6.勝負
セクト家屋敷内には『鍛練所』がある。
それは屋敷の一階にあり、およそ三部屋分ぐらいの広さを持つホールのような部屋だった。
明るい色合いのフローリング床に、一切の家具はなく、代わりにピアノが一台。
そう、本来ならダンスを練習する為に作られたこの部屋は、実質の管理者によって『鍛練所』と呼ばれていた。
「……全然、弾いてないでしょ? ピアノ」
エリザは懐かしむようにピアノを撫でていたが、こちらを見るその表情は呆れ顔だった。
「あんたの場合は、好きにさえなれば集中するのにね」
「だって、あんまり好きじゃないし」
「今やって見れば、意外と好きになるかもよ?」
「それよりか、馬に乗る方が楽しいなー……なんて」
「ほら、すぐそうやって逃げる」
逃げると言われると、もう反論もできないが、令嬢の嗜みの一つである楽器演奏もユリウスの苦手とするところである。
そりゃあ、もちろん弾けたらいいな。と思った事ぐらいはあるのだが。
「まあ、逃げる事自体は否定しないけど。向かい合ってみたら、案外逃げる必要はなかったって時だってあるよ」
「……覚えときます」
なんだか話の方向が説教臭くなって来て身が縮こまる。
エリザはなんでもそつなくこなす。
令嬢の嗜みである、ダンス、刺繍、楽器演奏などはもちろん、何故か剣術や馬術も出来た。
最初その事実を知った時、華よ蝶よと育てられていたのに、一体どこで。と、思ったが。
しかしまあ、出先で学んだと答えられればそうかと納得するしかなく、エリザの対応力に感嘆した。
ちなみに馬術は一緒に遠乗り出来る程度、剣術については間違ってもゴロツキには負ける事のない腕前だ。
しかし、剣術だけは、まだ自分の方が強いハズ。
だから手合わせというより、鍛練に付き合うといった方が正解なのだろう。
エリザが鍛練用の木剣を放ってきたので、ユリウスはそれを空中で受け取ろうと手を伸ばす。
いつもならしっかり手元に収まる木剣。しかし今日は、自分の手に当たり床へと零れ落ちる。
「なにやってんのよ」と、エリザが笑うので、自分も「手元が狂った」と、苦笑した。
「じゃあ、始めようか。姉上」
「そうね」
短く返事をしたエリザが目を伏せる。
集中をする為に閉じられた瞼に応え、エリザの全てが、しばし、静止した。
すると周囲の空気がだんだん色濃くなって、玄関口で会った時のような熱風を感じさせる気配になる。
気圧されるような威圧感と、熱気を含んだ気配。
エリザの瞳が強く、意思を持って輝く。
一瞬その瞳に呑まれそうになり、思わず視線を外した。
「行くわよ、ユリウス」
声と同時にエリザが地を蹴った。
・
・
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「ほらほらほらほら!! もっと腕を前に!!」
烈火のごとく迫ってくるエリザに実戦さながらの旋律を覚える。
素早く繰り出される剣戟。その一太刀が重い。
予想に反して防戦に徹する事になったユリウスは、苛烈な攻めを避け続けていた。
速さ、重さ、技術。
エリザの技量は二年前より遥かに向上していた。
何が『鍛練に付き合う』だ。
とんでもない。
ユリウスは右側へと木剣を避けつつ、エリザの動きに注視する。
素早く動く腕に、軽い足捌き。
……と、そこで隙を見つける。
しかし、その隙はこちらが反応するより早くその優位性を失ってしまう。
実はさっきからこんな事の繰り返しであった。
エリザの攻めは素早いが、付け入る隙がないわけではない。しかし、折角見つけた好機も生かす事ができず、また防戦になってしまうのだ。
そういう事が何度も繰り返される内に、自分の反応速度が鈍っているのではないかと気がついた。
まさか疲れているとでもいうのだろうか?
そんな馬鹿な。
こんなに平和な毎日を送っているのに、何が疲れるんだ?
「ほら! 左がガラ空き!」
声と同時に木剣が迫る。
ユリウスは寸でのところで、後ろに回避するが、エリザはその間合いをすぐに詰めた。
そして木剣が振り上げられる。と、そこで、微かな異変を感じた。
「! 姉上!」
「なにっ!?」
言葉を発している間も攻撃は止まらない。
「木剣!! 香り!!」
ユリウスは辛うじて木剣を避けつつ叫ぶ。すると、
「気づくのが遅い!!」
言葉が終わらぬ内にエリザは一気に間合いを詰め、木剣で薙ぎを構える。
瞬間、ユリウスは反対側に飛び退こうとして、何かに躓く。
それがエリザの足払いだと気づいた時にはもう遅く、ユリウスはそのまま地面に叩きつけられる。
「……っ」
痛みに呻きつつ、すぐ体勢を立て直そうとすると硬い何かが首に突き付けられていた。
それは、エリザの木剣。
「ユリウス。あんた、鈍ってんじゃない?」
エリザは木剣を首から離すと一振りして、その剣先をユリウスの鼻面に向ける。
剣先からは僅かな香りが放たれていた。
ほんのりと甘く存在感を主張しない、この、香りは。
「ミーディア草……」
「そ。まあ、分かって当然だけど」
ミーディア草は男爵家領地内の、とある場所に群生しており、その場所は通称「眠りの庭」と呼ばれていた。
「毒草を仕込むなんてずるいよ」
「なにが? 剣に毒を塗るなんて昔っからあるじゃない」
あっけらかんと言い放つ姉にユリウスは不満げな表情を浮かべる。
「練習戦で、しかも木剣に仕込むとは思わないよ」
「それが甘いっていうの。実戦は常に予期せぬ事が起きるもの。それに対処できなければ、主君を守れない」
エリザはそう言い切って、片眉を上げた。
耳が痛かった。
エリザの言う事は尤もで、現に自分はあの時フィリップを守れなかった。
「決めたわユリウス」
唐突に言い、そして、エリザが不敵な笑みを浮かべる。
ユリウスは冷や汗が伝うのを感じた。
こういう顔をする姉は何を言っても通じない。
「勝負をしましょうユリウス。私が勝ったら――……」
――――殿下の護衛騎士、交代してもらうから。
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