慈愛
婚約。
婚約。
婚約。
私が、エドモンドと、婚約?
「カリーナ。口が開いているよ?」
驚倒の事実を前にすれば、蒸した貝のごとく口くらい余裕で開きます。いっそ顎が外れなかった事態を誉めて下さい。私の顎関節、全力で頑張りました。
ではなくて!
「ど、どどどどういう事ですの!?」
「ああ、やっぱり聞いていなかったのだね? 社交界ではそろそろ噂になり始めていたのに、カリーナは気づいた様子がなかったし。もしかしたらって思っていたけれど……。さすがはフィオーレ伯爵。娘の君には故意に情報を制限して、カリーナが逃げ遅れるようにしていらっしゃる」
ええ、私のお父様は伯爵として領地を立派に治め、また外交官としても辣腕を発揮する優秀な御方なのです。
でも実の娘にそこまで有能さを見せつけなくても宜しいのよ? 今の今まで、お父様は子煩悩な方と信じていた私の不覚です。
呆然とした私の顔が、萌芽より鮮やかなエドモンドの瞳に映り、それで我に返りました。
「エドモンドは、このお話を知っていて?」
「もちろん。今年の年明けに正式にフィオーレ伯爵から話を頂いたよ」
なんですって!? 半年以上も前!?
半年も私は欺かれていたの!?
私の様子が可笑しかったのか、エドモンドは苦笑いしつつ優雅な所作で白いティーカップに整った唇を当てました。
昔は小さな両手で茶器を抱えていたあの子が大きくなって……などと現実逃避をしている場合ではありません。事の次第をお父様に問い質して……って、一昨日から他の領地に仕事がらみで招かれてお留守でした! お母様もそれに同行なさっているっ!
弟は、弟達は……だめ。ジュリオもティノも宛てにならないわ……。この婚姻と言う名の大河を渡り、対岸へ行きたいのに、あの二人では櫂のない泥船か藁の船に乗り込むようなもの。
そういえば最近、ジュリオもティノも私と顔を合わせることが少なくなっていておかしいなと感じては居たのです。
てっきり思春期にありがちな行動なのねと微笑ましく思っていたけれど、まさか二人とも奸計に加担していたなんて。恩知らずもいいところです。子供のころからあんな可愛がってあげたのに。
はっ。まさか敵は身内のみならず、信頼できる使用人まで……? 素早く私専属侍女のモナに目を向ければ、我が意を得たとモナが優しくほほえみ、執事のセルジオは恭しく礼を返し。
フィオーレ家の包囲網が出来上がっている状況に私は愕然としました。
確かに私も適齢期。有り体に言えば、今シーズンが終われば適齢期の下り坂に差し掛かるところは認めましょう。ですから婚姻そのものに否やはないのです。
貴族の娘としての覚悟は私にあります。燃え上がるような恋愛を挟まない婚姻が不幸せだとも考えていません。
両家にとって有益な婚姻関係であること。それもまた貴族としての生き方の一つです。それに否を申すほど誇りあるフィオーレ伯爵家の長子は子供ではないのです――あの初恋に心の区切りがつけば、ですが。……まだ、区切りは来ていませんけども……。
で、でも、焦げるほど熱い恋愛はなくとも、とろ火のようにお互いに慈しみ愛情を育て、ゆっくりとアゴスティーニ伯爵ご夫妻のような素敵な夫婦になれれば、と。
でも、まさか、そのとろ火相手が弟のようなエドモンドなんて!
庭で転んで怪我した足を私が手当てすれば、涙を擦ってにっこり笑ったエドモンド。
悲しい結末の絵本をハッピーエンドに作り替えて、読み聞かせてあげたら嬉しそうに笑ったエドモンド。
風が強い日の夜は怯える弟たちと一緒に歌を歌ってやれば、幸せそうな笑顔で眠ったエドモンド。
「……無理だわ……」
記憶の頁を捲れば捲るほど、エドモンドの笑った顔が脳裏に浮かびます。その笑顔がとても愛らしくて、いつも笑顔でいて欲しいと苦心したけれど、それは弟達に向ける愛情とよく似たもので。
「……無理よ……」
だってエディは、エドモンドは。
あの、若草色の瞳に返していたのは。
恋情ではなく慈愛ですもの。
「ねえ、カリーナ。私はもう、君の三人目の弟ではないからね?」
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エドモンドが帰ってどれくらい経ったでしょう。
そっと私の前に置かれたティーカップから立ち上る馥郁とした香りで我に返りました。
「ねえ、モナ?」
「はい。お嬢様」
幼い頃から私に仕えてくれるモナの声はいつも通りの口調で、お陰で冷静になった童はいつもの自分に戻れたようです。
「あなた、この話を知っていたの?」
「先達て旦那様より、我々一堂にお話がありました」
「そう。なぜ私に教えてくれなかったのかしら?」
「旦那様がお嬢様を思いやってのことです。たとえ心苦しくてもお嬢様の為となるなら、貝のように口を閉ざし沈黙を忠義に変えて見せましょう」
変えなくていいから。なぜそこで変節したの。蒸すわよ。白ワイン蒸しにしちゃうから。
貴女はいつからそれを忠義だと勘違いしたのかしら? 私の為を思うのなら、そっと真実を耳打ちして欲しかったわ。
そうしたら今シーズンの社交界は病気を煩って領地に籠ったのに!
「恐れながらお嬢様。それは確定された結論を無駄な足掻きで先延ばしにしているだけかと」
「……ねえモナ? 私、独り言を漏らしていた?」
「不肖ながらこのモナ、お嬢様の胸中は正しく理解できると自負しております」
「それならなぜ、今の状況を慮ってくれなかったのか……私は悲しいわ」
私の言葉に普段なら背後で雷が落ちても鉄面皮のモナが、意外だと言わんばかりに瞳を大円に見開いていました。