交錯-1
小説、というよりは、ゲームのムービー見ているみたいな感じにしたいんです。その点ではFFとか神。
聖十字司令部所属第1特殊作戦部隊隊長。
それが、ミシェルに与えられた肩書きと、実績のすべてだった。
特殊部隊に、聖十字直属部隊―――通称"クロイツ"が存在することを知るものは少ない。
知る者は皆、一様に軍幹部及び関係者であるか、隊員に命を絶たれる寸前のテロリストであるかのどちらかであった。
もともとが正規の部隊ではないから、軍内部には彼らのことをあまり快く思っていない者も多い。
ただ"獣"を狩る為だけに組織された部隊。
軍幹部の中には、彼らを掃除屋だとか屠殺人だとか、そんな、侮蔑を込めた呼び名で呼ぶ者もいた。
それでも、いま現在、獣を駆除するには彼らの力を借りざるを得ない現状が重々しく横たわっている。
獣は、負傷すればするだけ凶暴になる。
それは、どんな生き物に対しても当てはまる事だ。
ただ、他の動物と違い、驚異的な生命力と鋭い爪、殺傷力の高い牙を持つ獣の場合ではこちらの命に関わる。
獣を始末するには銃を使用し、眉間、或いはこめかみを射抜いて即死させなければならない。
優れたスナイパーとしての要素と、白兵戦に耐え得る運動能力を有するエリートが、大量に必要だった。
15年かけて、選りすぐりの人材を育ててきた軍が、これまでの治安維持部隊に代えて新しく組織した部隊、それが"クロイツ"のルーツだ。
そしてそれを快く思わない古株連中も多い、ということ。
言葉や態度では彼らを卑下し、立場としてだけへつらう軍の姿勢に、失笑を禁じえないが、ミシェルは特に今の地位に不満があるわけでも無かった。
治安を維持する為には、何をどう言い繕ったところで"クロイツ"の存在は欠かせないのだ。
"クロイツ"の犠牲が無ければ決して胡坐を欠くことのできない場所にいて、不平不満だけは一人前に言うお偉方の寝言など、もとより聞き入れるつもりは無かった。
ほぼ完全に陸軍自体から独立した立場にあるこの部隊を、支配する身分においては。
間違いなく、この国で我々が最も危険な立場を一身に引き受けている、その確信と強みが、あった。
イブの夜は、停滞した闇を明かすことなく過ぎていった。
墨汁を流し込んだかのような、空気の澱んだ夜。しかし人々の中から笑顔は絶えず、サンタクロースに扮した老人が明け方過ぎまでキャンディを配っていた。
それもやがては消え、なかば水に変わった茶色い雪のうえに捨てられたキャンディの包みが朝日を受けて鮮やかに光るころ、
ほぼ地球の反対側に位置する国へ出張していたクリストフからミシェルへ連絡が入った。
聖夜の召集から5時間余りしか過ぎていないというのに、再び鳴り響いたベルに遅刻した者が一人もいなかったのは褒めてもらいたいとアイザックは思う。
しかし上官であるミシェルは、繊細な見掛けとは裏腹に、そんな気配りを好まない類の人間であったから、彼は不満げに唇をとがらせただけで大人しく指令を受けていた。
採光に配慮しない訓練所にも、オレンジ色の朝日が満ちる。
それを不愉快に思ったのか、ミシェルの説明の最中に、整列する隊員に紛れてそっとジゼルが部屋を出てゆく。
「これより我々は、目標を正式に外資系テロリスト"MLW"に定め討伐を開始する。
未確認情報に拠ると、獣を創り出しているのは恐らくMLWの研究施設だろう。そこを押さえる。
マスコミ各社には一切ノーコメントで押し通す。決して彼らに討伐作戦を嗅ぎ付けられてはならない。
決行は今すぐ。アジトと思われる場所は郊外のK.B.ビル、その区画全体をすでに閉鎖した。
なお、資金源となっている外資系企業幹部の自宅は昨夜のうちに押さえてある。何か、質問のある者は?」
説明を聞きながら、よくこの短時間でそこまで動いたものだと、改めてこの人間味の無い上官の手腕に感心した。
その一方で、こんなことであっさりとカタがつくのか、と毒づく自分がいる。
そもそも人間の獣人化などということが、アイザックには信じがたい事だった。
これまで幾度となく目の前で見せられても、理性が理解を拒む事実。
何億年かけた進化を、フルスピードで逆回しにするようなその変貌に、初めて目の当たりにしたときには吐き気を堪えるので精一杯だった。
それを、もしも人為的に引き起こしているテロリストなど居るのだとすれば。
正義感や倫理観に基づいた判断をしなくとも、許せないと、思う。
しかしそれが、本当に。こそこそと地下を動き回る、テロリストなどに可能だというのだろうか。
彼の心中などお構いなしに、間もなく軍用ジープが訓練所の出入り口に横付けされた。
何食わぬ顔をして、ジゼルがそっと列に加わるのが、見えた。
「噂もあながち嘘ばかりではなかった、という事だ」
隠密作戦に使用されるジープは、殆ど一般車と見分けがつかないようにカムフラージュされている。
その分強度はやや劣るが、濡れた路面の上であることをにわかには信じがたいほど静かに進んでゆく。
9人が後続のジープに乗り、こちらの車内にはアイザックとミシェル、そしてジゼルと、新人兵士の運転手のみとなった。
「獣の事が?」
窓の外に目をやったまま、アイザックは聞き返す。ちいさくミシェルが頷くのを視界の隅に捉えながら。
「人間の脳は、不思議なものだ。……人間だけじゃない、全ての生き物の脳が、だな。太古からの進化を、全て記憶しているという」
「それと獣と、どういう関係が」
「分からないか?人間なら誰でも、記憶を辿る事ができるだろう。何かを思い出す、ということは、記憶を過去へさかのぼる事だ。
……もし仮に、それが精神だけでなく、肉体においても起こり得る事なら」
淡々と語るミシェルの横顔は、通り過ぎる夜明けの町並みに注がれているが、その実彼が何も見ていないのをアイザックは知っている。
まだ街が目覚めるには早い時間。サマータイムでは始業している学校、企業も、この時間では静寂に包まれたままだ。
この街に至る交通機関は全てストップしてある。
あともう一時間もすれば、麻痺した首都機能の責任の所在を全て、押し付けられた鉄道各社による記者会見が開かれる事だろう。
「ばかばかしい。有り得ねえよ、そんなこと。人間が退化した?何が原因でさ。だいいち、退化したならお猿さんになるだけだろ」
「ひとつ。おまえは目の前で見たことを"有り得ない"と否定する類の人間か?ふたつ。ならばそれを目撃したおまえの存在も有り得ないことになるな。
みっつ。だったらそこで座って生意気なセリフをこの私に投げかける不遜な生き物は誰だというのだ?よっつ。人間の進化は未だ持って完全に解明されたわけじゃない。
いつつ。何らかの薬物によって歪曲した退化を辿ったなら……」
「……もう、いい」
うんざりとした様子で言葉を遮り、おおげさにアイザックは溜息をついた。
確かに、自らの目で見た事実を否定することはできない。
現実を受け入れられない類の弱い人間にだけはなりたくないと、そう思う。
ならばひとまず、獣化は有り得る話だとしよう。
加えて、何らかの新薬を投与されたというのなら、あの凶暴化もなるほど、強く否定する要因の無い出来事にも、思える。
「ミシェル、あんた、たかがテロリストがそんな新薬、開発できると思ってんの?」
「継続的に資金援助を行っていた外資系企業があると言っただろう。有り得ない話じゃない」
「吐いたのか?」
身柄を押さえた企業のトップが、何らかの情報を。
そう、言葉にされるまでもない続きを推測して、ミシェルは小さく苦笑を浮かべる。
「今朝、死んだ」
「え?」
「今しがた、専用LINEで連絡が入った。……社長、副社長ならびに役員の数人が、殺された。陸軍の護衛もろともだ」
「それって……」
そうだな、と呟いてミシェルは再び窓の外を向く。
その横顔に一瞬過ぎった表情に、アイザックはぞっとした。
人の死を楽しんでいるようなものではない。
事態のややこしさに対する、挑戦的な笑みでもない。
ただ、そこに在ったのは、まったくの純粋な無関心。
恐らくこの男は、自身が表情を変えた事にすら気づいていないに違いない。
ただ、あまりの興味の無さに子供が欠伸をするような、そんな。
その一瞬だけで消えた、美しい横顔を彩った表情が脳裏にこびりついてアイザックは瞠目する。
「どうした?」
急に黙り込んだ部下に、ミシェルのほうから声をかける。
「あ、ああ……なんでもない……。それで、つまりは、その、テロリストは」
「唯一の資金源を断ってでも、守りたい秘密があるということだ」
それが、獣に繋がる事を願おう。
会話はそれきりで打ち切られた。
音ひとつ立てることなく停車したジープから、3人は同時に地面に降り立つ。
まだ僅かに雪の残った地面に翻った黒い軍服は、クリスマスの朝にはあまりにそぐわぬ光景だった。
「一日一日、過ぎてくの早ぇなと思ってさ。この仕事、始めてから」
共同施設にしては清潔感のある食堂で、返事が返らない事を前提としたうえでアイザックは話し始めた。
早朝からの討伐戦は、まったくもって実を結ばなかった。
隊員が踏み込んだとき、そこはもぬけの殻だった―――などというのなら、まだここまで後味は悪くはなかっただろうと、思う。
現実は、隊員が踏み込んだとき、そこは十数人の死体が転がっているばかりだった。
思わずこれには、隊員同士顔を見合わせて、気の重い溜息を零したものだ。
逃げられない、と思ったのだろう。恐らくは。
道路を封鎖され、ビルを取り囲まれた状態で、彼らに一体何ができただろう。
彼らに気づかれぬよう細心の注意を払って閉鎖は行われたが、恐らく、どこかに綻びがあったのだろう。または、偶然か、或いは恐ろしく勘が良すぎたか。
兎にも角にも、踏み込んだときはすでに全員が、自害して遂げた後だった。
それはつまり、命に代えても守るべき何かが、彼らにはあったのだ。
テロという戦いに身を投じる人間にとって、もっともポピュラーな対象は、自らの国だ。
しかし彼らは一目で、多国籍で成り立つ集団だということが見て取れた。
金髪。東洋系。黒人。自害して果てた十数人だけでも、数カ国から集まっているように、みえた。
ならば、何が。
何が彼らをそこまで、駆り立てたのだろうか。
「命を捨ててまで守りたいものって、おまえ、ある?」
俺はまだわからない。
呟いて、我ながら陳腐なことを言っている、そう思って苦笑した。
ジゼルは答えず、黙々と食事を口に運んでいる。
返事が返らないことにある種の安堵感に似たものを抱きながら、アイザックは目を閉じ首を横に振った。
「わからないんじゃない。要らないんだ、俺は」
呟いてから、ああそうだったのかと自嘲する。
それ以上もそれ以下も、もう要らなかった。
曖昧を、境界線に変える。
そのために、ジゼルは存在する。
……何かのために他人が存在するなどと、カケラでも思うことの傲慢に、男は気が付かなかった。
「オマエは何のために生きてんだ」
意外にも、スプーンを口に運ぶ動きの途中でジゼルのほうから言葉が聞けた。
陳腐な問いだと思った。恐らく、問いを口にした本人も。
「さあな。……おまえは?」
答えないのはずるいと思ったが、お互い様だとジゼルは認めてくれるだろう。
注意深くその表情を観察する。が、彼女は頬の筋肉ひとつ、食べるため以外に動かそうとはしなかった。
「殺すために」
「……誰を?」
それ以上の答えは返ってこなかった。
それでも辛抱強く数分、ひょっとしたら返してもらえるかもしれないその答えを待ち続け、やがて諦めて視線を外したころ、溜息に似た疲れた声で、彼女は呟いた。
「いつか自分が殺す存在に、まだ、廻り会ってねえんだ。だからそいつは生きているし、私もこうやって生きてる。……そいつが終わらせてくれるんだ。
だから早く、そいつに会いたい」
会わなくちゃならない。
意味を計りかねて、彼は途方に暮れたようにジゼルを見つめる。
無口なうえ、ようやく口を利いたと思ったらこれだ。理解に苦しむ。
しかし、そのほんの一瞬、ジゼルの浮かべた表情に何も言えなくなった。
得るものが何もなく、失ったものだけが数え切れないほど多かったとしても、こんな表情をする人間はいないだろう。
そう、ほんの一瞬にも満たない間ではあったが、ジゼルが浮かべたその表情は、それほどまでに、悲しげなものだったのだ。
12月26日 午後4時15分、状況は僅かながらに進展した。
資金援助をしていた会社は、社員の末端やその家族、アルバイトに至るまで念入りな取調べを受けていた。
時間を浪費するわけにはいかず、迅速に事を解明する必要があった為、警察やFBIの手まで借りたほどだ。
そして意外にも早くその日の夕方、一人の男の名が挙がった。
「パトリック=セルロウ……聞いた事ねえな」
「ぼやくな。貴様の声は耳に響く」
「ぼやいてねえよ。ミシェルのヤツが大物だとか抜かすから期待してたのによ」
「だから、ぼやくなと言ってんだ。黙ってろ」
年功序列というわけではないが、"クロイツ"の中で最も古株で、ミシェルに最も腕を信頼されているのがアイザックとジゼルだった。
僅か15人編成の部隊から、そう多く人を動かせないというのも理由のひとつだろうが、僅か二人で身柄を確保しろというのも酷な話だとアイザックは思う。
例の企業からデータベースに侵入し、全社員のデータと行動予定表を入手した。
テロリストにたどり着く細い糸、唯一身元の割れたパトリック、彼は顔写真に見る限り、どこにでもいる平凡な西洋人である。
中途半端に伸びた無精髭が少々うるさい印象を与えるものの、目鼻立ちのすっと通った、少し気弱そうな面立ちは、子供を2、3人抱えていても何の疑問もないほど、ごく普通の一般人にしか見えない。
「22でセラフに乗れるような男は信用すんな。3千万だぞ?出稼ぎの癖に、どっから金が出てると思ってんだ」
ハンドルを握る片手間に、煙草を灰皿に押し付けジゼルは呟く。紫煙が車内に充満した。
ぼやいてんのはどっちだよ、と思うが、思っただけで突っ込むのはやめておいた。
ジゼルが饒舌になるのはハンドルを握っている時だけで、そういう時の彼女は妙に喧嘩っ早いことも彼は、知っていた。
ただでさえ目立つ高級車。数台先のシルバーセラフがウィンカーを出し、右の路地に曲がる。
彼女もそれに倣い、尾行に気づかれないよう後を追った。
発砲は、突然。
路地に入った瞬間の、あまりに予測し得ない事だったので、一瞬、対応が遅れた。
フロントガラスを割るには至らず、ただ一面に細かい蜘蛛の巣を撒いたように白い無数のヒビが走る。
窓は割れなかった。運よく弾丸は運転席と助手席の間をきれいに貫通して抜けていったらしい。
しかし、視界は一瞬、遮られた。
すぐ横でアイザックが舌を打つのが分かった。
同時に彼は発砲する。
シルバーセラフに向けて、ではなく、この車のフロントガラスに向けて。
続けざまに2発、それで視界は再び戻った。崩れ落ちたフロントガラスの残りを銃の持ち手で払い落として、アイザックは優先的に運転席からの視界を確保する。
今それは非常に有り難かった。
恐らく、最初の発砲はこちらの命を狙ってのものではない。視界を遮り引き離す事が目的だったのだ。
タイヤを狙うことに比べれば余程、的も大きい。
「あいつ、あまり銃、うまくねえな」
たぶん。
呟いて、ぐっとアクセルを踏み込む。
急激な加速。隣でアイザックがシートに頭をぶつけて文句を言った。
そのままセラフに向けて意図的に衝突する。
がしゃんと派手な音がしてライトが割れた。わんわんと頭蓋の中で木霊するほどの煩い音だった。
「ムチウチ症んなる……」
そんな意味のぼやきが隣のシートから聞こえたが、ジゼルは無視した。そのまま2度、同じことを繰り返した。
路地を抜けた先の国道で、一気に相手が加速した。スピードにものを言わせて振り切る気なのだ。
「セラフは早ぇぞ」
「うるせえ。ぼやいてる暇があったら緊急配備でもやってろ!」
ぐっとハンドルを握る手に力が篭る。
それを見て、何故ミシェルが事あるごとに自分とジゼルを組ませようとするのか、アイザックにも少し分かったような気がした。
少し挑発してやれば、彼女は躍起になるたちなのだ。
表面的に動揺して頭に血が上らないぶん、仕事をやり遂げるというカタチで彼女は怒りを示す。
それが有能さに結びつくのか不器用さに結びつくのか、とりあえず、今考えるべきことではないだろう。
「緊急配備、白のセラフが国道32号線を北に逃走中。容疑者はパトリック=セルロウ。至急、この先の道路の封鎖とヘリを用意してくれ。繰り返す、ナンバーは……」
携帯を取り出し指示を出す。ぐんと加速した、フロントガラスの無い車内では、気をつけていないと舌を噛み千切りそうなほどだった。
横目でちらりと確認すると、成る程、現在のスピードは90キロに近かった。
一般走行車もまばらだが、カーチェイスをするには危険極まりない。
ジゼルの運転に不安は全く無いが、逃走するセラフが一般車両を巻き込む危険性は充分にあった。
しかしアイザックの不安とは裏腹に、セラフは器用に一般車両をかわして加速する。
銃の腕はそれほどでなくとも、いざという時逃げられる程度の運転技術は持っているわけだ。
となると、現場担当でなく、何らかの技術を持つ人間である可能性が高かった。これは、必ず生かしたまま確保しなければならない。
目を開けていられないほどのスピードの中で、アイザックは手の中の銃をきつく、握り締めた。
車体が急激に右に逸れる。
慣性の法則に逆らわず、ぐにゃりと揺れた自らの身体をアイザックは不気味に思った。
直後、これまでの走行ライン、たった今避けたばかりの一般車両が爆発、炎上した。
「銃を持ち替えやがったな」
スピードのせいで言葉は聞き取れなかったが、そんな意味のことをジゼルが呟いた。
だが狙いが甘い。彼女が笑ったように、思えた。
「寄越せ」
片手でハンドルを握り、片手でアイザックの手の中の銃を奪う。
このスピードで片手運転は遠慮願いたかったが、言ってもどうせ聞こえないので、彼は黙っていた。
ジゼルが片目を瞑り、片手で銃を真っ直ぐ前に構える。
フロントガラスと共にワイパーもどこかに落としてきたので、照準を合わせづらいのだろう。
引き金に指がかかる。
しかし次の瞬間、ジゼルは銃を放り出して車体を左に傾けた。
またがくんと身体が揺れ、ここ近年ご無沙汰だった吐き気に似たものを彼は感じた。
彼には見えなかったが、恐らく、パトリックがまた発砲したのだろうと思う。
バックミラーで確認したが、弾はどの車にも当たらなかったのだろう。ただ、通り過ぎた遠くに白い煙が立ち昇っているのが、みえた。
「俺が撃つ。おまえは運転に専念してろ、頼むから」
聞こえなかったのだろう。ジゼルの膝に落ちた銃を取り上げたとき、彼女が何か文句を言うのが聞こえた。
それを無視し、彼は両手で、銃を構える。
そして発砲した。
これだけの風の唸りの中でも、張り詰めたような銃声が響くのは、どこか滑稽に思えた。
次の瞬間、悲鳴のようなブレーキ音が響いた。
馬鹿野郎、と自分を罵る女の声。
そして次の瞬間、見事なまでの円を描いてセラフがスピンし、そのまま激しく道路脇のフェンスに、クラッシュした。
「馬鹿野郎!車を停めろ、今すぐに!」
言うが早いか、ジゼルが運転席のドアを開けて車外に身を躍らせた。
「ジゼル!?」
セラフがスピンした時点で、こちらの車もかなりスピードを落としていたが、まさか走行中の、それも自分が運転する車から飛び降りるとは。
慌てて車を道路脇に寄せ、エンジンを止める事さえ忘れて、炎上するセラフに駆け寄るジゼルの後を追った。
「止せ、ジゼル!もう無理だ!」
そのまま激しく燃え盛る炎の中に飛び込もうとする彼女に向かって、叫ぶ。
灼熱に喉がひくつき、一瞬だけ、声が遅れた。
いや、遅れたのは言葉だけではない。
あまりの熱さに、反射的に足が止まった。その時にはジゼルが彼の目の前で、炎上する車、右を下に横転したセラフの上、運転席のドアに飛びついていた。
「やめろ!」
何故、ほんの一瞬にしろ、自分は足など止めたのだろう。
彼女のことより、保身のことを思ったというのか。
いつ二次爆発が起きてもおかしくない状況。
それ以前に、すでに彼女の全身に炎が纏わり付いていた。
雪の降る国で良かったと、心底アイザックは思う。
この季節、どんな道路にでも設置されており稼動されている、雪解け用のスプリンクラー。
セラフが横転したのが、その真上だったことに、感謝すべきだと思った。
2発、管に向かって発砲するだけでよかった。
破裂した水道管が吹き上げ、雨のように水を撒き散らす。
無論、そんなことで消せる程度の炎ではなかったが、車体から引き剥がしたジゼルを水の本流に突き飛ばし、彼女が引き上げた火だるまの男にも同じことをするだけでよかった。
すぐに、先ほどの要請を受けてヘリが到着し、迅速な処置を施してジゼルとパトリックを担架に乗せた。
最重要容疑者を殺しかけたばかりか、同僚の命まで奪いかけた。
それは、事故だったと自らを慰める事が甚だ不可能なほど、自分の過失が明らかだったから。
怪我はありませんかとしつこく尋ねる隊員をどこか遠い事のように感じながら、アイザックは搬送される直前のジゼルの目を思い出していた。
責めるわけでもなく。
彼を見るわけでもなく。
ただ、例えて言うなら、約束をすっぽかされた女が呟く、"ああ、やってられないわ"そんな馬鹿馬鹿しさを噛み締めるような皮肉めいた目が、空を見上げていた。
ひょっとしたら意識はもう無かったのかもしれないと思う。
けれど、それでもあのジゼルの目は、彼の愚かさを浮き彫りにして突きつけていた。
……あのスピードで走る車のタイヤを撃てば、どうなるか、考えもしなかった浅はかさを。
ジゼルは死ぬかもしれない。自分のせいで。
そしてそれは、未だもって、夢でも見ているのかと思うほど、現実味を伴わなかった。
"クロイツ"になる前は、"零部隊"という呼称にしていたんですが、友人からあんまりぴんとこないと指摘を受けまして、もっと中二感漂うものにしてみた結果がこれです。薔薇十字とか騎士団とかもいいなぁと思ったんですが中世ではないので…諦め。