オリジナルⅢ
そこを通る者に、例外なく不気味と感じさせるほど静かな地下道だった。
夜明けはまだ遠く、灯りと呼べる灯りも無い。
時折、何処からか鼠の小さな鳴き声が反響するだけで、それも、驚くほど静かな水面に溶けて消える。
なにもない。
だが、「なにもない」と言うには圧倒的な存在感をもって、その闇に「何か」が居ることは肌で感じられる。
或いは闇そのものか。
だが、死んだように身じろぎひとつせず、完全に闇と一体になっていた「それ」は、不意にピクリと身じろぎをした。
何故それが今まで見えなかったのか、不思議に思うほど。
闇よりも暗く、どんな静寂をも凌駕する静けさをもって、「それ」はそこに居た。
獣のかたちをして。
百にも及ぶほどの獣は、ただ静かに伏せ、金の目で遥か地上を睨み上げた。
<<16>>
「例の花の分析結果が出たそうです」
淡い金髪を軍人風に纏めた、若い女性下士官の差し出した資料を受け取り、「すまないが珈琲を入れてくれ」とミシェルは彼女を遠ざける。
「花?」
まるで雑誌を覗き見る気軽さで、彼の肩に腕を回しアイザックは資料を覗き込む。
「パトリックの病室に置かれていた」
「ああ、あの……枝みたいなやつ」
「切り花と言え。"ユダ・トゥリー"、花言葉は……裏切り。」
陳腐な真似を、と鼻で笑う。
だが、シンプルであるから分かり易い。あの日MLWの誰かが侵入を果たし、寝返ったパトリックの病室にこの花を置いていったのだ。
「方法は不明だが、それだけ分かれば十分だ。花を置いたのはMLW。そして、なにか動くつもりでいる」
「或いはもうとっくに動いてるかだろ?」
「……それが、この国にとってプラスかマイナスかで、我々がどう動くかが変わる」
そういうものなのだ、と、これもまたシンプルで彼にとっては分かり易いものだった。
善か悪かは問題ではなく。
合法か非合法かすらも問題ではなく。
利益、不利益が国の進路を決める。至ってシンプルで、唯一の理論だ。
この理論を、なにもかもを正面から受け止めているアイザックにも理解せよと強いることは残酷にも思えたが、何より彼自身がそれをわきまえていることをミシェルは知っていた。
彼は、目に映るすべてを正面から受け止めているが、何もかもを真っ直ぐに受け入れているわけではないのだ。
そしてその傲慢ともいえる境界線をしっかりとわきまえているこの男は、恐らくそれをミシェルのようには自嘲しない。
彼は前だけを見て生きている。
自分には無いその強さは、羨ましくもあり、愚かしくもあった。
「ジゼルは?」
唐突に、アイザックが問う。
それに対する上手なあしらい方を予め考えてはいなかったミシェルは苦笑し、仕方なく、……そう、本当に仕方なく本当のことを告げる。
「"オリジナル"を、探しに」
それ以上の意味をもたない言葉だ。
そしてそれが誰の命じたものであるかなど、もはや何の意味も持たない。
独占したいなどと。
たとえ彼女でなくとも、部下の一端に至るまで、すべてを掌握したい、などと愚かしいことを、一体誰が望むだろう。
少し、疲れているだけで。
……少し、おかしいのだ。このところの、自分は。
「……クリスが、電話で」
「知っている」
「ジゼルと"オリジナル"の接触は避けたほうがいいって」
「聞こえなかったか。知っている、そう言った」
僅かに荒げた語気は、この上官にしてはらしくない事だった。
だがアイザックは何か言い返すでもなく、ただ口を噤んでミシェルを見下ろしていた。
―――――その目の真摯さに、見返すことを諦めてしまう。
しかしそれを許さなかったのはアイザックのほうで、ほんの僅かな一瞬の躊躇いを覆い隠して彼はミシェルの顎に手をかけ、自身のほうへと向けさせた。
「……上官に対する態度じゃない」
「なにを、今更」
彼は笑わなかった。
窓の外では雪が積もってゆく。
その静けさにふと刻の流れさえも忘れ、だがその一瞬の静寂を過ぎ再び時間が戻ってきたそのときに、今日が大晦日であることを彼は思い出す。
"HAPPY NEW YEAR"
まるで、呪まじないのように幾年繰り返されるその言葉。
"HAPPY"――――――――――幸せに、と、その錯覚に幾度酔いしれれば自分は本当に幸せになれるだろうか。
置き忘れてきたものを取り戻したいなどと思ってはいない。もう何も失くしたくないだけだ。
それを傲慢だと詰るのなら、もう何も与えなければいい。
「……ミシェル」
雪明りで浮いたこの部屋に響く彼の声が、自分の名を呼んでいることを、にわかには信じられなかった。
「俺がずっとアンタだけの部下でいてやる。ずっと側に居て、アンタが軍をやめるときには俺も一緒にやめてやる。なあ、それじゃダメか?たった一つじゃ、アンタはダメなのかな」
耳を塞いでしまいたかった。
彼はあまりにも真っ直ぐで、だからこそ決定的に遠い。
近づいてくれば来るほど、距離が広がることをこの男には理解できないのだろうか。
しかし、と思う。
不意に苦笑が零れた。遠ざかっているのは自分ひとりだけかもしれない。
意地を張っているのか。
それとも臆病なだけか。
「アイザック」
呼べば、すぐに帰ってくる応え。
「ん?」
そう。だから、背をむけてしまうのかもしれない。
手に入れてしまえば、失う痛みは容易くはなくなる。
「人は所詮は一人だ」
突き放す意図がたとえ無くとも、それに含まれる拒絶に気づかない彼ではない。
けれど彼は苦笑し、ミシェルからそっと手を離した。
「知ってるよ。んな事は」
「だったら、なぜ」
「けどな。分かってないのは、アンタのほうだぜ」
虚を付かれたようにミシェルは顔をあげた。
見下ろしてくる男の表情は予想に反して穏やかで、まるで自分が聞き分けの無い子供のように思え、ミシェルは溜息をついて目を伏せた。
彼は正しい。
分かっていないのは自分のほうだ。
上辺だけで一人きりだと言いながら、子供じみた独占欲で何もかもを欲しがっている。
例えば、クリスを。
例えば―――――ジゼルを。
そればかりか、目の前の男まで。
「馬鹿は、私か」
案外簡単なものかもしれなかった。
しかし、そうと分かってもこの一歩さえ踏み出せずにいる自分を、誰が救えるというのだろう。
<<17>>
行く先々で死体を目にした。
人であったり、"もと、人であったもの"であったり。
育ちが育ちである為、それらに対して特別何か感慨めいたものを抱くわけでもなく。
むしろ、死というものの存在はあまりに身近に在り過ぎて、今更何かを感じろというのも到底無理な話に思えた。
言い換えれば、ジゼルにとっては生きる事も、自分自身も、何もかもが遠く、彼女の中に"現実"など、自身を含めて存在しない。
存在しないと、思って、いたのだ。
「無理はしなくていい。まだきみ自身、怪我を負っていることを忘れてはいけない」
ニコルソン中将の言葉に、彼女は小さく頷く。
そして、注意を喚起したところで彼女にはあまり意味を成さないと中将も分かっていた。
「情報部からだが、北端の国のテロ組織が"オリジナル"の逃亡になにか関わっている。国際問題に発展しないよう、今朝から合議が開かれているが、きみはあまり気にしなくていい。自分自身の思うように、内なる声に正直にやってみなさい」
そう言って髪を撫でる、温和な表情の裏にあるものがたとえ偽りであったとしても、それでも構わないと思った。
言葉の意味を、理解し切ったわけではなかった。
しかし、理性や論理といった思考を超えたどこかで、この言葉を胸に留めておこうとジゼルは、思った。
一歩一歩、ひどく重たい。
負った火傷のせいだろう。痛み止めはどこかに落としてしまった。
夜明けに中将のオフィスを離れ、もうすぐ昼下がり、今年最後の日。新年を待ち詫びて浮かれる人々の波を抜け、飛び込んだ地下道の奥、中将の言った通り不法入国のテロリストを追って。
身も切る寒さの中、ざばざばと音を立てて地下水が流れてゆく。
それも横道に入ると静かになり、雫の落ちる音が響くのみとなった。
冷たく。痛いほどの寒さ。
だがそれで火傷で負った痛みが安らぐような気が起きないほど、澱んだ空気が不快だった。
たぶん、彼らが連れていった。"オリジナル"、私の――――母。
"オリジナル"居場所に直接繋がらなくとも、その逃亡に関与したであろう彼らの身柄を押さえる事は有意義だ。
先ほどから距離はつかず離れず、地下道に入ってからは姿を視認することはできない。
だが、気配は近くにある。
息遣いが反響する中、痛む体を引きずってジゼルは走る。
ふと、耳元で風が唸ったような気がした。
その感覚に逆らわず、ジゼルは身を捻る。勘だけで翻した身体を掠めて男の腕が空を切った。
その腕を取って、身を屈めるとそのまま体重をかけ、反動で相手を投げ倒す。いつの間にか身についた"ジュードー"の要領で。
拍子抜けするほどあっさりと地に伏した相手の胸を踏み付け、銃口を向けると、仰向けに踏み付けられたまま観念したように男は両手を小さく挙げてみせた。
手負いのようだった。
そうでなければ、こうもあっさりと取り押さえる事などできなかっただろう。一目で分かる屈強な体躯、彼に突きつけた銃は実は弾がカラだ。
胸を踏み付けられたままで、下からこちらを探るように見上げていた男は、溜息を吐くように絶望的な声で呟いた。
「……手遅れだ」
意味を計りかねてジゼルは小さく眉を顰める。
聞こえなかったか、手遅れだ、と男は繰り返し、目を閉じた。
「"オリジナル"は何処だ」
短く用件だけを突きつけると、男は目を開けてジゼルを見上げ、哀れむように口元を歪ませた。
「"オリジナル"?そう、呼んでるのか。あの女を。……俺たちが知るわけがない」
頭ごなしに嘘だと決め付けるには、男の声に含まれる鉛のような重さはあまりに大きかった。
だが、気を取り直し、ジゼルは強い口調で言う。
「お前達が女の逃亡に手を貸した。調べはついてんだ」
「違う。あの女を追ってるのが、自分達だけだとは思わない事だ」
俺たちも彼女を追っている。
そういう意味の言葉を寄越し、男は小さく呻き声を上げる。
見下ろせば、薄暗い闇の中でなかなか見分けがつかなかったが、腹を大きく薙いだ三本の深い爪痕があった。
踏み付けていた足を退け、ジゼルは数歩後ろに下がる。銃口を向けたまま。
「その傷は」
「見りゃ分かるだろう。獣、だ。……もっといい事を教えてやろうか?"オリジナル"だ」
「"オリジナル"は、獣化してんのか」
「猫だ」
「……猫?」
「爪が出るだろ。普段は隠してても。"オリジナル"と同じだ。普段は人と変わらない」
任意で爪や牙が伸びる。……のだと、思う。
それだけ言って、男は力を抜いて泥だらけの床に身を預ける。
よくぞここまで歩いてこれたもの、と思うほどに傷は深く、この傷でよくこちらとやり合う気になったものだ。
あれだけしつこく追い回していたのだから、観念したのかもしれない。
が、生憎とジゼル一人の力ではこの男を地上まで運ぶことはできそうになかった。
「応援を呼んでやる。逃げんじゃねえ。協力すれば、悪いようにはしねえ」
「逃げる体力なんかねえよ。……それに、逃げる気もない」
男を視界の隅に捉えたまま、携帯を取り出すと案の定圏外だった。
ひとつ小さく舌打ちをして、今度は小型の無線機を取り出す。
否、取り出そうと、した。
「逃げる気はねえ。……あんたを逃がす気も、な」
男が、笑みを浮かべる。
死を覚悟した者のそれは、酷く鮮やかで濃く、一瞬でジゼルは身を翻す。
敵に背を向けてでも、退避を選んだ。それは、長年培われてきた本能のようなもので。
だが、それも一瞬。
危険を察知して彼女が背を向けたのと、男がなにか祈りの言葉を叫んだのは、ほぼ同時だった。
――――――自爆。
狭い地下道。
前後方向にしか行き場の無い炎は一瞬で広がり、もともと湿気を含んだ空気であり燃えるものも皆無だった為、すぐに収まる。
粉塵が散り、燃えた木片が水路へと落ちてゆく。
一瞬の。
逃げ場すら無く。
男の身体はほとんど消し炭と化し、それがもと人間であった事がにわかには信じられない程に。
ほとんど肉体は、消失していた。
そして、もう一人の。
もう一人、この場に居たはずの。
ジゼルの姿もまた、この場から消失していた。