邪恋
「下がりなさい、下郎! 私が焦がれた方が好きな人に触れないで!」
どーん。……ころん。
――ええ、まあ。それなりに屈強な男相手に、小柄で手弱女な令嬢が突進したらそうなりますよね。
しかし下郎という言葉は言い得て妙ではありませんか。素晴らしい言葉の選び方です。
変に感心した私ですが、地面に伏したファビアナ嬢に駆け寄ろうとしましたが、当の御本人が手で私を制しました。
下郎に体当たりしたものの、髪に飾った淡い紅色の生花を落として地面にへたり込んだファビアナ嬢。しかしその目の闘志は消えていません。
「なんだお前は? 俺はこの女に用が……」
口さがない言い方に、ファビアナ嬢の大きな瞳が険しくなりました。
「用などございません! カリーナ様はあなたが妄想しているような御方ではないし、そもそもあなたが誰の手引きでここに来たのか、おおよその察しは着きます。でも、すべて謀です! 今すぐここを立ち去りなさい!」
地面を這いずるようにしてふらふらと立ち上がり、私の前で男を通せんぼする姿。
……凛然とした姿に、惚れそうです……。
「うるせえな! ンなこたぁどうでもいいんだよ! そこの売女の次に、小便臭いお前も女にしてやるから待っていろ!」
――耳が穢れますね。淑女に向ける言葉ではないでしょう。私にも、ファビアナ嬢にも侮辱も甚だしい!
私は扇子を握り締めました。そしてファビアナ嬢の頬を打たんとする男の傍に駆け寄り、下から上に向けて扇子を振り抜いてやりました。
狙いは顎の下。
顎の骨を砕くほど強く殴る必要はありません。というか、女の力では不可能でしょう。
目的は顎ではなく、脳。
下から顎の突き上げは脳を揺さぶるのです。――さすがは町でも高名な鍛冶屋。手ごたえが素晴らしい名品の鉄扇でした。
どたんと尻もちをついた男をよそに、ファビアナ嬢へ私は手を伸ばしました。
脳を揺らしたとは言え、女の身。鉄扇は気合い入れのために持ち歩いたもので、全部が鉄ではありません。扇の親骨のみが鉄で、後は普通の作りなのです。
ですので、脳震盪もしばらくの間でしょう。下郎の意識が元通りになる前に、一刻も早くここを離れなくては。
貞操の危機ですが、貞操はもちろん、あの男に一指たりとも触れさせたくありません。
気がつきました。
ようやく、気付いたのです。
私に触れていいのは、エドモンド……エディだけなのだと。
「いたっ…!」
手を取り合い、人の居る方へ逃げようとしたのですが、ファビアナ嬢が先ほどの衝撃で足を痛めたのかうまく歩けません。
互いに支え合いながら必死に足を動かします。
早く、早く行かないと。
後ろを振り向く余裕もありませんが、品のない罵声と荒い鼻息に背筋が寒くなりました。
薔薇の生け垣にドレスが引っ掛かろうとも強引に引き抜き、ファビアナ嬢と手と手を取り合って逃げながら、私は叫びました。
「エディ以外は嫌っ!」
「その通り」
鼓膜を聞きなれた声が鼓舞するように撫でてくれました。ああ、この声。
この、声、は。
薔薇の生け垣を飛び越えて降り立ったのは、若草色の瞳に怒りを湛えたエディでした。
「二人とも目を閉じて! ――それ以上カリーナに近寄るんじゃない! カリーナに触れていいのは僕だけだ!」
言われるまま、私とファビアナ嬢は抱き合うようにして俯きました。
なにかを打つ鈍い音が一つ、二つと続きます。
先ほど下郎の顎を扇子で打った私ですが、争う音と声には身震いを覚えます。
だって、もしエディが怪我でもしたら――。
「姉上。もう目を開けていいから。……ファビアナ嬢も。このまま向こうを見ないで、ゆっくりと後ろに下がって。エドも僕も、淑女に乱暴な場面は見せたくないからね」
優しい声にそっと顔を上げれば、自分の体を壁にして争う場面を隠すジュリオの姿が。私とファビアナ嬢を庇う顔は、いつも私に素直に叩かれる事を享受する弟ではなく、立派な紳士そのものでした。
「……じゅ、ジュリオ……え、エディが……」
握り締めていた扇子がどすっと地面に落ちると、ジュリオは微苦笑を浮かべてそれを拾いあげました。
そして。
「……淑女が持つ重量じゃないね。さすがは姉上」
そういって“いつもの”ように道化めいた口調で私たちを安心させて。私たちを怖がらせまいと、乱暴な現場を見せまいとしてくれる気遣いに私は全身の力が抜けそうでした。
いつの間に、この子も大人になっていたのか。
私はジュリオも、エディも、大人になろうとしているのを、私だけが、認めたくなかったのかもしれません。私が、私の方が子供だったのです。
浅薄にもいつでも子供で、私を慕ってくれているままでいて欲しいと――。
「大丈夫? 立てる?」
「ジュリオ……え、エディ、は……?」
ジュリオの背中側では、まだ肉を打つ音が聞こえます。もしエディが殴られている音だったら――。
「ああ、エドなら心配しなくていいよ。エディは武官希望で鍛えているからね。そうそう負けたりしないはずだよ。それよりも頭に血が上ったエドを下手に止めて、僕がとばっちりを食うのはごめんだなぁ」
ジュリオの言葉が正しかったのか、私たちが立ち上がるのとほぼ同時に、どうっと重いものが倒れる音が響きました。
「不審者だ。すぐに捕えよ!」
よかった。エディの声です。
よかった……。
張りのあるエディに声が彼の無事を教えてくれましたが、ジュリオの腕に捕まりながらも震えは止まりません。
「カリーナ、無事かい?」
少々服装や髪型は乱れていますが、顔色を変えたエディがジュリオの背中越しに顔を覗かせて、私は安堵の涙を浮かべて手を伸ばそうとした時でした。
「ダメです! こんなところで不貞を働くような人、エドモンド様に相応しくありません!」
少し前ならその声はファビアナ嬢だと思ったでしょう。ですがその声がファビアナ嬢ではないことは、私も弟たちも承知しています。
わらわらと人が集まってくる最中に、不貞などと私の名誉を傷つけるような言葉を吐く少女に向かい、私やエディ、ジュリオ、そして泣きそうな顔のファビアナ嬢が視線を集中させた先には――。
ファビアナ嬢の後ろでよく一緒に居た、大人しそうな少女が目を吊り上げて立っていました。