オリジナルⅡ
黄昏時は魔物が出る、と聞いた事があった。
誰もが一度は必ず読む類の御伽噺、あるいはコミックや映画、小説といったものに全くといっていいほど彼女は触れてはこなかった。
軍施設にそんなものは置いてなかったし、彼女自身、思春期を抜けるまで軍施設からほとんど出たことがなかったのだ。
だが、誰かが言った。黄昏時は魔物が出るのだ。
無論、それは架空のファンタジーで、そんなことが信じられていたのはもう何世紀も昔のことだ。
だが、ある意味、今、それは正しい。
黄昏の闇に乗じて獣が目覚める。目覚めと同時に殺戮を開始する。
人としての心を失い、獣は、何に飢えて血を狩るのだろう。
何を求め、花を毟るでもなく愛玩動物を殺すでもなく、何故人間だけを選んで殺すのだろう。
ここに向かう途中、偶然居合わせた獣化の現場、人を襲う寸前を撃ち殺してそのまま通り過ぎてきた。
悲鳴が耳を削るように空気を振るわせ続けていたが、取り合わなかった。きっと今頃、同僚の誰かか警察が現場に到着している頃だ。
私に関係ない。私に関係のあるものなど、この世界には何も無い。
私はひとりだ。何故か強く強くそう、思う。
それに対して淋しいとか孤独であるとか、仲間が欲しいとか触れて欲しいとか、何らかの欲求を感じたことはなかった。
私はひとりだ。それだけのことだ。
それであるのに、ミシェルに捕まれた手首はあの日負った火傷の痕などよりもひどく痛んだ。
私はその理由を知らない。
≪14≫
包帯を取り替える。
真新しいガーゼにくるまれた皮膚は、幾分、痛みをやわらげたように感じた。
何錠を何時間置きに、などという細かいことは気にしない。
多分2、3錠だろう、そんな大雑把な考えで痛み止めを口にする。
頭の芯が痺れるような感覚が心地よかった。
「申し訳ないですが、中将は今日はお戻りになりませんよ。ですがお戻りになられたとしても、貴女の来訪をお伝えすることはできません」
士官の制服を着た、若い男が扉の向こうから戻ってきてそう告げた。
北欧系の顔立ちをした、肌の白い、線の細い男だった。
彼女は不愉快な顔になる。そしてそれを見止めて彼は困ったように首をかしげた。
「あなたの事は伺ってます。それ以前に、有名ですからね。でも、特別扱いすることはできないんですよ」
「……昼間の電話では、会いたいときはすぐに来なさいとおっしゃった」
「ですから、事情が変わったんですよ。中将もお忙しい方ですから」
あなたがたとは違って。
言わなくてもいい一言を耳にして、ますます気を悪くしたのかジゼルは一歩、彼に詰め寄る。
それに慌てた風もなく、士官はお手上げのポーズで肩を竦めた。
「僕だって、あなたが何も気紛れで中将への面会を望んでいるわけではない、という事くらいわかってますよ。あのひとから色々聞いていますから、何がどうなっているかくらい、わかってます。だけど、それ以上に重要なことが、あのひとほどのお立場になると色々と、あるんですよ」
分かってくださいよ、ねえ?
媚を売るような視線に嫌悪すら感じ、一度強く彼をにらみつけるとジゼルはあっさりと踵を返した。
「あなたとは、仲良くなれそうにないですね」
縦社会の中で、彼はクロイツであるジゼルよりはかなり下に位置している。
それでもそんな対等な口がきけるのは、あの上官の傍で鍛えられてしまったからなのか、それともジゼルに上下関係など理解できていないことを知った上でなのか。
男は2、3歩追うように、ジゼルに向かって声を張り上げる。
「気を悪くしたなら申し訳ありません。伝言なら、伝えておきますよ」
「FUCK YOU ASS HOLE」
即答で返ってきた罵りの言葉に、彼は一瞬あっけに取られたように目を見開いて、それから、聞いていた通りだ、と呟いた。
「あなたなんかより、僕のほうがあのひとの傍にはふさわしい」
しかしその声は、すでに非常階段の向こうに消えたジゼルの背には届かなかった。
月の無い夜。外灯よりも明るいのは雪明りだ。
今日くらいゆっくり家に帰れと言ったのにミシェルは、頑として基地内に留まり続けた。
説得することが無駄だと悟り、口論の末頭を冷やして来い、と外に追い出されたアイザックは、当てもなく外を歩いている。頭を冷やすべきなのはどちらだ、と思いながら。
息が白い。空気はつめたい。暖かい室内が恋しくなった。
だが寮隣接の訓練施設に差し掛かったとき、見慣れた背中をみつけた。
細身であるのに、筋肉質な肩や背中の線。うすいセーターごしにも、鍛えていることがわかる。
訓練所を出てきた彼女は、まだ身体が火照っているのだろう、この雪にも関わらず腕にかけたコートを羽織る様子は無い。
だが急激な温度差は身体によくない。駆け寄ってやろうかと思ったが、いきなり近寄って警戒されるのも厭だったので、この距離からアイザックは叫ぶことにした。
「ジゼル!」
驚いたように、訓練所の前で彼女はこちらを振り返った。
息切れをしているのかどうなのかは分からないが、上がる息はとても白い。
彼女がこちらを向き直ったのを見届けてから、アイザックは小走りに彼女のもとまで急いだ。
スプリンクラーがブーツの足首を濡らしたが、気にしなかった。
「よ、偶然」
「……。」
答えはなかった。だが彼女は、そのままアイザックを見上げている。
話をする気がないわけでは、ないようだった。しかし、彼女のほうから何かを口にするということがない、それは確かだ。
故にアイザックはまず何から取っ掛かりをつくるべきか、考えなければならなかった。
「おまえ、さ」
「?」
「その……あんま、怒るなよ。ミシェルのこと」
「……。」
沈黙。だが一瞬だけぴくりと動いた柳眉が、アイザックの選んだ取っ掛かりがハズレではなかったことを物語っている。
(いや、それとも、とんでもなくハズしたかのどっちかだ)
内心で冷や汗をかき、まったくやりにくい上司と同僚だ、と彼は小さくためいきをついた。
「アイザック」
固い声で、彼女は言う。
なにを言われるかと、彼は注意深く彼女の目を観察した。
いくらみつめたところで、彼女の感情の動きとやらは常人とは遥か遠くかけ離れた場所にあって、共に過ごすようになってからはもう随分経つというのに未だその瞳の語るものを彼は読み取れないで居る。
「ミシェルは」
「ああ」
「……ミシェルは、私のことを嫌いになったのだろうか」
「……いや、」
正直、拍子抜けした。
それから感じたのは、安堵感。彼女にも人並の感受性、に似たものがあることが嬉しかった。
「いや、そういう事じゃねえと思うんだけど」
「私は、嫌われるような事をした覚えがない。でもアイツ、すごく怒ってやがった。私には分からない。私が、なにをしたのか教えて欲しい」
「……」
「アイザック」
「あのな、ジゼル。そういう事じゃなくてだな……」
読み取ることができないのだ。
人と人との間に流れるものを、ではなく、自身に向けられる殺意以外のモノを、彼女は見極めることができない。
そういう風に育てられているわけでもなく、そういう風にならざるを得なかった場所で育ったのだ。
軍とは本来、究極においてはそういう場所なのだから。
「ミシェルは……」
言いかけたときだった。
続く言葉を唇に乗せようとしたとき、突如、けたたましい緊急用サイレンが夜の空気を振るわせた。
舌を打ち、本棟に向けて走り始めたのは二人、同時だった。
緊急召集の前ではどんな会話も意味をもたない。最も優先すべきは任務であるからだ。
「ジゼル、覚えとけ、別にミシェルはおまえの事、嫌ってねえよ」
「……。」
隣を走る彼女に向けて言った言葉は、身を切る冷たい風にかき消えたが、たぶん、聞こえたと思う。
彼女は返事をしなかったし表情を見ることさえもできなかったが、伝えるだけ伝えることができた、それだけでよかった。
* * * * *
地下鉄。
大幅にダイヤを乱した交通機関、年末の忙しい時期に足止めを食らった多くの市民は諦め顔で、或いは悪態をつきながら手を上げてタクシーを拾う。
ホームに広がる血の痕はすでに乾きかけていた。
警察から引継ぎ、すでに軍関係者しかここには居ない。駅員も、話を聞く2、3人を残してほかは引き上げさせている。
座り、ホームの壁にもたれかかる様にして絶命している男。
目を見開いたまま、手にしていただろう銃は床に落ち、弾はゼロでスライドの辺りから大きくひしゃげていた。
そして、レールの上にはまだ若い女の死体。
こちらも目を見開き、数メートル先に銃が転がっていた。
被害者は二人とも、銃を持って命がけで抵抗したものだと思われる。が、一般人であるようには思えない。
二人の共通点、数カ国のパスポートと偽名の運転免許書が数枚、お互いの所持品の中から発見されたのだ。
身元を割り出す苦労を押し付けられるのは警察の人間だ。
厄介ごとだけ回される彼らの立場に同情しつつ、ミシェルの元にアイザックは駆け寄った。
「獣の仕業だろうな」
「間に合わなかったか」
「いや、警報は事件が起きてから鳴った。予測不能だったらしい」
現場、男の死体のすぐ横でアイザックとミシェルが会話を交わす。
線路の死体横では他の兵士が数人、警察から回されてきた鑑識となにかやり取りをしていた。
興味なさげにみつめていたジゼルだが(見ても自分に理解できないことを彼女は知っているのだろう)やがて、ミシェルが彼女を手招いた。
大人しく、彼女はそれに従いこちらへ歩を進める。
任務と私情は無縁の場所にあることを、彼女もまた、知っていた。
「病院から逃げた女だが」
前置き、というよりは呟きに近い。
ただでさえせわしない12月の午後、いちいち関わった人間の顔など覚えているわけではない。
僅か数日、しかし果てしなく遠い記憶の輪郭を手繰り寄せるように目を細め、ミシェルは言葉を続けた。
「知っての通り、銃を奪って逃走している。少し手間が掛かっているが、警察が調べた登録や知人の証言だと兵士から奪った銃はベレッタM92FS、装填されていた弾の種類も特定されている。 ……恐らくは、それだ」
言って、ミシェルは線路に転がる女の死体に目を向けた。
背を大きく引き裂かれているが、背中から胸に二発の銃弾が抜けている。
線路に落ちた弾はすぐさま鑑識が発見し、種類の特定を急いでいる。だが恐らくは、女が奪った銃のもの。
これは病院から逃げた女の仕業だと、彼は言う。
「半分獣化しているか、洗脳するか何かして獣を引き連れているか、どちらかだと思う」
「けど、半分獣化してるようなバケモノがうろついてたら、さすがに人目につくだろう」
「アイザック。……ここをどこだと思っている?合衆国都市の地下道や下水道など、たとえ恐竜が隠れていても見つからんと私は思うがな」
それに見ろ、と声には出さず彼はアイザックに向けてちいさく合図を送る。
いつの間にかジゼルが線路に降り、辺りに散った女の血を指先で拭って、自らの唇に寄せた。
「おい……」
「止めるな」
1、2歩ゆきかけたアイザックを制し、ミシェルは彼女をみつめる。
線路に膝をついたままジゼルは指先に付着した血液を舐め取り、呆然としたようにどこか遠くをみつめていた。
やがて、震えるように唇から吐息を吐き出す。
眉根を寄せて、途方に暮れたように彼女は虚空をみつめていた。
「ミシェル……」
ここから線路はすこし離れていて、それでなくとも彼女の声は消え入りそうに小さかったが、何故かその言葉は周りの音という音すべてを押しのけるようにすんなりと、強引に、鼓膜を振るわせるように其処に響いた。
ややあって、呆然としたように、力の抜け切ったまま彼女はこちらを見上げる。
自分の発した言葉や、自分の受け取ったものに、時間と身体がついていかないようだった。
縋るように彼女は、ミシェルを見上げる。
そして、今ここではないどこかで発した自分の声をただ受け取って発音しただけのような、魂の篭らない声音で、彼女は言った。
「わたしの、母……。」
<<15>>
「病院から逃げた女は"オリジナル"で、それがジゼルの母親に最も近い細胞を持つ者」
肯定の声はなかった。
ミシェルの私室、無機質さと温かさが不安定に混在する、まるで彼自身を如実に表すような部屋。
アイザックの呟きは拾われることなく、しかしアンバランスなこの部屋に似合って後味を残さず消えて行った。
その余韻が消える前に、彼は強くテーブルを叩く。
煩げにミシェルがそれを見下ろした。
「ワケわかんねーよ」
「怒鳴るな」
「怒鳴ってない。混乱してるんだ」
大きく溜息をついて、アイザックはテーブルから手を離して背をむける。
やってられない、というようにもう一度大きく溜息をついて、勢いよく振り向いた。
「病院から逃げた女は、ジゼルとは赤の他人だろ?そうだろ?それに、俺とロニーが助けた時、獣にすげえ怯えてたんだぜ。そんな女が、なんでジゼルの母親に……ああもうワケわかんねえ」
「インフルエンザだ」
「は?」
座れ、と手で促してミシェルは自分も腰を下ろす。
向き合うかたちで渋々腰を下ろしたアイザックに、よく理解できるようにと言葉を選びながら彼はテーブルに手をついた。
「同じ歳、同じ性別、健康な白人の子供が、同じ時刻同じ場所でインフルエンザウィルスに感染したとする」
「うん」
「片方は病院で薬を貰い、数日で治った。だがもう片方は同じ医者にかかったにも関わらず、入院を余儀なくされた」
「うん」
「ワケわかるか?」
「……あんたさあ、俺をバカだと思ってるだろ……。そりゃ、免疫力の違いとか体質とかで、そういう事だってあるだろ」
「それだ。……つまり、もともとの体質、免疫力、エトセトラエトセトラ。そんなもので、一見何ら変わりなく見える者同士が同じウィルスで、発症の程度が全く違うことがある。中には予防接種をしても感染する子供もいる。……いわば我々のいう"オリジナル"は、そんなものだ」
「……えっと」
しばらくアイザックは考え込むような仕草を見せていたが、やがて、まるで自分の中の仮説を教師に確認する生徒のように、ミシェルを見上げて口を開く。
「つまり……インフルエンザにかかりやすい体質だった?」
「まあ、"獣"のウィルスと相性抜群だったということだ」
「でも、人格まで変わるもんか?記憶は?俺が保護したとき、女は"獣"に怯えてるだけで、そんな……」
「"獣"のウィルスが脳に達した場合、どうなるかは未知の領域だ。海馬に侵入して記憶の改竄、新皮質を侵食し……」
「ちょっと待て、まるで意思があるみたいじゃねえか。ただのウィルスだろ?」
「ウィルス、という言い方は正しくない。……だが、それが何であるか合衆国側に知るものはいない。そこで、話はふりだしに戻るわけだが」
「……まずは女を捕まえないと何も分からないって事かよ……」
「それと、ジゼルをマークしておけ。"オリジナル"が接触してくる可能性がある」
「ああ、ジゼルの問題もあったっけ……。ていうかお前ら、早く仲直りすれ。間に挟まって俺が疲労するんですけど」
よりによって一番厄介な問題を思い出させたアイザックに、不愉快そうな視線を向けて、眉を寄せたままでミシェルは呟いた。
「……。……それは本件とは無関係だ」