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錯綜-2

ジゼルがなぜあんなに世界と咬み合わない子なのか。ミシェルがなぜ孤独なのか。それは後々少しずつ明らかにしていきます。アイザックがいるから、空気が和らいでいる事に気づいているようで気づいていないようで。



空の白い日だった。





    





表層意識とは別のところで、目覚めを訴える深層意識。

呑み込まなくてはならない。

また、なにも分からない子のように。

その時過ぎる情緒に従い、本能の赴くままに行動する、いつものわたしに戻らなくてはならない。

扱い辛く、猛る感情の起伏の激しい子どもであるわたしを、誰もが持て余していることを知っていた。

それでも、目を覚ましてはならない。

目に見える傷から視線を逸らし、深く意識を閉じ、理性を殺してなにも理解しないことを選び取らなければならない。

それがわたしに残された、全てとのバランスを取る、生きるための唯一の手段だった。






*     *     *     *     *






「誰か来たか」

「いいえ、サー!」

ICUに通じる入り口に立っていた警備員は、ミシェルの姿を見るとお疲れ様です、と敬礼を寄越した。

"クロイツ"を任される前に、軍のどこかで見た顔だったような気もしたが、思い出せなかった。


病室は二部屋からなり、最初に入る部屋で看護士に手渡される医療服を身に着けなければならない。

何度か任務の上で世話になったことのある、顔馴染みの医師が差し出したトレイに銃を乗せ、マスクをはめて二人はパトリックの眠る病室へと入る。

そのすぐ後をついて、医師が入室した。

「峠は越しました。しかし重症であることに変わりは……」

説明を始めようとした医師のセリフが途中で止まる。



部屋の片隅に、花束が置いてあった。

明らかに見舞い用にラッピングされた鮮やかな花。黒いリボン。

しかし、花束に向いた種類の花ではない、どちらかというと東洋風の生け花にする類の花だ、ということはその方面に詳しくないミシェルにも一目みて分かった。



「……ここには誰もこなかった、と聞いたが」

「来ませんでした、本当ですよ!ICUに外窓なんか無いし、入り口には軍の方が……」

ミシェルが医者を問い詰めている間に、ジゼルは花に近づく。

なんという種類の花かは分からなかったが、淡い紫色をしたちいさな花を沢山つけた切り枝だった。

傍にしゃがみ込み、ラッピングの裾を持って軽く引く。

花束にカムフラージュされた爆発物の類かもしれないと思ったが、異常はなかった。

結ばれた黒いリボンをほどくと、結ばれていた枝がばらける。そして、樹液なのか意図的なのかわずかに湿ったカードがくしゃくしゃにして、折り込んであった。

それを開こうとしたところで、後ろから取り上げられる。

文句を言おうとしたが、ミシェルが開いたカードの中身を読み上げたので、できなかった。




「――――― " 仲間の命乞いを、した事があるか? " 」




カリグラフィのようにキレイな装飾文字で、そう書いてあった。

印刷かと思ったが、手書きのようだ。

「鑑識にまわせ。花束もだ」

言って、ミシェルはベッドの上のパトリックに歩み寄る。

驚くべきことに、彼は意識を取り戻していた。



この部屋に入ってきたときから、ずっと、なにごとか呻きながら手を伸ばして空を掴んでいたのだろう。

花束に気をとられて気づかなかったが、彼はそうやって、こちらになにか必死で訴えかけようとしていたのだ。

「陸軍特殊部隊隊長のミシェルだ。何か言いたい事があるか」

包帯のまかれた手が、空を彷徨う。

ほんの一瞬の躊躇ののち、ミシェルはその手を取った。

顔にもぶあつく巻かれた包帯のむこうで、パトリックが息を呑み、それから泣き声ともうめき声ともつかない弱々しい息を、吐いた。

「何が言いたい」

あまり患者を疲れさせないでくれ、と背後から医師の声。

何度もこういった場面に立ち会っているため、病人への尋問を見ることにも慣れてはいるが、今回はとくに症状が重い。

火傷の治療にどれほどの時間がかかるのか、素人には分かるはずもないと彼は思う。

しかし「ここから先は機密だ」とジゼルが室内から医者を追い出して、再び部屋は沈黙に沈んだ。


なにかを言いかけた唇を震わせ、包帯の隙間からパトリックが呻く。

「喉を焼いたか」

腕組みをして、彼を見下ろしたままミシェルが言った。

「炎を吸い込んだのだとすれば舌も焼けている。これではまともに喋れまい」

生きているのが奇跡か、と溜息をつく。

しかし、それでもパトリックは何か言いたげに呻き続けていた。

「ゆっくりでいい。喋れ」

気長に待つつもりでいた。

椅子を引き寄せ、腰を下ろすと、ミシェルはジゼルにも座れ、と言った。

枕元に歩み寄ると、包帯の隙間から彼女の姿が見えたのか、パトリックは弱々しく部屋の片隅を指差す。

先ほど、花束が置かれていた場所だった。 


「……騙、されて、い…る……、おれ……も……、お前、た…ち……も……」


「喋り…やがった……」

驚いたようにジゼルが腰を浮かせる。

それを片手で制して、続きを、とミシェルは促す。

息を吸い込むたびに喉を引き攣るように痙攣させながら、それでも、あえぐようにパトリックは言葉を、話す。

「M…L…W……違う……お前たち…思って、る、ような…違う…。あれ、は、人類を…消す…気……」

「人類を消す?それがMLWの目的だというのか?どういうことだ」

「獣……気を、取られ、…るな……目くらまし……あれ、は、もう…止められ…な、い……」

「止められない?獣をか?」

弱々しく彼は首を横に振った。

少なくとも振ったように、みえた。

ひゅう、と息の漏れる音が絶えず聞こえ、まともな神経の持ち主ならばここで耳を塞ぎたくなるのだろうとミシェルは思う。

そんな神経など、とうに切り捨ててしまったが。


「辛いのは分かっているが協力してくれ。獣とはなんだ。獣がめくらましだというのか?」

「お前…も……獣……」

腕を持ち上げ、ミシェルを、指差す。

たったそれだけのことが、ひどく彼には負担になるようだった。

その言葉にミシェルは僅かに眉を顰めたが、それだけだった。

言葉を話すたびに削られてゆくのは、恐らく、生命力なのだろうと思う。

自分の命を削ってまで、彼が訴えようとしていること。

それとも情報と引き換えに、その命を繋いで貰う事を望んでいるようにでもあったが、ただ、目的も手段もなく、言葉を紡ぐことだけが今の彼にとっては全てであるかのように、みえた。


「皆、獣……。…から、獣、には、構う…な……。惑わさ…るな……。裏切り者…、軍に……る……」



裏切り者は軍にも居る。



ほんの一瞬の間を経て、それがどれほどの言葉かを瞬時に察した二人は厳しい顔を見合わせる。

すぐに立ち上がり、ジゼルはICUに設置されている監視カメラの電源を切った。

始めから音声は繋いでいないが、映像でさえも危うかった。

「誰も…信じ、…るな……今す、ぐ、MLW……攻撃し、ろ……もう、手遅れだ、が…これ、以上、危な、くな、る、前…に……」

「私の権限では無理だ」

パトリックに、ではなく、ジゼルに向けて小さく囁く。

「なんでだ。オマエは全権を与えられてんじゃねえのか」

こちらも、パトリックに届かないよう声を潜めて言うが、ミシェルは小さく首を振った。

「諸事情でな。色々あるんだ」


「たのむ……俺……まだ、死にたく、な…い……、ここは、嫌…だ…、協力、す、る…軍で…保護して…くれ……」

「贅沢を言うな。お前一人のためにどれだけ厳重な警備を敷いていると思っている。お前一人のせいで、ここに運ばれるべきだった急患が何人、間に合わなくなって命を落としたと思う」

「嫌だ……!」

悲鳴のような声を発して、彼は再び部屋の片隅を指差した。

あの、花束が置かれていた場所。

「…ミシェル。確かに、私たちは外部からの侵入を許したんだ。それにこれ以上ここを閉鎖し続ければ、オマエが言うように他の患者に影響が及ぶだろ。私も、こいつには証人保護プログラムを適用してここを移したほうがいいと思う」

珍しくまともなことを言うな、とミシェルはジゼルを見返す。

睨み上げてくる目はいつもと同じく強いが、こちらに向けられる視線の強さは、今日はなぜか、物質的なものだけではない気がした。

「……いいだろう、分かった」

しばらくその目を見ていたが、視線を戻すと、呟いた。






*     *     *     *     *






白い廊下。

先ほどまでいた階では往来する人の姿は無く、あの花束の侵入経路を暴こうと警備員のみが慌しく駆け回っていたが、エレベーターを降りたロビーでは松葉杖をついた入院患者やカルテを抱えた看護士がいつもと変わらず往来している。

だが普段と違うのは、空気だろう。

一切表立った発表を避けていても、要人か誰かがこの病院に担ぎ込まれたことはすでに誰もが知っている。

車椅子で談笑する老人たちの会話も、あまり弾まない様子だった。

そしてエレベーターホールからロビーに入ってきた軍服姿の二人に、会話を止めてこちらを伺った。

それらの視線を跳ね返すように、ミシェルは足早にロビーを抜ける。

いや、他人の視線などというものがこの男に影響を及ぼすことはできないのかもしれない。

常に冷静さを失わない姿は、容姿の秀麗さと相俟って、見るものに近寄り難い印象を与えた。

本人はただ単に周囲に興味が無いだけだと思うが、周りの人間にはそうは見えていないようだった。



「MLWだと思うか」

あの花束の犯人は。

隣を歩くジゼルがそう、問いかけてくる。

「恐らくな」

一瞬、ロニーの顔を思い浮かべ、しかし証拠もなく理由もない、とミシェルはその考えを打ち消す。

最近顔を付き合わせたテロリスト、というだけで犯人にしていては、職業上、いくらでも犯人の捏造ができてしまう。

「なんの意味があって」

「さあな。牽制か、脅しか、揶揄しているのか、力を誇示しているのか」

「侵入不可能な部屋に入ってきて、そしてまた出て行った。…軍に裏切り者が居るって言ってたな。入り口の警備員もそうなんじゃねえか」

「かもな。だが、監視カメラは裏切らん」

確かに、監視カメラをチェックしたときには、医師と看護士以外誰もあの部屋には入っていなかった。



入り口に二箇所、ICU内に二箇所。

医師も看護士も、入るときは二人で入り、単独行動はしていなかった。

中でも、脈拍や血圧を測り、状態を調べ、ガーゼを取り替えただけ。

その、ICU内のカメラの映像が途絶えたのは3分間。

ノイズのみの録画になっていた間、しかし、入り口のカメラは廻り続けていた。

そして誰も、入り口を通ったものはいないのだ。

3分間のノイズが途切れ映像が戻ったとき、花束はすでにそこにあった。

首をかしげるしかない。

突然ICU内に現れ、そしてまた忽然と消えた、としか言いようがないのだ。



「考えても分からないものは分からない。鑑識からの連絡を待つぞ」

正面玄関でまた、入るときと同じく身分証を提示する。

なにを見せればいいのか分からなかったのか、それともどこにしまったのか分からなくなったのか、ジゼルがまごついたので、入るとき胸を突き飛ばされた警備員が諦めたように「お通り下さい」と言った。

すまないな、とミシェルがジゼルの背を押したとき、いささか乱暴な運転で黒のフェラーリが正面玄関前、二人の目の前に停車した。



「よ!」

スモーク度の窓を開けて、軽い口調で手を上げたのはアイザックだった。

途端にミシェルの顔が不機嫌に歪む。

「貴っ様、そのフェラーリは私の……」

「カタイ事言うなって、どうせ名義は軍のだろ。それより、なんかややこしい事になってきた。乗れよ」

「乗れ、ではない。お前は後ろだ。傷をつけられては適わん」

答えを待たず運転席のドアを開けると、アイザックの襟首を掴んで車から引き降ろす。

「痛ぇ、少しはいたわれ!」

「やかましい。さっさと後ろに乗らんと轢き殺すぞ」






国道を東へ。

車体の低いフェラーリは滑るように走る。

ハンドルを握る手は白くて細く、あまり軍人向きではないように見える。

骨が丈夫なのだろう、と誰かが言っていた。

ミシェルは華奢に見えるが、体脂肪率が少ない。

骨が太いぶん脂肪が薄く、筋肉のバランスがよいのだろうとその誰かは言っていたが、見かけの綺麗さを崩さずに身体だけ鍛えられるなんてセコイ奴だ、と言ったその言葉の通り、ハンドルにかけた片手は細くてきれいだった。

助手席からなんとはなしにそれを見つめながら、シートに寄りかかってジゼルは足を組む。

運転しながら、横から穴が開くほど見つめられているのは気づいていたが、ジゼルの考える事も行動もいつも脈絡がないのでミシェルは放っておいた。

いちいち相手をすることは、他の人間とは違ってジゼルにとっても意味がないことを知っていた。

こうやって、皆が適当にジゼルを放し飼いにしているのである。


「で、アイザック。何がどうなった」

バックミラーごしに、頭の後ろで腕を組んだ退屈そうな姿に問いかける。

自分が転がしたかったのに、と非難がましい目を向けていた男は、ミラーごしに合った目に向かってニヤリと笑ってみせた。

不機嫌そうにミシェルが視線を逸らしてからは、声を出して笑う。

「あんた、行動、分かりやすすぎ」

「……次のカドでお前だけ降りろ」

「冗談だよ。次のカドは左に曲がってくれ。あのな、昨日助けた女いただろ。黒髪の、ちょっとかわいい子」

「お前の好みなんか聞いていない」

「俺の好みはどうだっていいんだよ。ちなみに黒髪は、好みじゃない」

「……話を進めろ。でないと本当に放り出すぞ」

「気が短けえと禿げるぞ」

「ジゼル、窓からそいつを放り出せ」

「分かった!話すから左に曲がれって!」

実は悠長にしてる場合じゃないんだけどな、と前置きしてアイザックは肩をすくめた。









「殴る事ぁないだろ!いきなり!いくらなんでも!」

抗議の声を無視して歩き出した二人に、恨みがましい目を向ける。

しかし勿論、そんなことでは足を止めてくれるような二人ではないので、ちくしょうと毒づきながらアイザックもその後を追った。

腹立ち紛れに車体を蹴ってやろうと思ったが、そんなことをしたら本当に殺されかねないので、やめておいた。


州で2、3番目に大きなこの病院は、先ほどいた病院とは打って変わって目の回る忙しさだった。

他から搬送されてくる病人の手当てだけでなく、屋上での夕べの銃撃事件についてマスコミ各社が集まって問答を繰り広げていた。

「裏口から入るぞ」

一目見るなり踵を返したミシェルを追い、二人も衣を翻す。

「何故もっと早く言わない。殴られても当然だ」

痛そうに頬をさするアイザックに、隣を早足で歩くジゼルが呟く。

「携帯が繋がんなかったんだよ。だから車で来てやったじゃねえか。なにもフェラーリ転がしてきたのはイヤガラセじゃねえんだぞ、一刻も早く知らせてやりたかったから速い車選んできてやったってのに」

「オマエは悪ふざけが過ぎんだよ。早く来たなら早く喋ればいいのに」

「そっちこそ、携帯電源入れとけよ。病院だからって、俺らみたいに緊急通話が必要な人間まで電源切るこたねえだろ」

「馬鹿かオマエ。病院に直接電話を入れれば良かっただろうが」

「……あ」

「ほら、やっぱり馬鹿じゃねえか」

ジゼルに鼻で笑われて、がっくりと彼は肩を落とした。






病院から女が消えた。

昨夜アイザックが助けた―――獣の目撃者でもあり、被害者でもあるため、軍は警備員をあてて彼女を監視していたはずの、あの女だ。

監視。それは、およそ3割の確率で、獣を目撃した人間も24時間以内に獣化することがあるからである。

いつもなら、身柄を確保して軍の地下にある牢の中に監禁し、何事もなければそのまま解放、獣化すればその場で射殺するという方法を取っていたのだが、今回は傷がひどかったので、腕利きのエージェントに監視させたうえで、この病院に搬送した。


大人が獣化する確率は、子供が獣化する確率より低い。

恐らく獣化は無いだろうと思ったのだ。



「読みを外したか?」

アイザックの問いかけを無視し、病室に着くと、ミシェルは小さく溜息を吐いた。

警察の張り巡らせた黄色いテープ、それをくぐって室内に入る。

人口密度の高い病室内。地元警察、FBI、軍、統制の取れていない組み合わせだった。

足元に落ちた生々しい血痕。

白く引かれたチョークの後、証拠の番号を記した黒いコーナー。

ベッドに吊るしてあったアイリーン=ビスマルクと書かれたネームプレートは、誰の血だか分からないもので汚れてしまっている。

寝袋のように長い黒い袋がふたつ。

「確認する」

袋のひとつに歩み寄り、チャックを下ろすと、軍服姿の男の死体だった。

恐らく目を開けたまま死んだのを、誰かが閉じてくれたのだろう。

死因は額の真ん中を、至近距離から銃で一発。


「……ネルソン」

「知り合いか」

そばに膝をつき、アイザックはそっと、死体に触れようとして、……それから、やめた。

ここに来るまでの飄々とした態度は消えうせ、呆然として彼は呟く。

なにか言葉を発することで、自分を落ち着かせようと、しているようだった。

「"クロイツ"に配属されるまえ、士官学校を一緒に出た。…今でも時々、メールとかしてさ。……友達だった」

「……そうか」

腕を伸ばし、もう一つのチャックも下ろす。

こちらも軍服姿の、目を閉じた黒人男性の死体だった。

アイザックが小さく息を吐く。知り合いだったのか分からないが、憤りをやり過ごすためになんとか、息を整えようとしているように、みえた。


「すまないが軍の管轄だ。後ほど書面で協力を要請するが、今は警察もFBIも引いてくれ」

予想していたような反論は無かった。

FBIの男が、なにかあれば連絡してくれと名刺を渡したが、ミシェルはそれを受け取ると適当に彼らを追い払った。

「銃を奪われてんな。自分の銃で眉間を撃たれた」

膝をついていたジゼルが立ち上がり、それから、どこかへ消えた女のために用意されていたベッドに、歩み寄る。

「女の傷は、どれくら深かったんだ?」

「……左肩から、背中に向けて引き裂かれてた。傷自体はそう深くないが、出血が多かった。…そう、言ってた」

「ロニーがな」

ミシェルがそのあとを引き継ぐ。

「ロニー?」

「MLWの下っ端だ。それはどうでもいい。…問題は、女が自力で出て行ったのか、それとも攫われたのかだ」

「どっちにしろ、女は手配するんだろ。獣化する可能性もふまえて」

「ああ……」

力なく、再びアイザックは死体袋の傍らに膝をつく。

背を向けて、ジゼルが病室を出て行った。

くぐる気もなかったらしく、黄色いテープが千切れて床に落ちたが、無論、ジゼルは少しも気にしないようだった。



「仕方ねえよな。…ほんと、仕方ねえよ」

チャックを閉めて、友に別れを告げる。

顔を上げるとミシェルがこちらを見下ろしていた。

「何を言い聞かせている」

「……さあ、……仕方ねえって事を、かな。むしろ喜ぶべきかもしれない、国のために死ねて。だってあんた、考えてもみなよ、カミさんに黙ってストリップ・ショーを観に行ってる最中に会場に隕石が落ちて死んでみなよ、恥じゃねえか。そんなんじゃなくて、殉死なんだぜ、最高に名誉なことじゃねえか」

一人で喋って、カラ笑いをする姿を、黙ってミシェルは見下ろしていた。

そして、言うことがなくなったのかアイザックが黙り込むと、表情を崩さないまま、言う。

「だから何を、言い聞かせている。自分に」

しばらく、答えはなかった。

ミシェルは辛抱強くそれを待っているようにも見えたが、恐らく、この男にそんな気の利いた芸当ができないことをアイザックはもう、知っている。

部下を慰めるような男ではない。

けれど、この男なりに、彼の言葉とその真意を受け止めたがっているようにも、見えた。

無論、無意味なことは知っている。

無意味なことを好む男なのだ。



「俺も、こんな風に死ぬのかなって」



小さく笑う。

答えはなかった。

「もっと、死ぬことに慣れなきゃな。そうしないと、やってられねえよな。分かってる、分かってるんだけど、さ……」

ゆっくりと、ミシェルが背を向ける。

アイザックはその靴を、黙って、見つめていた。

「慣れる必要はない。怖いのなら、怖がっていればいい」

「だけど、それじゃいつまで経っても乗り越えられない」

「……お前が羨ましい」

「え?」

それだけ言うと、ミシェルもまた、入り口のテープを手で払いのけて足早に部屋を出て行った。



はらりと床に、黄色いテープが折り重なって落ちる。

先ほどまでの人の多さが嘘のように、しんとした病室と廊下には人の気配がなかった。

あるのはただ、そこに横たわる静かな死。

―――――おまえが羨ましい。

どういう意味なのか分からなかったが、聞いてももう答えてはくれない事はわかった。

そして、恐らく、答えてくれたとしてもそれを自分が理解できないことも、彼には、わかっていた。

「俺は、あんたが羨ましいよ」

なにも感じてないみたいで。


死を恐れて生きることより、生そのものに怯えて生きなければならない、鎖のように続く日々の重み。

それを彼は知らなかったし、恐らく、この先知ることもないだろうと思った。

それがどれほどのものなのか。

知るものならば、二人の距離はもう少し、近かったはずなのだ。






*     *     *     *     *






「はい。上層部に居るかもしれません。この電話も、盗聴はありえないと思いますが、万が一のこともありますから……」

廊下を曲がった突き当たり、採光のいい窓と観葉植物の置かれた非常階段扉の前。

病院内にも関わらず、携帯で通話をするジゼルは、こちらに背を向けて窓の外を見下ろしていた。

「はい。そうします」

終話ボタンを押して通話を切ると、ジゼルは携帯をポケットに閉まって振り返る。

が、そこに立っていた上官の姿に今の今まで気づかなかったらしく、思わず小さく息を呑んだ。


彼女にしては珍しい。

人の気配に対して敏感に育てられているため、振り返るまで気づかなかった、ということがまず、ミシェルの中で違和感を呼んだ。

「誰と話していた」

黙って通す気は無いらしく、腕組みをしたまま幾分低い声で彼は言う。

「恋人」

「お前の嘘は、分かり易すぎる」

何かを勘繰るようなそんな、静かで、それでいて咎めるような、視線。

肩を竦めてジゼルは窓の外を向いた。

「答える気が無いのなら、スパイ嫌疑で軍法会議にかける」

「ふざけんな」

彼が本気なのは分かっていた。

手を握り締め、睨んだまま、ジゼルは吐き捨てるように言う。

「報告入れてただけだ。……中将に」

「中将?……ニコルソン中将か?」

返事はない。躊躇いなく手を伸ばし、ジゼルの襟首を掴み上げた。

「離せ!触るな!」

途端に、手負いの猫のように騒ぎ出す。

乱暴に引き寄せて壁に押し付けると、頭の後ろに銃を突きつけて腕を捻り上げた。



「ふざけんなオマエ!離せ!」

「何故お前がニコルソン中将に報告を入れる。…パトリックの言った事を忘れたか?万が一、中将が裏切り者だったらどうするつもりだ」

「中将はそんな事しねえよ!あのひとを侮辱するな!離せ!」

肩甲骨の辺りまで後ろ手に腕を捻り上げられた状態では、闇雲に暴れれば関節を痛める。

それくらい分からないわけではないだろうに、髪を振り乱してジゼルは暴れる。

辟易して、ミシェルは掴んでいた腕を引き寄せると乱暴に床へ突き倒した。



無様に床に投げ出され、磨き上げられた廊下を転がる。

不自然な体勢からで受け身を取れず、それでも彼女は素早く上半身を起こした。

「それとも、お前が裏切り者かもしれないな、ジゼル」

「ふざけやがって!」

はずみで切れた唇を拭い、歯を食いしばる。

胸の奥で煮えたぎる感情をなんと呼ぶのか知らなかった。


これまで、ミシェルが自分に対して何か暴力的な衝動の矛先を向けたこともなければ、決して疑いの目を向けることはなかった。一度たりとも。

それが、理由も無く信頼と呼ぶに値しないほどの些少なものであったとしても、いかに自分にとって重要なものであったかに、気づいた。


その瞬間、なにかが弾けたように頭の奥が熱くなる。

耳鳴りがしたようで、そうではないのかもしれなかった。

わけもわからないまま衝動にまかせ、地面を蹴った勢いを利用して掴みかかる。

強く握った拳を振り上げて、しかしそれは相手に届く事なく、逆に手首をとられて痛みを感じた。

それは一瞬で、痛みの次に感じたのは眩暈。

視界が反転し、それから、息が止まった。

背中からしたたかに床に叩きつけられ、反射的に体を折る。

それでもがむしゃらに起き上がり、再び殴りかかろうとしたところで、

「やめろ!何やってんだよ、二人して!」

アイザックが止めに入った。


騒ぎを聞きつけて、病室を飛び出してきたのだろう。

警察かFBIかに、部屋から出るなと言われていたほかの入院患者も、恐る恐る廊下の角からこちらを窺っている。

それらを押しのけるようにして駆け寄ってきたアイザックは、ミシェルから庇うようにジゼルを自分の後ろへ引き離した。

その際にも、触れるな、と半ば悲鳴のようにジゼルが叫ぶ。

慌てて手を引っ込めて、彼はミシェルを睨んだ。

「なんでこんな事になってんだよ。説明しろよ」

「……そいつが中将と通じていた。当然の制裁だ」


一言に中将、というとそれは、一昔前にかなり有名だったあのニコルソン中将を指す言葉だ。

ジゼルと彼が知り合いであることは、当時を知る者しか知らない。

無論、アイザックはそんな事は知る由も無く、驚いたが、しかし気を取り直して言う。

「なんでだよ。中将と連絡取って、何が悪いんだよ。それにあんた、これじゃ子供のケンカだよ。何がしたいんだよ。……ジゼルも。上官に手上げるなんて、あんた何考えてんだ。相手がこの人じゃなかったら、あんた今頃、懲罰房行きだぜ」

「うるせえ!オマエに関係ねえんだよ!」

癇癪を起こしたように、力任せに両手でアイザックを押しのけると、二人の横をすり抜けてジゼルは逃げるように走り出した。

慌てたように野次馬が引く。

「ジゼル!」

「放っておけ。どうせ愛しのニコルソン中将のところに泣き付きに行ったんだろう」

「あんたなあ……、どうしてそういう棘のある言い方するかな。縦社会だぜ?あんたより上にいる中将に何か頼まれたんじゃ、ジゼルだって断り切れなかっただろ。何がそんなに気に入らないんだよ。あいつがあんたに中将のことを黙ってたことか?」

あいつが必要な事を言わないのは、いつもの事じゃねえか。何をそんな、目くじら立ててんだよ。

まるで子供のケンカの仲裁に入ったかのように、やれやれとアイザックは溜息をついた。


しかし、有る意味子供のケンカと同じだ、と彼は思う。

ミシェルは頭もよく常に冷静だが、どこか子供じみた精神構造を持っているように見える。

自分の考えを、自分で理解する能力に欠けているのだ。

そしてそれはジゼルも同じで、ただ、彼女に比べてミシェルのほうが、社会的に受け入れられるための表面的な立ち振る舞いをうまく使い分ける事ができた、というだけのことだ。

要は、似たもの同士。

そして、関わるには最も厄介な二人だと思う。


「とにかく……。あんたが悪いんだからな」

「何故だ」

「なんででも。あんたのワガママであいつに手なんか上げるんじゃねえよ」

「ワガママではない。知らないうちに中将と連絡を取ったあいつが悪い」

「そういうのを独占欲って言うんじゃねえの?俺たち、あんた一人だけの部下じゃないんだぜ」

「……。」

それきりミシェルは何も言わなかった。

無言のまま踵を返し、再び慌てて引いた野次馬を無視してエレベーターへと向かう。

「あ、おい、待てって!」

散々な一日になりそうだった。

チクショウと呟いて、彼も後を追う。

彼の目には何をどう見ても、ミシェルがジゼルに対して一方的に、裏切られたと思い込んでいるようにしか、見えなかった。

「それこそお互い様だっちゅーに」

待っていてくれればいいものを、目の前で閉まったエレベーターの扉に、再び彼はやれやれと深い溜息をついた。












続く

    *   *   *   *




この先は、白い茨の少年たちサイドです。分けるには短すぎたので…裏事情的なもの、読まなくても良い程度のものです。

なぜパトリックが喉を焼かれても話せるようになっていたか、あの花は誰が置いたのか。

というささやかな穴埋め。書き出しだけは一緒。




   *    *   *   *








空の白い日だった。













包帯でぐるぐる巻きにされた状態でも、微かな風の動きを感じることはできた。

その気配に、看護士の誰かが、また、ガーゼを取り替えに来たのだろうと思った。

あるいは、点滴のチューブを取り替えるためか。

何日経ったのかとか、あとどれくらいで包帯を取れるのか、いや、それよりも、自分は生きられるのかと聞きたかったが、聞けなかった。


怖い。

死ぬのが怖い。


啜り泣きの声すら、焼かれた喉からは零れ落ちる事がなく、こうしてなにひとつ言葉さえ誰にも残せず、枯れるように死んでいくのかと思うとぞっとした。

誰かと話がしたかった。

誰かに何かを伝えたかった。

悲しかった。




ふと、鼻腔をくすぐる"生"の匂いに彼は一瞬、呼吸を止めて意識を集中した。


幻かと思ったが、幻ではなかった。

手折られたばかりの花の香りは芳しく、瞬時にして包帯の下の灰色の世界を鮮やかに染め替える。

命の香り。

生きている香り。

手折られてもなお、生への賛歌を口ずさみ続ける美しい、花の香りだ。


錯覚でもよかった。

そもそも、誰が花など持って来てくれたのか。

それに、花の香りがするはずがない。

喉を焼いた炎は恐らく、味覚も嗅覚も麻痺させてしまっただろうから。


それでも感じた、あまりの感動に、涙が溢れそうになる。

目に浮かんだ涙はすぐに、灰色の包帯に吸い込まれて、消えた。




「芳しいだろ?そして、醜い。おぞましいと思わないか?売女と同じ、花の香りだ」




その声に、包帯に巻かれた男は凍りつく。

突如として聞こえた、その声。

まだ成長期を抜け切らない、少年のもの。

どこか褪めた、高くもなく低くも無い、落ち着き払った声。

聞き慣れた、そしてもう、二度と聞きたくない声だった。


「そんなに怖がるなよ。せっかく、俺が直々に見舞いにきてやったっていうのに」

包帯に塞がれた視界に、少年の声だけが楽しげに響く。

見えないが故に恐怖は増大され、わななく唇で、助けを求めたかったがやはり声は出なかった。

「俺の好みは黒い薔薇だったんだけどな。セルジュがどうしても、この花をおまえにやりたかったらしいからな。花言葉を知っていたらしい。芸術家肌は考えることが違うな」

そう思わないか?おまえもセルジュのヴィオラを聴いただろう。

言って、華やかに少年は笑う。


歩き回っているのか、体重の軽い足音が部屋に響き、部屋の遠くでばさりと何かを床に投げ捨てる音。

そして再び枕元に戻ると、焼け焦げた彼の皮膚に触れて口づけた。

「酷い奴だよな、おまえも。せっかく、あれだけ目をかけてやったのに。車が欲しいなら、言ってくれれば俺はいくらでも、お前に買ってやったのに」


―――――裏切り者。


その言葉でさえ楽しげで、心底怯えきったパトリックは半ばパニックを起こしかけてベッドの上をずり上がろうとした。

「よせよ。そんな事で俺から逃げられっこない」

恐怖のあまり過呼吸を起こしかけた自分に、少年がためいきをついて手を翳すのが分かった。

「まあ、いい。それがお前の生き方なら、俺もお前は諦めよう。……ただし、生きられたらの話だけどな」

動けないよう片手で喉を掴んで、圧し掛かるように少年はパトリックの顔を覗き込んだ。

白い、長い髪が顔に触れるのが包帯越しにでも伝わり、首を振って逃れたかったが、できなかった。

それすら楽しむように少年は、喉から手を離して両手で彼の顔を捕まえると、包帯の隙間から見開かれた目を覗き込んで、笑った。

「あーあ、酷くやられたなあ。お前、助かっても顔、元には戻んないぜ。そんなんなっても、生き続けたいわけ?もう女も抱けないぜ」

生きたい、と答えようとした。

やはり声は出なかった。

だがそれでも伝わったのだろう。

諦めたように少年は、彼の顔から手を離した。

すっと、覗き込んだ枕元に広がっていた長い髪が遠ざかる感覚。

つまらないな、と少年は、呟いた。


「お前には分かんないだろうな。仲間の命乞いをしたことがあるか?這いつくばって、殴られても蹴られても、相手の靴の裏さえ舐めて。お前にはそれができない、してやる相手もいない。お前はただ、自分が生きたいだけだもんな」

俺はできる。

セルジュの為でもJ.D.の為でも、あいつらの為ならそれができる。

だからあいつらの命を俺のために使う権利がある。

あいつらはそれを認めているし、喜んでいる。

お前もそうかと思ってた。


立ち去る間際、少年は振り向いて、再び枕元へと歩み寄った。

「今まで仕えてくれて、ありがとう。だけど、これから、俺たちはお前も含めてみんな殺すから。お前はやりたいようにやってみろ。あとどれだけ生きられるかは分からないけどな」

少年が自分にくちづけるのがわかった。

不思議とその時だけは、恐れはなかった。


少年の気配が完全に消えてから、ドッと冷や汗が噴き出してくる。

殺されると思った。

だが自分は、生きている。

「誰か……だれ、か……」

闇雲に空を掴んで、誰でもいい、言葉を交わしたい、言葉を残したい、そう必死に呻いてから。

声が出せるようになったことに、彼は気づいた。


病室の隅からは、あの"生"の匂いがいまも変わらず彼を包もうとしていたが、もう、彼にその香りは届かなかった。




黒茨☓白茨 一話に混ぜてしまいましたが、今後は分けます。


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