イキガミ
「これがお前の守護する永瀬響子に降りかかる、今年一年のリスクだ。生き神よ、本当にこれを回避するつもりか?」
廃病院の地下。元霊安室の壁の中から滲み出るように現れた死神が、かすれた声で疑問を投げかけながら、俺に一冊のファイルを差し出した。
そこには日本人の三大疾病だけでなく、発症例の数少ない病もいくつか挙げられており、さらに交通事故や落石による怪我まで記されていた。
「彼女はまだ26歳なのに循環器系のリスクまであるのか?」
俺は死神に愚痴を言った。
「決めたのは俺じゃない。すべての人間に無作為に降りかかる疾病を彼女は回避できない。わかっているだろう?」
黒衣のフードを深く被り顔も見えない死神は、そう言い残して壁の中に消えていった。
「これは高く付きそうだ・・・」
俺はため息を付きながらファイルを、束帯の袖に押し込んだ。
命に関わる病魔や横変死を防ぐには、それなりの対価を支払わねばならない。俺が守護を請け負った永瀬響子を、死なせない為には、これらに変わる不幸と等価交換をせねばならないのだ。
俺は死神から渡されたファイルを手に、貧乏神が住む下町の祠を訪ねた。
祠は裏路地の中、古びた鳥居の背後に、忘れ去られたように置かれていた。江戸の昔からずっとその場所にあって、近くに住む人々が、いわくつきの富を手にした事で、奈落に落ちるのを防いでいた。
「貧乏神、貧乏神はいるか」
「その声は守護役の生き神か・・・例の娘の病を昇華しに来たのだな」
貧乏神がろくろ首を祠から出してそう言った。
「この者から風邪以外の疾病を引き取ってもらいたい」
俺は貧乏神の面前に死神から受け取ったファイルを広げた。
「等価で、三千七百八十四不幸・・・」
財布を落とす。仕事が認めてもらえない。好意を持った男性に無視される。お茶をこぼす。弁当を忘れる。通り過ぎる車に水たまりの泥をかけられる。宝くじ三角くじはみなハズレ。ガラガラ抽選は全部ティッシュ。電車やバスは直前で発車。夜中に間違い電話をかけられる。ハトに糞を落とされる。役場に行けば長蛇の列。買い物で並べば前の人でSOLD OUT。
貧乏神は命に関わる疾病を、誰でも我慢できる不幸と取り替えてくれた。
ただ、その数が多い・・・。
今日も朝から通勤用の自転車がパンクし、電車に乗り遅れて遅刻。同僚のミスで巻き添え。バイトはクビを言い渡されて、送別会では終電を乗り遅れてタクシーで帰宅。玄関前でゲロという予定だ。
どうして永瀬響子という女が、不幸と等価交換しなくてはならないほど疾病のリスクが高いのかといえば、彼女の青年期における『健康係数』が異常に低いからだ。
人間は、胎児期、幼年期、青年期、壮年期、老年期と、それぞれランダムに『健康係数』を与えられて生まれて来る。ところが稀に(余命があるにも関わらず)一時期の『健康係数』が0に近い者が現れるのだ。
我ら生き神は、そうした者達を、出来る限り生き存えさせる仕事をしている。
その目的で、次々と不幸を与え続ける事になるので、守っている人間から逆に恨まれるというのが辛いところだ。
しかし響子は、『不幸の洪水』に見舞われながらも恨みがましいことを一切言わない。
先日もこういうことがあった。定期券を落としてトボトボと歩いている響子を、少しだけ霊能力のある易者が呼び止めたのだ。
易者は響子の背後にいる俺を指差して「そこのお嬢さん、あんたは貧乏神に取り憑かれておる。早うお寺に行って祈祷を受けなさい」と告げた。
俺は貧乏神ではなく生き神なわけだが、「まあ似たようなものか・・・」と、苦笑していると、驚いたことに彼女は易者に向かって、「大丈夫です。この方は貧乏神さんではありません」と笑顔で答えたのだ。
響子に霊能力はなく俺が見えるはずもない。だが彼女はなんとなく守護者(俺)の波動を感じていたのだろう。
健気なる者よ、我慢せよ。青年期を過ぎて30歳になれば、お前の『健康係数』は高くなる。
しかも、これまで不幸に見舞われた反動で耐久力も付き、幸運が怒涛の如く舞い込んで来るだろう。
俺は出勤前の自転車のパンクに焦っている響子の髪をなでながら「がんばるんだぞ」と呟いた。
( おしまい )