「破邪の太刀」連珠・初戦
電車に乗って三鷹に向かう。男二人だが、もうすぐ夏が来ると言うのに片方は未だに過剰なほどの防寒装備をしている。なのに道行く人々は殆どが彼を無視していた。人によっては認識されないくらい人ではなくなった男。その影は極端に薄い。
あの鬼は護衛だと言って銀の薄い影に触れると、怪異らしく奇怪な原理で呑み込まれて、あるいは影の中に沈むように消えてしまった。
朱に交われば赤くなる。怪奇現象を取り扱うこの業界では進行度に個人差があるものの『怪異に寄れば怪異に近付く』。
怪異に関わったら自らもやがては怪異になっていく。
まだ自分はそういった兆候は現れていないが、それも時間の問題だろう。銀は道行く人にぶつかられる度に謝っていたが、終に返答は返ってこなかった。逆に銀を認識できず思いっきりぶつかった人物は自分が今何にぶつかったのかも分からないまま、釈然としない顔で過ぎ去っていく。電車に乗った後も銀は謝ったり自虐的になったり黙ったりしていたが、不意に口を開く。
「あなたはまだ、人間なんですね。良かった。僕のように人によっては見えたり見えなかったりすると迂闊に人前には出られませんから。」
空いた車内で隣同士に座っていたから、顔が見えなくて良かったと思った。顔を見られなくて良かったとも思った。
自分の影ははっきりしているのが、人に認識されているのが、まだ人間で良かったと安心できる証明だから。
もう殆どが怪異となった銀にとってはそれが堪らなく『うらめしく、憎たらしい』のだろうと察してしまったから。
今隣にいるのは人間ではない、ほぼ怪異なのだと考えると恐ろしいとさえ思った。三鷹駅までもうしばし。ひやりと首筋に汗が伝った。
三鷹駅を出ると異様な気配を感じた。小物の怪異の気配が全くないのに只者ではない気配が近くにいることが問題だった。
その気配を感じるやすぐ伊呂波は銀の影から飛び出すと、周囲を警戒し始めた。
「近くに誰か居ますね。怪異の気配が全くないのも合わせるとおそらくこれが件の怪異狩り……連珠兄弟でしょうか。できるだけ鉢合わせだけは避けたいのですが」
「その心配はないぜ」
周りに人の姿はない。いつの間にか怪異どころか人間すら消えていた。誰もいない三鷹駅の駅舎の上から少年の声がした。
よくわからない、少なくとも人間ではない少年で好実が脳裏に浮かぶ。半人半魔。あるいは同業者。
見上げてみた少年はほぼ全裸で、辛うじて大人用のサイズの大きなシャツを着ているがしかし泥や得体の知れない汚れがこびりつき、所々が擦りきれている。ボタンも幾つか取れている。声の高さや所々で見える筋肉量で判断すれば外見年齢は13~15。足は素足で、靴すらない。それどころか四つん這いになっている。四つん這いの、薄汚い少年。それがどんどん変身していく。
全身の毛は伸び、手足の爪は鋭利になり、顔からは八重歯が伸びた。羽織っているだけましだったシャツは外れ、立派な毛並みと尾が逆立つ。その姿は正に大型犬。いや、少年は狼になっていた。狼の姿は凛々しく、元の姿が人間の少年とは思えないくらいに大きくなっていた。
誰もいない大通りの死角から飛び出たもう一つの影は、これもまた異様で、好実と同じく見覚えのない青い詰襟の学生服を着た、髪が腰を隠すほど長い少年か少女か分からない子供だった。左手には数珠、右手には手斧が握られている。
制服は一番上のボタンまでしっかり留めてある。むしろ先程の狼の子供と真逆で、服装は清潔で露出は殆どない。性別ははっきりわからない。その子供のなかでも一番異様なのは顔にある。顔を覆い隠す大きな赤い鬼の面が一層不可解さを増していた。しかも妖魔だと思われるのに存在感は潔白過ぎる。神聖とも言っていい。妖魔特有の不吉さはなく、あるのは静かな緊張感と圧倒的な威圧感だ。
「ムカデの妖魔」
目の前の性別不明の子供から聞こえたのは声変わりを終えた男の声。その声が聞こえた時に、もうすでに勝敗はついていた。
駅の上から飛び降りたらしい狼はそのまま銀を押し倒すように着地していて、伊呂波は鬼面の手斧を銀の代わりに受けていた。斧を受け止めた左腕は最初こそは刃を通さなかったものの、すぐに刃の周囲の肉が溶け始めやがて左腕の間接から先は地面に落ちた。残った右腕は鬼面を殴る体勢で止まっている。
「残念です、そのまま攻撃すれば律子共々祓って差し上げましたのに。」
攻撃してこない伊呂波には興味を失ったらしく、鬼面はこちらに顔を向けた。そもそも、今は話を聞きに行くだけだったので狗吼丸は持ってきていない。丸腰の状態で戦うのは無謀だ。
「あなたは人間なので見逃して差し上げますが、次はあなたの持っている『破邪の太刀』を返してもらいに参ります。」
そう言って、鬼面は背を向けた。狼も鬼面の後を追って銀の上から離れていく。
その瞬間、鬼面は振りかえり持っていた手斧を地面に落ちた伊呂波の腕から先に投擲した。
地面に落ちた腕はいつの間にか巨大化していた。おそらくこれが本来の伊呂波の姿なのだろう。鋭い爪が抉り取る形を作り鬼面に向かおうとしていた。しかしその手は鬼面に届くことなく、攻撃しようとした直前に阻まれてしまった。
残された腕はのたうち回るように暴れて、やがて霧散した。
あの二人組は姿を消したと同時に、今まで居なかった人々の喧騒が聞こえてきた。目の前には会社員らしい人間。周りはほどほどに人が往来を歩いている。
「おい、大丈夫か?顔色悪いぞ。駅員か医者を呼んでやろうか?」
当然隣には銀が上半身を起こし誰かに蹴っ飛ばされつつもようやく立ち上がろうとしていたし、伊呂波は銀の薄い影に消えたが切断された腕から垂れた血痕のようなものが辺りに散らばっていたのだが、それには全く気付いていないようだった。
ああ、やはり自分はまだ人間であったのか。