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錯綜-1

ここから白茨と交錯、錯綜しながら続きます



足音が、きこえた。


痛みは治まったわけではなかったが、一度寝入ったので、だいぶ楽だ。

暗い部屋に目が慣れるのを待たず、ジゼルはベッドの上に身を起こした。

事故が起きたとき身に着けていた私物は、まとめてベッドサイドのバスケットに入れられていた。

その中から携帯を取り出し、電源を入れる。


午前4時17分。


足音はしだいに、近づいてくる。

交代の看護士が、様子を見に来たのかも知れない。

けれど、歩きかたで分かる。

足音を殺そうともしない、規則正しく強く地面を踏みしめる自信に満ちた歩きかた、まぎれもない軍人のもの。

そのままバスケットの中をまさぐると、銃があった。

昼間撃ったままリロードされていなくても、3発は残っているだろう。

迷わずそれを手に取り引き寄せたとき、カチャリと軽い音をたてて扉が開いた。


うすいカーテンに仕切られた医務室のむこう。

息を殺して銃を握り締める、利き手の指が火傷に痛んだ。

あちら側、ふわりと灯りがともされる。

人影が近づいてきて、躊躇い無く、カーテンが開かれた。

淡いライトを背にした人物の、顔は見えなかった。

けれど、逆光に照らし出されたシルエットが、緩んだコントラストでその姿をかたちどる。



「ニコルソン中将……」



乾いた言葉はひとりでに、ジゼルの唇からこぼれおちた。








私服に着替えることなく、勲章のついた黒い軍服で現れた男は、がっちりとした体つきの中年男性だった。

逞しい体躯にしては、表情は穏やかでいつも落ち着いた印象を与えていた男。

それは今も変わらず、愛情深さをこめてジゼルを見下ろしている。

かなり短く刈り込まれた灰色の髪とのコントラストを考えればいささか濃すぎる黒い瞳は、あまりに深すぎてなにを埋め込んでいるのかわからなくなる。

昔、そんなことを思ったと、幾つもの思考が彼女の脳裏を掠めては、過ぎていった。



「大怪我をしたと、聞いた。具合はどうかね?」


夜の空気を決して掻き乱すことのない、静かで奥深い声。

なにかを震わすこともなく、掠めることもなく、しかし重みと深さだけを湛えてふわりと空気に馴染む類のそれだ。

無意識のうちに、手にした銃から力が抜ける。

自分の見ているものが夢であるとでも思っているかのように、微かに唇を開いて自分を見上げるジゼルを見下ろしながら、中将はベッドに腰を下ろした。

「大きくなったな。きみに会いにくることは無かったが、毎日うわさだけは届いていたぞ」


だからいつもちゃんときみのことを考えていた。

きみがそれを理解してくれると嬉しいのだが。

そう言って、中将は包帯の巻かれたジゼルの手を取る。


力の抜けた指の間からごとりと銃が落ちた。

暖かい手に包まれた自分の指を、それからその手の持ち主を見上げて、ジゼルは震える息を無理矢理、吸った。

泣き出すのかもしれないと、ごく自然に思うほど、彼女の灰色の目は見開かれ、そこにうっすらと水の膜が浮かぶ。

けれど彼女は涙を落とさなかったし、震える息もそっと、ゆっくりと、吐き出した。

けれど声は、掠れていた。



「あなたは、……あなたは、幼い私の創り上げた幻かと」



それだけ言うのが精一杯だった。

しかし意味を汲み取ったのだろう、中将は穏やかに微笑を浮かべる。

そうすると顔に刻まれた皺がいっそう深くなり、生きてきた年月の重みをくっきりと浮かび上がらせる。


中将ほどの地位にあるものが、軍に拾われたばかりのちいさな子供を、肩車に乗せて敷地を見せてくれたことや。

だれか伝えるべき言葉を自分の中から選ぶことのできないその子供が、真夜中に座り込んでいた廊下を探し出し、優しく寝かしつけてくれたことや。

特別だよと言って、空軍の戦闘機を触らせてくれたことや。

あれからもう十余年、中将が会いに来なくなって彼女は、それら全てを幼かった自分の創り上げたファンタジーだと思い込むことに、したのだと。

彼は小さく笑った。




「きみは強い子だと、私は知っている。ほかの誰が何を言っても、気にするんじゃない。きみは現実を強く持って生きていける子だし、誰もきみを理解できなくとも、きみはきみ自身の世界に逃げることなくちゃんと全てを見極めていける」


流されることのない涙を辿るように、中将の指がジゼルの頬からそっと、顎を滑った。

それから再び包帯の巻かれた手を取り、そっと包み込むように、握る。

人の体温が持つ熱が、ぶあついガーゼと包帯ごしに傷に沁みたが、彼女は気にしなかった。

瞬きをしたら、視線をそらしたら、まるで消えてしまうのではないかと思い込んでいるかのように、見開いた瞳で自分を凝視し続けるジゼル。

彼女の膝に落ちた銃を、包帯の巻かれていないほうの手に握らせて、中将はそれを自分の左胸に、当てた。

微かに唇を震わせながら、ジゼルはゆっくりと視線をその銃に、下ろす。

「きみが私を憎む理由は充分にある。だから、許せないと思ったら引き金を引けばいい」





詰るような視線が彼を見上げた。

表情を消して真っ直ぐに彼はそれを、見返す。

ジゼルが微かに首を横に振るのが、わかった。

「けれどそうしないのなら、どうか私のために働いて欲しい。私にはきみが必要で、きみが想っている以上にもっと私はきみを想っている」

意識しなければそうできないかのように。

彼女は一本一本、震える指を解いてまだ中将の胸に押し当てられていた銃を、自らの手から解放した。

それからもう一度、彼を見上げる。

恐らくはこの拙い人生において、最も"父"という立場に近い場所にいるであろうこの男に。

この手が弾など打ち込めるはずが、無い。




しばらく中将は無言でジゼルを見下ろしていたが、やがて、自分の胸につきつけていた銃を静かに彼女の膝のうえに、置いた。

「……きみが拘束したパトリックは、今最高の治療を受けている。今日明日が山場だが恐らく、助かるだろう」

だが彼を消しにMLWのメンバーが現れるかもしれない。

だから彼を守って欲しい。きみならできると信じている。


一方的な言葉を囁く口調は先ほどと何も、変わらない、穏やかな。

それから中将は、まだ朝までには間がある、とそっとジゼルの両肩に手を添えてベッドに寝かせる。

小さな子供のようにされるがままになっていた彼女は、そのままベッドを降りて髪を撫でた中将の手を、包帯の巻かれた手で、つかんだ。

だがそれも一瞬のこと。聞き分けがいいのか諦めが早いのか、すぐに手を離すと彼女はゆっくりと、目を閉じる。

それを見届けたあとも少しの間、中将は彼女を見下ろしていたが、やがて背を向けると足早に病室を出て行った。





*     *     *     *     *






午前6時42分、陽の出前。

交代の看護士が控え室でまどろんでいるうちに、腕を通さずに上着を羽織ったジゼルが乱暴に医務室のドアを蹴り開けた。

恐らくドアを閉める、ということを知らないのだろう。

突然の音に叩き起こされた医師が状況についていけず眼鏡を探している間に、そのままジゼルは横を通り過ぎて病棟を出て行く。

「きみ、待ちたまえ!」

手づかみで眼鏡を探り当て、慌てて看護士が外に出たとき、目の前で彼女の乗ったエレベーターの扉が閉まる寸前、向けられた殺気だらけの目を見てなにも言えなくなった。


「なんて乱暴な女だ。二度と面倒なんか見るものか」

交代時間より早く起こされた事も相俟って、ひどく不愉快そうに若い看護士は毒づいた。

それから、寝る前にきちんとそろえておいた薬品棚から鎮痛剤、消炎剤、その他幾つもの錠剤とガーゼと包帯がごっそり持っていかれてるのを見て、今度こそなにも言えなくなった。




同じ棟の五階。

「ずるい人ですよね、あなたは」

パーキングに停めた車に乗り込むジゼルを窓辺から見下ろしていたニコルソン中将に、士官の制服を着た若い男が話しかけた。

ちら、とそちらを振り返って、また、中将は窓の外に視線を戻す。

ソーサーに乗ったカップに熱いコーヒーを注いで、士官はどうぞ、とそれをデスクの上に置く。

「ああいう言い方をすれば、彼女が必ずあなたに従う事を分かって、あんな」

「出すぎた事を聞くな、ウェイン」


立ったままコーヒーだけを受け取り、中将は変わらず窓の外をみつめつづけた。

そこにはもう、目で追う対象がいないことをウェインは知っている。

一口、コーヒーを啜ると、仕方がないだろう、とそれほど感情の動きもない声で中将は言った。


「それに、私はジゼルに憎まれても仕方のない正当な理由もある。……何をどう言い繕ったところで、私が彼女の母親を――ヴァレリーを殺した事は事実だ」

「そしてあなたは、それでも彼女が自分を憎まない事を知っている」

僅かに揶揄するような含みをこめて、ウェインは笑った。

そしてじろりとニコルソンに睨まれ、慌てて不謹慎な微笑を解いた。

肌の白い北欧系の、どちらかというと女性的に整った顔をした兵士である。

自分の分のコーヒーも煎れて、窓辺に並んだウェインは下から覗きこむようにして、傍仕えをする上官の顔を見上げた。




「けど、来るんですか?パトリックを消しに。だって、MLWのほうから、彼の身柄を我々に提供してきたんでしょう?」

隣でコーヒーを啜る上官の顔は、いつもと変わらず穏やかな無表情。

喜怒哀楽をほとんど顔に出さないため、もしかすると、感情の起伏そのものが彼にはないのではないかとさえ、時々ウェインは思う。

「あの話なら、ウソだ」

事もなげに言ってのける。

それが、例のMLWからの妥協策の話なのか、それとも彼女を病院に向かわせた件なのか計りかねてウェインは聞き返す。

「……どっちが、ですか?」

「両方だ」

「……。」


こうもあっさり答えられては、聞き返す言葉を無くしてウェインは黙り込む。


その沈黙を待っていたように、中将は窓の外に視線を向けたまま言った。

「そろそろ勤務の時間じゃないのか」

カップの中はからになっていた。口に運ぼうとしてそれに気づき、中将はようやく窓から離れてデスクに向かう。

「休みたい、……です」

「駄目だ」

却下されることを見越して言った言葉だった。

中将はこちらを振り向きはしないだろうが、それでもウェインはあからさまに肩を落としてみせる。

「じゃあ、なにか教えて下さい」

「何をだ」

「本当のことは、何なんですか?」

出すぎた質問だ、ともう一度中将は言った。

それでも、明らかに必要以上の情報を彼が自分に教えてしまうのはいつものことだったから、ウェインは彼が話してくれる事を知っている。

「コーヒーをもう一杯、煎れてくれ」

「はい」

カップを手に、流しへ向かう後姿を見送って、中将はデスクにつくと重ねてあった書類をぱらぱらとめくる。

そして、流しにいる部下にまで聞こえるよう、僅かに声のトーンを上げて、話し始めた。




「首が飛ぶ覚悟はあるかどうか、まずきみに聞かなくてはならない」

「……僕は好きで陸軍に入ったわけではないので。クビはいつでもオッケーですけれど」

「そういう意味じゃない」

コーヒーを手に、彼が戻ってくる。

どうぞ、とソーサーのうえにカップを置く手はなるほど、あまり軍人には向いていない繊細な細さだった。

「好奇心と引き換えに死ぬ覚悟があるかどうかだ」



「……軍のために?」



それともあなたのために?

揶揄するように笑って、ウェインは椅子を引き寄せるとデスクの向かい合わせに座った。


「どちらでも」


「じゃあ、イエスと言っておきますよ。僕はあなたみたいになれるなら、いつ死んだって惜しくない」

あなたみたいになりたい。だから同じことを知っていたいんです、と、彼は熱心に語りかける。

自分でも、何を言っているのだろうと思いながら。



「大袈裟なことを言ってすまないね。実際、大筋では本当の話だよ。合衆国はMLWを牽制しつつも均衡を取り合ってきた」

その実、話の内容はどんなことでも良かったのだろうと中将は思う。

ウェインにとって重要なのは、"あのニコルソン中将"と同じことを知り、同じものを見ていたいだけ。

単純なものだ、と彼は思う。

単純であるから分かりやすく、そして、最も理解し難い感情のかたち。

息子が父親に憧れるように、"数々の功績をたてた陸軍中将ニコルソン"に憧れる人間がいることは、理解できる。

しかし分かるのはその存在だけで、実感として伴うものは何一つ無かった。

理解はせずとも接する事はできるし誤魔化すこともできる。

核たるものを見極めることを諦めて、誤魔化してやり過ごすことに慣れた。

そうやって、なにもかもを置き忘れてきてしまった。……もう、取り戻せないけれど。

置き去りにしたものを拾う事をやめて、"事実"というストーリーをウェインに与える。

そうしてまた、置き忘れてゆく。

それを皮肉めいているとは思うが、取り返したいとは思わなかった。




「しかし10年ほど前までだったよ、"鬱陶しいが、有害でも無害でもない地下組織"という認識でMLWを見ていられたのは」

「今では?」

「そうだな、間違いなく危険因子だ」

「……何故?」

「"獣"だ」




MLWが"獣"を創った。それは事実だと言われているし私もそう思う。

そう前置きして、足を組む。

それはなにか長い話をするときの、彼の癖だった。

「成功例を我々が買い上げていると言っただろう?……しかし、獣が街に流出するようになってから、彼らは成功例を渡すことを渋り始めた。MLWが独占し始めたという説もあるし、成功例が出なくなったという説もある」

「真相は、どっちなんですか?」

「さあ、どうだろうな。とにかく、その時からMLWと我々とは、別の協力を始めた。獣の殲滅だ」

恐ろしい話だが、と、少しも恐ろしそうにない口調で前置きする。

実際中将がどう感じているのか、ウェインにはわからない。

「どうやら獣は伝染する、……これがトップシークレットだ」

伝染病、というわけでもウィルスが媒介となっているわけでもないのだが。

というより、媒介が不明なことが今最も、恐れられていることだな。

言って、中将は立ち上がる。

話は終わり、という事なのだ。慌ててウェインも立ち上がった。




「待ってください、でも、話がまだ見えないんですが……」

「そうだな。私にも見えない」

「え?」

「つまり、合衆国側には状況を把握している人物がどこにもいないという事だ。だからこそMLWとの協力が求められる。少なくとも、彼らは我々より遥かに多く、獣について知っているわけだからな」

「そう……ですか」

「そして、パトリック=セルロウは15年前、最初の成功例を出したMLWメンバーの一人、フィリップ=セルロウの一人息子だ」

親子のつながり、というものにどの程度期待していいものか、正直私には分かりかねるが。

上の判断はそういう事だ、と穏やかに苦笑して、少し冷めてしまったコーヒーを口にする。

煎れ直したほうがいいかと聞こうとしたが、聞けなかった。


「パトリックは、MLWと我々の均衡を破ってしまった男だ。"クロイツ"の隊長、ミシェル少将にも告げた通り、彼は過去にMLWの機密を持ち出そうとして失敗している。……直後、我々に保護を求めてきた。新しい住居と国籍、それに安全を保障してくれさえすれば、自分の持ち得る情報は我々にすべて明け渡すと。我々はそれを受け入れ、目立たぬようにこちらの職員を、彼の護衛につけたのだが…"クロイツ"が摘発を行った事で、疑心暗鬼になってしまった彼が逃げるのも時間の問題だったな」

「……"クロイツ"との連携ミスですか。運が悪かったとしか言いようがないですよね」

「運なんてものは、この世には存在しない」

思いのほか、強い声だった。

驚いてウェインは、常に穏やかな表情を崩そうとしない上官の顔をじっと見つめる。

しかし、錯覚だったのかと思うほど、彼はいつもと何ひとつ変わらず穏やかに自分を見返しているだけだった。



「ウェイン、この世には必然しかない。神の思し召しなどないし、偶然というものもない。……パトリックが我々からも逃げ出すのは時間の問題だったよ。だから最初に、締め上げて情報を絞るべきだと言う声が上がったのだが」

国家というものは、そうもいかなくてな。

溜息のように息を零して、彼は言う。


「覚えておくといい。…テロリストや一企業ならともかく、国家機関である以上、我々はどんなときも必ず、国民に対し納得いく説明をできるように心がけておかなければならない。たとえそれが事実でなくとも」

「……はい」

「それを時に、歯痒く思う人間は軍人であるよりもテロリストであるべきだ。そういった目先だけで行動する人間は決して人の上には立てないし、逆に言えば使い捨てに消費するにはうってつけの人間となるだろう」

「伍長や兵長に多いタイプですね」

「そうかもしれないな」

少し笑って、中将は頷く。

「彼らは一定以上は決して上には上れない。そのくせ弱いものいじめが好きで自分は偉いと思い込んでいる。困ったことだ」

「あなたはいいですよ、僕はあなたの傍仕えになるまでは、ずっとそんな人たちに虐められてたんですから」

口をとがらせてみせると、中将はまるで息子にするように、ウェインの頭に手を置いてぽんぽんと軽く撫でた。


「奴らに何を言われても気にするな。きみを私の傍仕えにしたのは、きみが優秀だったからだということを忘れてはいけない」

「忘れません、サー」

姿勢を改め、はじめてこの部屋に着た時のように礼儀正しく敬礼を捧げる。

「自分は誇りに思います。たとえこの先、なにがあろうとも自分は、あなたの傍仕えであった事を人生最大の輝かしい時期として生涯忘れません」

「改めて今更聞くと、似合わない喋り方だ」

言われてウェインも思わず笑った。

「結局、中将は最後は誤魔化すんですね」と皮肉を言おうかと思ったが、やめておいた。

自分が笑っているときに、彼も一緒に笑ってくれていることが嬉しかった。

独りよがりの感情を、持て余す事無く受け止める。

そうやって、日常を埋めてゆくことに対して、彼は不満をもたなかった。









冬のさなかの建物、独特のなまぬるい風が入り口に佇む彼女の髪をはねあげた。

一目で軍人と分かる制服を着た彼女にも、入り口で身分証の提示を求められた。

意味がわからないようにジゼルは眉を顰める。

身分証明書を携帯していても、それが、自分という身分を社会的に証明するものだ、ということが理解できないのだ。

「申し訳ありませんが、ご提示を頂けないのなら通すことはできません」


機械的に告げる警備員に、何故自分の邪魔をするのかと苛立ちを憶えたのだろう。

警棒を手に、立ちはだかるように入り口を塞ぐ二人の男を交互に見て、それまで大人しく立ち尽くしていたのが嘘のように、彼女は突如、警備員を突き倒した。

突然の暴挙に対応し切れず、彼は後ろ向きに倒れ込む。

「捕まえろ!」

誰かの声。無事だったほうの警備員が彼女に向けて警棒を振りかぶる。

しかしそれより早く、彼女の裏拳が男の顔を殴り倒す、……はずだった。




「すまない、迷惑をかけた」

振りかざされた警棒と、彼女の左手を掴み上げ、溜息混じりにミシェルは言った。

敷地に差し掛かってすぐ、ジゼルの後姿が見えたので、絶対に揉め事を起こすに違いないと思い駆け寄ったのだが、結果的にそれがよかった。

こんな予感は当たりたくないのだが、と苦笑して警備員の手を離す。

「私の部下だ。躾が行き届いていなくて申し訳ない」

言って、ミシェルは自分の身分証を提示する。

それから、闇雲に手を振り払おうともがいていたジゼルを乱暴に引き寄せると、無造作にポケットに突っ込まれていた身分証を取り出した。

「……お通り下さい」

やや憮然とした表情で警備員は言う。

涼しい顔をして院内に入ると、そこで突き放すようにジゼルの腕を放した。


「ミシェル貴様……何度も言ったはずだ、私に触るな!」

予想通り食って掛かるジゼルを無視し、ミシェルはエレベーターへと向かう。

ロビーには数人の看護士と、車椅子に乗った入院患者がいるだけで、普段と比べてかなり閑散としていた。

それら好奇の視線を振り払うように、ミシェルは早足に歩く。

「聞いてんのか!」

苛立ちを隠そうともせず、後を追ってくる若い部下には目もくれずミシェルは開いたドアの中へと乗り込む。

当然のようにジゼルもそれを追った。

扉が閉まり、箱の中は二人だけになる。

それを見計らっていたように、ミシェルは前をむいたまま静かに言った。

「憎しみを暴走させるのはやめろ。怒鳴らなくとも聞こえている」




怒り、ではない、恐らくは。

口は悪いのは普段のことで、怒っているわけではないと皆が知っているから、誰もが受け流しているのだ。

しかし、触れられることへの激しい拒絶。

恐れと混同されるようなそれではない。

ただ果てのない、純粋な嫌悪。そして憎しみ。

原因がどこかにあっても決してそれは根拠ではないから、表面に現れた手段でしかものを語ることはできないけれど、肌に触れたときに彼女が表すそれはまぎれもなく、怒りではなく憎しみであるとミシェルは思う。

案の定、ジゼルは言い返してはこなかった。


「……イラつくんだ。オマエは」

視線を逸らし、前を向く。階数表示が4になったところで上昇は止まった。

「八つ当たりか」

チンと音がしてドアが開いた。

コートの裾を翻し、先に下りて長い廊下を歩くミシェルを、少しの間ジゼルは見つめていたが、毒々しい感情をこめた視線をやがて伏せると何事も無かったようにその後を追った。




彼の、無関心の中に混じる過剰なまでの鋭さと嘲りを、心のどこかで許容していた。

時折混じる優しさに似たものを愛情に履き違えるほど子供ではないが、許容するという名目において、ある意味それを、欲していた。



中将=当時ヴァレリー(ジゼルの母親)を追っていた部隊の隊長。

そして、ジゼルにとっては崇拝に近いほど、信じられる相手、父親のいないジゼルにとっては「理想の」父親そのもの。

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