「悪魔の棲む屋敷」4
この話はフィクションです。現実の人物・団体・場所等とはなんの関係もありません。
家に帰ってくると今までの緊張が解けて一気に動きたくなくなった。
自室に戻って、何をするのも面倒になって鞄をその辺りに放り投げ、服を着替える訳でもなく寝台の上にうつ伏せに倒れこむ。
綺麗に畳まれた布団が蹴り飛ばされて皺が寄る。
「何だか急に現実味が消えて、馬鹿みたいだ。」
暗い部屋の中、灯りもつけずにそうやって寝て、あー、だのうー、だの言いながらゴロゴロしていたら、お兄様の事が頭に浮かんだ。お兄様は依頼する為にあの探偵社を選んだのか。
ふと、扉をノックする音がして体を起こす。
「作太郎様が学校からお帰りになられたので、お夕食にすると奥様がお呼びです。」
「はーい、ちょっと待ってて」
少し動くのが面倒だと思ったけど、制服のままでお母様の前に出ようものなら怒られてしまう。
とにかくご飯を食べたら、お兄様にさっきの事を聞いてみよう。
台所とは引き戸を隔てて隣接した居間では、お母様と弟、お姉様が揃っていた。
しかし、その空気はしらけていて今にもお母様かお姉様、どちらかが席を立って部屋に帰ってしまいそうだ。それを止める事ができるお父様はお仕事で今はいない。
曲線美で彩られたテーブルには白いクロスがかかっていて、燭台の灯りが頼りなさげに揺れている。今日は洋食らしく席にはお皿と銀食器が規則正しく並んでいたし、バターの匂いが扉越しに漂っていた。
いつものようにお姉様の隣の席に座る。向かいの席にはお母様とまだ小さい弟が、そしてその隣にお兄様が座るのだ。
長方形の大きなテーブルは時として家族の水面下の争いの場になる。
家族の団欒の時間は、居心地の悪さと世間の目の評価と貴族趣味のステイタスで塗りつぶされていく。
「美幸、あなたに縁談の話があるのだけど。あなたももう23よ?いい加減大学を中退なりして身を固めて安心させて頂戴。」
「……お母様、私は暫くどなたの元にも嫁ぐ気は無いと先日も申し上げたはずですが。」
「今回は川崎重工の息子さんからよ。」
「……前々回はスキャンダルの多い男爵のドラ息子、前回は子持ちの子爵。いい加減諦めたらどうなんですか。」
「……あなたのせいでもあるのよ?折角整えた縁談を片っ端から断るような真似をするから。ああ、せめて去年の森部男爵とのお見合いさえ蹴らなければもっといい嫁ぎ先が見つかるのに」
お母様は態とらしくため息を吐き、顔を手で覆う。
いつもそうだ。そして大抵私の方を見て、猫なで声で言う。
「貞香ちゃんはちゃんとした人の所に嫁ぐのよ、こんな醜聞、二度と聞きたくありません」
昼間見た怪物の姿はいないけれど、ここにはたしかに怪物が存在する。
世間の悪意、そしてそれに踊らされるお母様、ずっと怒った顔をしたお姉様。
ここには悪魔が棲んでいるんだろう。
お兄様がこの状態の部屋におっかなびっくり入ってくると、冷たい部屋の空気が少し和らぐのを感じた。
「お帰りなさい、作太郎。さて、みんな揃ったから食事にしましょう。」
長くて冷たい食事の時間にいつも泣きそうになる。
今の話を何もわかっていないだろう弟だけが、それでも無邪気に笑いかけてきた。
補足
当時の大学の女性就学率はやたら低いです。
大抵の場合小学校で卒業して働くか、お金があれば高等女学校に入学します。
それも卒業した人が大学に入学しますが、大抵は結婚して中退します。
つまり大学卒業=行き遅れです。顔が醜い、性格に難があるなど結婚できないほどの理由があるとみなされ敬遠されます。