりたくない、という意識が常に心のどこかにある。
受験競争、恋愛競争、年収を競い合う収入競争、出世競争、幸せか、不幸せかを比べあう幸福競争、現状に満足しているか、満足していないかを比べあう満足競争等、いろいろな競争の果ては、最終的な長生き競争がある。生きている人間は死んだ人間に対しては、何とでも言うことができる。謂れのない中傷であっても、死者は抗弁できない。
あいつよりは長生きしたい、あいつより早くは死ねない、あいつを見送ってから死にたい、あいつより・・・。
ふと、俺は馬鹿なことを考えている、とお湯に浮かびながら思った。
長生きをして勝つ、そんなことで、ささやかな優越感を感じてどうするのだ。
くだらないことじゃないか。そんなことより、本質的なことがあるじゃないか。
あと何年生きることになるのか。
畢竟、私の人生も不完全、未完成のままで、不満を感じながら終わるのだろう。
美しい人生だったと思いながら、人生の終焉を迎えたいものだが。
人生は旅に似ていると云われるが、私の人生はまだまだ続く。
旅はまだ、・・・、まだ、終わらない。
目の前を雲が流れていく。
流れていく。
私は今、浮かんでいる。
浮かんでいる。
完