恋路
淑女にあるまじき姿ですが、私は手にした扇子を、右手でしっかりと握って構えました。古びた木製のお手製の扇子です。パーティで使うような美しいレースの瀟洒な扇子ではありません。だってレースの扇子では脆くて軽すぎますから。
あとお高いものですし。
「姉上。ジュリオです」
扉の向こうからエドモンドよりも高めの声で言ったのは、すぐ下の弟のジュリオです。
心なしか声に張りがありませんね。心に疚しいことがある証拠ですね。愚弟にも困ったもの。
「お入りなさいな、ジュリオ」
穏やかな私の声にモナがしずしずと扉を開く。私の声音に安心したのか、私と同じ蜂蜜色の髪が無防備にひょっこり現れて。
優雅に見える微笑みを絶やすことなく、私はしっかりと握った扇子を振り抜きました。むろん、腰も入っています。コルセットで補強された腰は重心がブレません。
「お呼びですか? あねう……えええええええええっ!?」
よい音でした。熟れた瓜を叩くような音でした。さすがは私の扇子。別名、愛の鞭。
「あ、あ、姉上! いきなり打つのは止めてくださいっ! 瓜みたいに僕の頭が割れたらどうするのです!?」
「安心して。私、刺繍も裁縫も嗜みはあるの。手先も器用だし、ステッチの細やかさに自信があるのよ?」
「縫ってもダメです。人間の頭は中綿が飛び出たぬいぐるみじゃありません。そんな斬新な治療法は止めて下さい」
小さいころはエドモンドと一緒に後ろをちょこまか着いてきた弟も、エドモンドよりは少し背が低いけれど、17歳にもなれば背丈は私を追い越しています。
これ以上背が伸びると頭部に愛の鞭が届きませんね、口惜しや。
やんちゃだった弟たちを躾ける為に作った愛の鞭も、そろそろ効能が薄れる頃なのでしょうか。
「姉上? 凶器片手にしみじみとしないでください。子供のころからソレで何回叩かれたことか」
「あなたもティノもエドモンドも、やんちゃだから姉としてきちんと躾けてあげたのよ?」
「……姉上が率先してお転婆だったような気がしますが?」
失礼な。私は小さい時分から淑女でしたわ……ええ、8歳にして初恋で心を射抜かれた日から。――8歳以前はノーカウントです。
淑女は8歳からという自己ルールで心を落ち着けて弟を見れば、扇子で叩かれた頭を撫でながら大人びた顔で苦笑している。……なんですか、その私が心得違いでもしていて、「しょうがないなあ」みたいな呆れた顔は。
「モナ。鍛冶屋に扇子を作らせるように」
「畏まりました。お嬢様」
「待って!? 鍛冶屋に扇子っておかしいよね!? どう考えても鉄扇だよね!? そんなもので叩かれたら、本気で頭が割れちゃうよ!?」
さすがは阿吽の呼吸の私とモナ。ついでに弟です。
私の言わんとするところを汲み取ってくれるとは。
その察しの良さが、エドモンドとの婚約までに活かされなかったのはどうしてかしら?
謎です。
「もともとは姉さんに隠し事をするジュリオがいけないのよ? なぜ私に黙っていたのかしら?」
私の言葉に呼吸を詰まらせ、弟のジュリオは眉を下げながら私を見ています。……なんでしょう、若干、憐れみが混じっているような気もしますが。
「だって姉上に言ったら、何かと理由を付けて逃げちゃうでしょう?」
「当然です」
「それでは家族総出で黙っていても仕方ないよね?」
「……あなたは姉を不幸にしたいの?」
私の言葉にジュリオは特大の溜息をつきました。……紳士らしくありませんよと、躾の一環で愛の鞭物件かしら?
「……姉上がエド――に限らず、恋の噂を微塵も聞かないのは、アゴスティーニの小父様が関わっているからだよね?」
「もちろん。乙女の初恋は尊いものなの」
「……姉上くらいの年齢になったら、乙女は初恋を美しい思い出として胸に仕舞い込むものだよ。姉上は未だに初恋を拗らせているから……」
拗らせているとは、言葉の選び方を知らない子だと私は憤慨しました。それではまるで、私が初恋に捕らわれ、恋の話に花を咲かせる世間一般の令嬢とは乖離していると言われているみたいです。
……多少、若干、少しばかりなら、その……認めなくもありませんが……。
「それにエドと姉上が結婚しても、僕はそう不幸にならないと感じているしね」
弟の落ち着いた声に私は、友人と恋の話を殆どしてこなかった自分に落ち込んでいた愁眉を開きました。弟の言葉が妙に心をざわつかせます。
「姉上が、エドをエディって呼ばなくなったのはいつだろうね?」
不意の言葉。なぜジュリオはそんなことを言うのでしょう。
確かに子供のころはエドモンドを愛称のエディと呼んでいました。長じてからはエドモンドと呼ぶようになりましたが……あれ?
「エディは私だけが呼ぶの、だから他の人はエディって言っちゃだめなの。そう姉上に言われて、僕もティノも未だにエドって呼んでいるよね? それなのに、どうしてエディって呼ばなくなったの?」
待って。
待って、いきなり言ってこないで。
「……エドが姉上の背丈に近づいたころかな? それとも声変りしたころ? 姉上が私を私と言うようになったのもそのころだったよね。僕らの前ではずっと私のままなのに」
待って。
――意識させないで。
「僕はね? それは姉さんが、エドを弟じゃなく、異性として見始めたからだと思っているよ?」
だから、待って!
気づかせないで!
床にお手製扇子が落ちたのも気づかず、私は立ち尽くすしかありませんでした……。