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仲直り


ねえ、教えて。

たとえばさ、ありきたりだけどここで僕が死んだらさ。


僕の想いとか、そういうモノって、どこへ行くわけ?

死んだ後に残った身体をさ、彼女が抱き締めてくれてもさ、僕はもう彼女を護れないんだろ?


だったらさ。

ねえ、身体が焼け付くほど、彼女を想う気持ちはどこへ消えるの?



僕は何処へ行くんだろう。








        <<33>>






冷たい雪交じりの風が、横顔を叩きつけて行った。

右から左から嬲るそれに大きく髪をなびかせながら、ただ白一色の世界に一点だけの赤が、…滴り落ちて、ゆく。


無駄遣いされてゆく命のはしくれだ。


「"オリジナル"……、……"オリジナル"か!」

掠れた声で、男が呟いた。

その声を聞いて微笑んだ女の微笑を、ただ純粋に「怖い」とディックは思った。


「それは、わたしの名?」

女は問う。

そして一歩、こちらにむけて踏み出した。

そのぶん4人が後ずさるよりも早く、そのはずみで女の変貌した片腕が、ずるりと崩れて雪の上に落ちた。

「……」

女は自身の腕を見下ろす。

肘の辺りから、まるで脆いクッキーを砕いたときのように、ボロリと腕自体がなくなっている。

ひっ、とディックが喉の奥に悲鳴を飲み込んだ。

「ほら、わたしは獣にはなれない」

やっぱりね、とでも言うように、ひどく当たり前の結末を迎えたときのような表情をして、女は言う。

たった今、彼らの仲間を殺したばかりなのに、まるで自分も彼らの仲間であるかのように、世間話をするような顔をして。

「わたしは獣ではないよ。人でもないけれど。……あるいはその、どちらでもあるのかもしれないね」


なにかに属せないということは、すこし寂しいことだね。


女は独白する。

片方の、千切れた腕を全く気にすることもなく。

動けない4人にむけられた言葉なのか、ただの呟きなのかも分からない。

ただ4人にわかるのは、この生き物は『危険』だということだけ。

これまで見てきたどんな生き物よりも。


「けれど、それならわたしが属性になればいいのかもしれない。今ではすこし、あの男たちのこころがわたしにも理解できるような気がするよ。 自分の遺伝子を残し、仲間を増やそうとするさまは、自身を属性の一部に取り込ませておきたい本能のようなものかもしれないね」

―――――まるで寂しさからの逃避だ。

呟いて、それから、やおら女はこちらに顔をむける。

黒髪が風をはらんで舞う。

「おまえたちは、いろいろなことを知っていそうだね。ここに来るまでに会った者たちより、多くを得られそうだ。 もしかしたらおまえたちの誰かが、わたしに名をくれるかもしれない」

女の目がほんの一瞬、光をうけてきらめいた。

そう、見えた。


刹那、弾かれたようにルナマリアが動いた。





銃を撃った、ように見えた。

けれどそれは普通の銃ではなく、撃ちこまれた弾は、凶暴な野生動物から血液を採取するときに使われる特殊性の金属棒だった。

「ルナマリア!あんた……」

「走りなさい!」

ロニーがなにか言いかけると同時に、ルナマリアは叫ぶ。

ロニーには、彼女が何をする気なのかがその一瞬でわかってしまった。

この、獣に似た危険な生き物を。

「連れて帰るつもりなのか!」

ばかなことを。


ルナマリアが、今度は本物の銃を手に、女に迫る。

女が手を振り上げる。

躊躇わず、ルナマリアは発砲した。

女は避けない。撃たれることが致命傷にはならないともう知っているからだ。

けれど撃たれれば衝撃で動きは数秒止まる。

その間に、女の横を走り抜けたルナマリアの手は、女の腹部に突き刺さっていた金属棒、採取した血液の入ったサンプルを抜き取っていた。

「ロニー!行きなさい!」

それを投げる。

放物線を描いたそれを、ロニーがキャッチしたかどうかまで視線で追う余裕は無かった。


女は取り合わない。抜き取られた血液など僅かなもので、すぐに増血すると本能で知っているからというよりは、自身の血がもつ力が彼らにとってどんな役割を果たすのかに興味が無いからだった。

"自分"が彼らにとってどんな価値かはどうでもいい。

"彼ら"が自分にとってどれ程の価値があるか、それだけが彼女を動かす力となる。

「おまえはわたしになにをくれるの?」

まるで、プレゼントを貰うときの子供のような顔をして。

仲の良い友達に、そう尋ねるような声をして。

女の腕がルナマリアにむけて振り上げられる。

「……っ!」

咄嗟に、ルナマリアは身を庇うように腕を上げる。

心が一瞬でも恐怖を憶えたときに誰もが取る仕草、銃を撃つよりももっと確かななにか、人間としての、動物としての最も本能的な行動に従ったのだ。……反射的に。

「ルナ!」

ディックの声が鋭く響く。

それはどこか、ここでない遠い場所で叫ばれた声のように不鮮明に木霊して聞こえたが、その瞬間、彼女は銃を撃つことを思い出した。

振り上げられた女の手に、片手で頭上を庇ったまま、一方の手で銃を構える。

女の手がルナマリアの腕に振り下ろされるのと、発砲とは、ほとんど同時だった。



至近距離から弾を受けて大きく女の身体がかしぐ。

発砲の反動で、ルナマリアが雪の上に倒れこむ。銃を取り落とし、片腕を庇うように抱きしめて。

「ルナマリア!」

駆け寄ったディックが銃を拾い、女に向ける。

手が震えているのは寒さのせいなどではない事は明白だった。

「ルナ!ルナ!」

女から目を、照準を離さないまま、片手でディックはルナマリアを揺さぶる。

悲鳴こそ上げなかったものの、身を起こした彼女の半身がほとんど血に染まっているのを見て、彼の顔から血の気が引いた。

ザっ……と脳裏で砂を散らすように、目の前がくらむ。女の姿だけが鮮烈に、鮮明に……焼き付く。

白世界に響き渡る、ひどいノイズが耳鳴りのせいだと気づかなかった。

崇拝し敬愛する相手を傷つけたものへの、恐怖心を超えた憎悪と怒り。

ディックは両手で銃を構える。

「よくも……!」

引き金に指をかける。


けれどその瞬間、女の額を撃ち抜いたのは彼の銃ではなかった。






*     *     *     *     *







「……!」

なにが起こったのかわからず、ディックは呆然と、目の前で後ろ向きに倒れる女をみつめていた。

何かを求めるように伸ばされた白い腕は虚しく宙を切って、ゆっくりと倒れてゆく。

深雪を跳ね散らして、どさり、と完全に女が倒れてから、……彼は震えながら、首だけまわして後ろを見る。

吹雪に近くなった景色の中で、誰がいるのかを認識できなかった。

誰――――、そう、声に乗せようとしたとき。

小さな呻き声が零れ、彼ははっとしてルナマリアを見下ろした。


「ルナマリア!怪我を……!」

ひどい傷だ、というのは傷口を見なくても分かった。

あのとき咄嗟に顔を庇った腕は不自然な方向に折れ曲がり白い雪を赤く染めてゆく血の量も酷かったから。

「どうしよう……、どうすれば……!」

ロニーが戻ってきてくれることを願ったが、それは無いことも彼にはわかっていた。

あのときルナマリアが女から採取した血液は、自分にはわからないがとても重要なものだったのだろう。

そうでなければロニーが彼女を置いて逃げるはずがないし、置いて逃げた、ということは目的を貫徹しなければ戻ってこないということ。

そこまでの事でなければ、今ここにロニーが居ないはずがない。

ディックは唇を噛む。

どうすれば護れる。

どうすればいい。……自分に、なにができる。


「これで縛れ」

突然、頭上から声が振った。

ぎょっとして見上げると、黒皮のブーツに黒いロングコートを身につけた、若い女が立っていた。

見下ろしてきた、目と目が合う。

黒髪に白い雪の雫が絡み着き、肩にも僅かに雪が積もっている。

よく見れば、黒いロングコートは何度か写真で見たことがある、陸軍の制服だということに気がついた。

「あ……あんた……」

「腕の付け根を縛るんだ。きつく。骨は複雑に折れてるから添え木も無駄だ。レスキューを待て」

女の差し出したベルトを、呆然としたままディックは受け取る。

女は左手に銃を持っていて、ようやく、さっきあの不気味な女を撃ち殺したのはこの陸軍の制服を着た女なのだ、と理解した。

そしてこの際、軍は敵だとか言っていられないことにも。


ディックがルナマリアの応急処置(とも呼べない気休めのものだが)をしている間、陸軍の制服を着た女――ジゼルは、自分の撃ち殺した女のもとへと歩み寄る。

吹雪はますます強く、視界はどんどん悪くなってゆく。

だから、彼女の呟きもディックの耳には届かなかった。

「また、逃げやがった。…どうすれば死ぬ?テメエは一体、何なんだ?……私は一体、何なんだよ」

見下ろした足元には、撃ち殺したはずの死体は無かった。


けれど次の瞬間、ジゼルは俊敏な動きで身体ごと振り返る。

その手にした銃が弾き飛ばされる。

「逃げてはいないよ」

驚くほどすぐ近くに佇んだ女の額に、塞がりかけた弾痕が生々しく血のあとを残していた。


「ジゼル」

彼女は愛しげにジゼルの頬を撫でる。

「触るな」

パン、と鋭い音をたててその手は弾かれる。

女は残念そうな表情を作って見せた。

「冷たくなったね。おまえには、足りない部分が増えたようにみえる」

それとも、今日はずいぶんと頭の回転がいいのかもしれない。あまり、今日のおまえはすきじゃない。

呟いて、女はもう一度ジゼルに手を伸ばす。

同じように振り解かれて、今度は女は微笑してみせた。


「ほら、おまえは同じことしかしない。計ったように正確なのに、なぜおまえの中には計算式が無いのかな。 例外も無い。何にでも例外なく当てはまるはずのカオス的理論展開が、おまえにだけはあてはまらない」

「知らねえよ、そんなこと」

「ほら、拒絶する」

小さい子供が、同じように小さなこどもをからかっているようだ。

いじめっこが意地悪を言うように。

そんな場合ではないというのに、その二人を見上げ、なぜかひどく似ているとディックは思った。

額の真ん中を撃たれたはずの女が立ち上がり動いていることよりも、この二人の奇妙な類似のほうがよほど不思議なことに思えた。

寒さのせいで、もうまともな思考が残っていないだけかも、しれない。


「てめえはきっと、私が嫌いなんだ。それだけだ」

「そう。わたしはそうかもしれないね。けれど同時に違うと思うよ。わたしは混沌としていて、おまえはその外側に居る」

「てめえの背が高いから」

コトバを切り、喘ぐようにジゼルは、云う。

「てめえの背が、高いから、探しているものが見えなくなる。いま、追いかけてるんだ。てめえじゃない、もっと違う、もうひとつの……」


なにを言っているのか、そばで震えるディックには理解し難い言葉ばかりの羅列だった。

けれど、必死になにか届かない場所へ手を伸ばすように、彼女が相手の向こうにあるなにかを探している事だけはわかった。


片腕のない、女の指先がジゼルに触れる。

律儀にそれを振り払ったジゼルは、反対の手で、ポケットから抜き出した銃を構えた。

吐く息は白く、……かすかに震えている。

おなじだ、とジゼルの中のなにかが思考する。これは同じだ。……擬似的で代理的な父親である、ニコルソンと再会したときと同じだ。


わたしに殺せはしない。


その思考を読み取ったかのように、女は微笑した。……あやすように。

「殺して御覧。掴む罪も無ければ、その手を持て余すだけなんだろう?」

小さくジゼルは首を振る。小さく、とてもちいさく。

「おまえが自分で言った。わたしが邪魔で、リラ=イヴが見えないと」

ジゼルは顔をあげる。

同時に、左目から涙がすっと頬を辿った。

泣き顔ではなく。……いつもの、無表情の中に僅かなあどけなさを残した、まるでこどもが首をかしげるときのような表情のままで。


涙が、彼女の顎へと落ちてゆく。


「会わせはしないよ、おまえたちを」

「……何故」

「何故でも。会わせはしない。おまえはもっと、わたしに意識を砕かなければならない。……おまえに"意識"というものがあればの話だが」

「……そこを、どいて」

幼子のように、癇癪を自制しようとするこどものように、ジゼルはその手で女の肩を掴む。

「そこを、どいて」

「嫌だよ」

聞き分けの無い子供になってきたね。……ほら、戻ってきた。やはり私のすきなおまえだ。

独白なのか言い聞かせているのかわからない口調で、女の赤い唇がつぶやく。

「あの子を、さがすの」

「何故?」

「ころすの。わたしが、ころすの」

「駄目だよ。させない。それに今、おまえが殺すのは私でさえない」

延々と続くかと思った噛みあわない会話は、一方的に切り落とされた。

「……?」

すうっと自分から離れて背をむけた女を、まるで自分たちが今までなにをしていたのかすっかり忘れてしまったかのように不思議げな顔でジゼルはみつめる。

その視線の先で女が銃を拾い上げるのを。

その銃口を、標的に定めるのも。


引き金を、引くのも。



少女を庇って倒れる小さなこどもの身体が、降り積もった雪をどこまでも赤く染め変えてゆくのを、ただ、みつめていた。








         <<34>>





合衆国軍北側拠点のひとつ、山間に隠されるように建てられた雪色の軍事施設は、小さかったが並以上の通信設備を整えていた。

合流した空軍と指揮権などを廻る2、3のやり取りをして、部下に短い休憩を取らせたあと、隊員たちを空軍側の隊長に任せてミシェルは今、仮眠室のひとつに居る。

部隊から残っているのは自分ともう一人、この下の訓練所で黙々とサンドバッグを叩き続けているアイザックのみ。

万事は計画通りに進むはずだった。

半時ほど前に入ったクリスからの情報では、ここから北に更に数十マイル行った山間に、ジゼルは居る。

都市部を離れたらしいオリジナルも、十中八九、この山の周辺に居る。

そのための捜索に部下は出払い、じきに大統領の訃報につづきMLW拠点襲撃を了承する旨の連絡が入るはずだった。

万事は計画通りにいくはずだった。


「……確か、なのか」

彼にしては珍しく、僅かに声に動揺がみられた。

受話器を握り直し、ミシェルは採光以上のものを考えて設計された、大きな窓から外の山を見下ろす。

壁一面のほとんどが窓で占められていて、見下ろす先には、ふるった砂糖をそのまま固めたような真っ白な深雪が光を反射している。

眺めるぶんには文句の無い絶景。

よくぞこんなところに基地など建てたものだ、と思えるほどに入り組んだ山々の中、毎年一度は雪崩で下3階が埋まるという。

幸運にも今年はまだ雪崩の洗礼を受けていない頑丈な建物の6階で、少し時代を感じさせる古い電話が相手の声を運んでくる。

こんな遠くまで。

『確かだ。残念ながら』


少し固いクリストフの声は、それでも自分を和らげようと務めていることが窺い知れた。

彼でなければ神の名を呟いて窓ガラスに拳をぶつけるところを、冷めた気持ちでミシェルはやり過ごす。


大統領は無事だ。責任者には事の次第を説明していたが、部下のシークレットサービスの誰かが暴走したらしい。

告げられた言葉に、計画の綻びをみて表情を変えないのは指揮官としては必要な要素だった。

シークレット・サービスの構成がどうなっているのか彼はあまり詳しくなかったが、考えてみれば一人だけ計画を説明されて誰にも漏らすわけにもいかず(もちろん部下も例外ではない)、その上で計画に加担させられて失敗した責任者の末路を思うと哀れなものだ。その男は消されるだろう。無論、自分の関知するところではないが。


「意思疎通の不完全さか。伝達ミスだな」

『計画を変更せざるを得ない。拠点襲撃の計画は流れた。…また、あの非道なMLWを見逃さなければならないわけだがな……。』

僅かに落胆の色を滲ませたクリスの言葉に、ミシェルは小さく微笑した。

「いや。……計画は実行する」

『ミシェル、何を言ってる?お前の独断で決められる事じゃないぞ』

「おまえが私にそうさせたんだ」

『ミシェル』

溜息をついて、言葉を続けようとしたクリスは、思ったのとだいぶ違う、楽しげな声をきいて説教じみた言葉を続けるのをやめた。


「伝達ミスだ。私は聞かなかったことにする」


おまえも聞かなかった。どこでどう情報がすり代わったのかは知らない。

『……お前がそんなにむこうみずだとは思わなかった』

「若気の至りだ」

受話器の向こうの苦笑を感じて、電話を切った。

不思議と不安は無かった。……自らの行動に対する、自分への弁解も無かった。

意味すらも無く。

構わないさ、と彼は一人ごちる。

どうせ、とうに自分は綻びている。










汗を拭くのも忘れて、ただひたすらにサンドバッグを打ち続ける音が途切れることなく響く。

一定の間隔を崩さないそれは、荒い呼吸に伴を添えて、一種芸術的でさえあった。

肩にかけていたタオルが落ちて、それが邪魔で、足で蹴り除けたのはだいぶ前のこと。

流れた汗で、傷だらけのリノリウムの床がてらてらと光っていた。

「シャワーを浴びろ。5分で出かける」

唐突に声をかけられ、振り返る暇も無くばさりとタオルが投げつけられた。

僅かに空気を含んで広がったそれは、見事にアイザックの頭をすっぽり包み込む。

急に塞がれた視界が不愉快で、やや反抗的にタオルを跳ね除けると、自分はすっかり身支度を整えたミシェルが立っていた。


「いつまで子供じみたことをやっているんだ」


夜が明けて間もないことと、クロイツが到着して通常のカリキュラムがずれ込んだことも相俟って、訓練所には他の人間の気配は無い。

しんとした冷たい室内に、アイザックの呼吸の音がひどく大きく反響していた。

それがまるで彼の怒りを表現しているようで、ミシェルは僅かに目を細める。


―――――人の道に外れたことは、正義じゃない。よくない。


そう言ったから何だというのだろう。どうなるというのだろう。相手の何が変わると?

ミシェルは思う。無駄だ。

同じことを感じたのか、アイザックは彼と視線を合わせようとはしなかった。


「願いが通じたな」

根負けして、再び口をきいたのはミシェルのほうだった。

意味が分からずにアイザックは顔をあげる。……苦笑と安堵を織り交ぜたような、複雑な目をしたミシェルがいた。

「大統領の訃報は聞かずに済んだ」

「……失敗、か?」

そう望んだのは彼自身に他ならないのに、軍人としてここに立つ自身が失敗を悔やもうとしている。……ように、みえた。

「失敗だ」

「……そうか」

それきり、彼は口をきかず、タオルを拾い上げてシャワールームへと歩いてゆく。

ぺたぺたと裸足の足音が消えてから、ミシェルは自分の心が沈んでゆくのを感じた。

何故だか分からないままに、まだ惰性で揺れているサンドバッグに拳を叩きつけると、長時間酷使され続けた袋は容易く破れて穴から砂が零れ落ちた。

僅かな苛立ちとともに砂を踏み付けて、訓練所を出て行こうとした彼は、脱ぎ捨てたままになっているアイザックの靴を見付け、律儀に脱衣所に放り込んだ。

「ミシェル」

水音にかき消されてしまうような呼びかけは、空耳かと思ったが、反射的に彼は顔を上げて、すりガラスごしにアイザックの姿をみつめた。

そして、その指が湯気に濡れたガラスに文字を書くのを見て、ちいさく笑うと部屋を出た。

不思議と、苛立ちと沈んでいた気持ちは消えていた。

鏡文字になった下手なスペルは幼稚で、彼を笑わせるには充分だった。

――――Sorry,I just nervoused.


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