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オリジナル


「夕べの電話だが」

「何の話だ?」


病院の裏口を出るとすぐ、前を向いたままミシェルが口を開いた。

咄嗟に話が結びつかず、早足で並んでからアイザックは聞き返す。

この男の話し始めが唐突なのはいつもの事だったから、慣れてはいたが相変わらず自分のペースでものを語る男だと苦笑した。

「ロニー・ジェファーソンを取り逃がした直後、私に掛かってきただろう」

「そうだっけ」

「……たまには記憶力を行使しろ」

貴様の愚鈍さにはうんざりだ、と。それにももう慣れてしまったくせに、口だけは相変わらず悪い。

腹を立てても仕方がないので、悪かったなとアイザックは呟いた。

満足したのかどうかは定かではないが、ミシェルは車のキーを片手で弄びながらまた、話し始める。


「陸軍中将ニコルソン殿の副官から直々に掛かってきた」

「副官?」

「あのままなら普通、女に監視をつけてロニーの行方を追うだろう。だが、一切手を出すなと圧力をかけられた」

「……なんで」

「おまえには話してないが、……色々とあってな」


ロックを解除し、当然のように運転席に乗り込むと思いきや、彼は自ら助手席のドアを開ける。

珍しいこともあるものだと内心首をかしげながら、思いがけない幸運に躊躇い無くアイザックは運転席へと乗り込んだ。

「まだ出すな」

エンジンをかけようとした手を制する。

目が合って、静かにミシェルのほうから逸らした。

「あんた、それ、機密?」

「……まあな」

「あんたがそんな、口の軽い上官だとは思ってなかった。……って、おい、冗談だよ。頼むからそんな、淋しそうな顔しないでくれ」

「してない」

「してた。……ああ、もう。それで?せっかく独立部隊のボスなのに、上から圧力かけられたのが気に入らなかったのか?」

「そんなんじゃない」


「……いつまで経ってもガキだなあ、あんた」

呟いて、狭い社内でアイザックはシートのうえに膝をついてミシェルに向き合う。

「聞いてやるから話してみれ」

しばらく、前を向いたまま黙っていたミシェルは、アイザックに、それから自分の手元に視線を落としてから、なにか憎まれ口をきかなければ済まないらしく、俯いたまま呟いた。

「人選を誤った気がする」

「うそつけ、好きなくせに」

睨みつけられて小さく肩を竦めると、そこでようやくミシェルは小さく笑った。

「おまえなんか嫌いだ」

「クリストフよりは、だろ。で?ニコルソン中将とケンカでもすんの?」

できねえよなあ、タテ社会だもん。

言ってから煙草に火を点けると、狭い社内に紫煙が充満してゆく。


「……あのときの敗走を、憶えているか?」


その言葉に、一瞬、沈黙が落ちる。

さざなみを立てていたゆるやかな湖面を、一瞬にして静寂に落とすような空気。

それまでの口調とは打って変わって、静かに、

「ああ。……覚えてる」

答えた。


「4年前。いや、5年前、だったかな。あんたはまだ隊長補佐で、……俺は部隊に入れたのが嬉しくて、浮かれてた」

「おまえは今でも浮かれているだろうが」

「俺だって日々大人になってんだよ、うるさいな。……あれは、誰のミスでもなかった。だろ?情報の行き違いだった、それだけだ」


思い出したくも無い。

獣を狩るための部隊が、逆に獣に狩られた。

誰もが、勝利を確信していた。いつものように。

眉間の真ん中に弾を撃ち込んで、それで終わり。

もともとは狙撃手から注意を逸らす為の仕事だった。ごくごく簡単な任務。

けれど、あの日は違った。

叫んだ誰かの悲鳴がそのまま獣の咆哮に変わってゆく。

目の前で、進化のフィルムを逆回ししているかのように、友だったもの、同僚だったものが異形へと成り代わってゆく、恐怖。

――――味方の数だけ、敵が増える。

が少数編成になったのは、その事件のすぐ後だった。


「ならば敗因を覚えているか?……俺達を含めて、生き残った、14人。うち3人が以後、いまだ精神科への入退院を繰り返している」

「……無理もねえよ。目の前で、同僚がどんどん獣化して」

「ああ」

アイザックは、ほんの少し沈黙して、幾分固い声で、言う。

禁忌を語る人間のそれとよく似た響きの声。

「忘れるわけねえよ。ちょっと前まで、一緒に隣を歩いてた仲間をこの手で殺したんだ。忘れるわけがねえ。……けど、あれはあんたのせいでも誰のせいでもなかった。情報がなかったんだ」

自身に言い聞かせるための言葉というには、あまりにも彼の発した声は痛切すぎた。

言うならばもっと別の、真実そのものを肯定しようと訴える、ここを見ていない、先を見ることでようやく立っているような類の人間の。

弱さではない。彼の場合は。

ただ、強さでもない、それだけだ。


「 "仲間の命乞いを、した事があるか?" 」

「え?」

ふと、脈絡無く呟かれた言葉に顔を上げた。

なにかを考えるような仕草で、ミシェルはそのまま呟く。

「MLWは、軍が記録から抹消したあの一度きりの敗走を知っているのかもしれない。強烈な言葉だと思わないか?……獣に成り果てたとはいえ、仲間を殺した私たちへの嫌味にしては」

笑っているようにも思えた。

僅かな自嘲と僅かな揶揄。

向けられた目の意地の悪さに、アイザックは眉を顰める。

この男がこういう顔をする時は、少なからず自責の念があることをもう知っていた。

「誰に言われたんだよ。そんな事」

「誰か、だ。MLWのな。……しかし、あのときを思い出してみろ。仲間が次々と獣化するなんて事態は、あの時一回きりだ。お前はどう思う」

「どうって……俺は、現場専門。考えるのはあんたの役目だろ」

「私はお前の意見が聞きたい。率直に言え、どう思う?あの時、隊長までもが人の心を失った。私は彼の命をこの手で奪い、お前たち傷を追った者を連れて逃げるのが精一杯だった。……だが、何故だ。何故あの時一回だけ、仲間に感染者が出た」

彼にしては珍しく食い下がる。

うーんと唸って、アイザックは無造作に自分の髪を掻き回ししばしの沈黙のあと、言った。

「分かんね。どっちかってぇと俺は、"何故みんな獣化したか"じゃなく、何故俺らが無事だったかのほうが気になるね」

自分のことだもん。当然じゃね?

「それこそあんたは、どう思うんだよ」

「私か?」

聞き返されることを最初から分かっていたかのように、ミシェルは小さく笑った。

「私は、何故あの敗走でクビが繋がったのか、そっちのほうが気になるな」

「……だって、あれはあんたの責任じゃ」

「本質はそうでも、表向き誰かに責任を押し付ける必要があったはずだ。隊長は死んでいるし、ならば次席にいる私に責が回ってきて当然だろう」

さも当然のように言って、彼はまた前を向く。

話したいことはこの先なんだが、と言ってようやく、あの電話なのだが、と話を繋げた。


「今更蒸し返すのに何の意味があるのか知らないが、夕べの電話で言われたんだ。あの時、上に口を利いてくれて私の懲戒を回避したのがニコルソン中将だと」

「へー。ジゼルの"愛しの"中将ねえ。で、理由は教えてもらえた?」

「いいや。しかし私は一昨日、そのニコルソン中将たちに呼び出されて圧力をかけられた。昨日の電話でもまあ、言われた事は同じだな。MLWに手を出すな。獣の排除だけをやってろ。被害者の女を刺激するな。ロニー・ジェファーソンは逃がしてやれ」


ひとつ、溜息をついて彼は助手席から身を乗り出すと、アイザックの膝を乗り越えるようにしてエンジンキーを回す。

そのエンジン音が響きだして初めて、どれだけここが静まり返っていたかに気づいた。

冷え切った冬の車内に、紫煙を押しのけるようにして吹き付ける温風。

それが逆に寒さを際立てた気がして、アイザックは小さく身震いした。

「なんっつうか、色々初耳でびっくり」

「だな。私もびっくりだ」

「あんたも?」

「クリストフが傍にいてくれたらいい、と思うが。いつまでも彼に、頼ってばかりじゃいられない」

「それで俺に頼ってるわけか。あんた、見かけによらず自立心ねえなあ」

「別に、おまえになんか髪の毛一筋ほども頼っているつもりはない。……いつでも、もっと他人を頼れ、とか言っていたのはおまえのくせに」





*     *     *     *     *






しばしの時間の後、ブォン、と音がして、車は静かに走り出す。

顔に出ないから分かりにくいだけで、疲れていたのかもしれない。

ミシェルは助手席に身を沈めて目を閉じている。

それに、自分の上着をかけてやって、ハンドルを右に切る。

考えるのが苦手なために聞いた瞬間から放棄したが、それのできないミシェルにかかる負荷は推して知れた。

結論を出すことができなくて、言葉だけ吐き出す。

それを拾い集める役目を買って出たものの、自分が彼の支えになれる見込みは少なそうに思える。

それでも。

「ま、着くまで寝てな。それにしてもあんた、ほんとに頼りにならない上官だな」

そういえば、年も3つしか離れていない。


車を出して、しばらく黙って彼は運転していたが、やがて気詰まりを感じたのか口を開く。

「なあ、寝ちまったのか?それとも、狸寝入り?」

答える声がないことを承知で問いかける。

信号を右に曲がり、もうすぐ軍の敷地がみえてくる。

狸寝入り、だなどと器用なことができる男ではない。

ハンドルを握る片手間に、右腕を伸ばして彼にかけた上着を引き上げてやる。

きっと夕べから、寝ていなかったのだろう。

「あんた、何を言われたよ」

お偉方に。まだ、俺にも話してねえことがどうせ他にもあるんだろう?

「あんた、向いてないなあ。この仕事」

かといって、他にできることがあるか、といわれたら、きっと何もないのを知っている。

ここ以外の場所がないことを、彼はきっと、受け入れていた。





       ≪11≫





思い出さないことにしている。


あの秋。

朽ちて枝から落ちた茶色い広葉樹の葉に、連日の雨がぐっしょりと染み込んでいる、地面。

一足歩くごとに落ち窪んで体重を呑み込んでゆくような、乾いた濡れた、大地のうえを。

泥を跳ね散らして走る。

背後を窺う余裕すらなく逃げる。

前をゆく背中は時折、こちらを振り返ってちゃんとついてきているかを確認する。

切羽詰った蒼い顔。

或いは、すっかり上がった息にあえぎながら彼のすぐ後ろをぴったりとついて走る自分が、いつまで人であり続けるか確認しているのかもしれなかった。

自分は大丈夫だ、と告げようとしたができなかった。

冷たい空気に、あえぐ喉が震える。

振り返るのが怖かった。

すこし前をゆく彼には恐らく見えているだろう。何度か振り返ったその視線の先で、あと何人の仲間がちゃんと、人として機能しているかを。


月も無い夜。


振り切れるかわからなかった。足はあちらのほうが格段に、速い。

すぐ背後に感じる殺気。恐怖心がかきたてる幻かもしれないが、それでも、振り返る勇気はもてなかった。

追われる立場は初めてのことで、ふと、もうここで歩みを止めてしまえばいっそ楽になれるかもしれないとすら、思う。

工場地帯を走り抜け、いくつめかの角を曲がる。

細い路地。

そのずっとずっと先、T字路の差し掛かりのところに、人影がみえた。

雨除けを伝った、滝のように落ちる雨を背にして、立つ。

獣かと思ったが、獣ではなかった。

胸に光る階級章だけが、きらめいてこの距離からでも見て取れた。

もつれる足に鞭を打って、まるでその人影をゴールに見立ててでもいるかのように、走る。

"彼女"が真っ直ぐに腕を伸ばして、銃を構えるのが、みえた。

足元で跳ね返る雫。

続けざまに3発の発砲。

頬と、肩と、腕を掠めていった3発の銃弾は、そのまま背後で弾けるように咆哮を生んだ。

獣の咆哮。断末魔の声。

すぐ前を走っていたミシェルが急に体ごと振り返り、銃を構えるのがわかった。

その横をすり抜けて、走る。

背後で発砲音。

目指す先でも、銃声。

二種類の銃声が路地に響き渡り、そのあとは、まるで嘘のような静寂が戻ってきた。


雨音がひっきりなしに叩きつける。

しかし、それは僅かにも鼓膜を振るわせることなく、あたりは正しく静寂に満ちていた。

重く、生々しい、音の無い空間。

ゴールを知り、膝から倒れ込んだ自分を支えるようにジゼルが、腕をまわした。

男一人の体重を支えきれず、彼女もそのまま膝をつく。

   「無事か」

囁かれた言葉は、ほんの少しの労いも含まず、ただ、機械的に耳に届く。

   「テメエらが最後の生還者だ」

そして意識はブラックアウトする。


……雨音が、戻ってきた。





       ≪12≫






ここで待ってるから、とあの男は言った。


通りのカドで、いつものようにふざけた態度でおおげさに手を振る。

その飄々とした態度に、振り返ったことを後悔した。

けれど同時に、それが彼なりの激励なのだということも、理解していた。

あの男はあの男なりに、色々考えて行動しているのかもしれない。だからこそ、何も考えていないように見えるのかもしれない。

そう思い、いや、あいつに限ってそれは無いな、とひとりごちて笑った。

振り返らなくても、彼がまだこちらを見守っていることを知っていた。



軽いノックの後。

「入りなさい」

扉の奥から、静かな声。

「失礼します」

入室し、決まりきった敬礼と応答。

軍施設内部にある、ニコルソンの私室――――では、なかった。

彼の、本当のプライベートの場所。彼の自宅にある書斎で、雇いのメイドが去るのを待ってから、ちらりとミシェルは室内を伺う。

国旗とトロフィ。写真。

事務所とあまり代わり映えのしない、内装。

彼にもプライベートというものが存在するのだろうかと思い、自分も人の事は言えない無趣味さ加減に内心で苦笑した。

高級そうな回転イスをまわして、重々しいデスクの向こうから中将がこちらを振り返る。


「いずれ来るだろうと思っていた。しかしそれは、きみではないと思っていた」


どういう意味ですか?

私では、いけませんか?

幾つかのパターンの回答が浮かび、結局、ミシェルはそのどれをも選択しなかった。

そうなることを分かっていたかのように、中将は言う。

むしろ、彼が何を聞き返そうとも中将には届かなかったかもしれないが。


「あれから4年と2ヶ月が経過した。……だが、きみたちの中の誰も。あの敗走を知るものは誰も、その過ぎた時間を、受け止めてはこなかった」

あの日から止まったまま、あるいは、進めないまま。

薄れることもなく、忘れられることもなく、ただ、過ぎることのない時間だけと上へ上へと積み重ねて、重みに耐えかねて軋む記憶。

「ジゼルだけは違う。彼女の中には最初から、あの敗走すらも痕を刻むことができなかった」

「だからここへ来るのは私ではなく、ジゼルだと?」

吸うかね?と中将は老舗メーカーの高級葉巻をミシェルに差し出す。

ちいさく首を横に振って断ると、それも見越していたように、中将はまたその箱を、丁寧に、仕舞った。

「それはまた、別の話だよ。ただ、きみではないと思っただけだ」


立ち上がって、ブランデーを注ぐ。

今度は彼には聞かず、最初から二人ぶんのグラスを置いて、相変わらずなにを考えているか分からない瞳は真っ直ぐにミシェルを射抜く。

「飲みたまえ」

命令であるのかもしれなかったし、断ることもできたかもしれなかった。

しかし、あるいは彼の存在そのものが。

それだけで全てに強制する権限を持っているかのように、ミシェルの目にはみえた。

「ジゼルは自分の中に、何ひとつ刻むことがない。彼女はまっさらなまま、何にもぶつからず、一人で静かに流れてゆく」

ぶつかることもないから削られることもなく、削ることもない。

ただ、見たものに強い印象だけを残し、自らはなにひとつ印されることなく消えてゆく。

そういう娘だ。


「あるいは最初から、飽和状態なのかもしれませんね」

何故、そんな言葉が口をついて出たのか分からなかった。

しかしミシェルにはその時確かに強く、自分のほうが彼女に近い生き物である確信があった。

わからない。わからなくとも、皮膚下で生まれ流れ込む本流。

流される、と、思った。

しかし彼はただそれまでと同じように、立ち尽くしているだけだった。

「何故、彼女が」

あのとき銃を手にしてあの場所に居たのか。

「ジゼルは隊員じゃなかった。隊員じゃない彼女が、何故、我々の前にあのとき、現れたのか、本当はずっと考えていました」

まるでここを通ることを知っていたかのように、待ち受けていた彼女。

「わたしが行かせたからだ」

そして、予期していた答えにミシェルはちいさく息を、吐いた。


「もっとも、私の名を出したわけじゃない。あの子はただ、上に言われてあの場所にいただけだ。あの子の弾には迷いがない。引き金を引くときは真っ直ぐに撃つ」

だから獣を殺すのにも、人を殺すのにも、真っ向から向き合って受け流してゆける。

「それだけが理由ではないはず」

「察しがいい。しかし、きみはそれを聞きにここに来たのかね?」

問われ、ミシェルは首を横に振った。

「私が聞きたいのは……」

「なぜ私が、きみのクビを繋げたのか、だろう」

意外なことだがね、と中将は目を細めて彼を見る。


だがきみはそんな事を気にする人間ではないと思っていた。


言って視線を彼から逸らす。

「残念に思う。あの子がここに来ないとは」

「彼女はそれをする人間じゃない。……あなたが、それをお分かりにならないのですか?"彼女の中には誰も何も刻めない"、 そうおっしゃったのは、中将ご自身です」

「……そうだったな」

それでも、私は彼女に期待したのかもしれない。とても個人的な、思いだが。

言って、彼はブランデーをほんの一口だけ、口につけた。

そうっと、注意深く、会話の核心だけを回避する。

そうやって表面だけをすくい取ることを望んでいたわけではないだろうに、それ以上踏み込むことを恐れる。

理由はないのかもしれなかった。

漠然とした恐れを感じられるほど、優しい人間でもなかった。

それなのに、何故だろう、そう呟いた声は拾われることなく床に落ちて、消えた。


「話を、逸らしてばかりですまなかった」

意外な言葉だった。

「話して、下さい」

何故あなたが私を選んだのかを。

コトリを音を立てて、中将は手にしたグラスをテーブルに置いた。

揺れる琥珀色の液体にきらめく光。

憂鬱な天気をつれて、部屋が少し、薄暗くなる。

「クロイツを編成させたのは私だ」

「あなたが?」

「獣を、完全にこの国から消し去る事ができれば。それは、全ての人間の望みだ。我々は獣を相手にするだけで手一杯で、ましてや人間同士の争いにまで仲裁の手が及ばない。国民の心を一つに集めるためにも、クロイツの存在、存続は必要不可欠なのだよ」

一昨日、この男と共に居た、別の男の言葉が過ぎった。

"一日も早い平和を。"

目の前で誰かが死ぬことに慣れ過ぎている。一般市民にばかり害が及ぶ分、よほど戦争のほうがましだと言う。

「部隊の存続のために、そこまで私が必要だとも思えませんが」

「きみは自分の力をよく分かっていない。……若い、とはそういう事かもしれないがな。きみの人間性に興味は無いが、軍人として有能であることは確かだ」

「……ありがとうございます」

なんと言っていいか分からず、社交辞令を返す。

こんなやり取りは茶番にも思えたが、中将は至って本気で話しているようだった。

「それに、あの子から居場所を奪いたくなかったからね」

「ジゼル?」

頷く代わりに、彼はほんの少しやわらかく微笑んだ。

「あの子が、なにを探しているか分かるかね」

そう問いかけられたとき、ふと、唐突にあの聖夜の牢獄で、年端も行かぬ子供に向かってなにかを聞きだそうとしていた彼女の姿が、みえた。

――――テメエに関係ねえ

あの一度きりではなかったのだとしたら。


やがては獣に成り果てる哀れな目撃者に、一体彼女は何を聞きだそうとしていたのだろう。


「母親のことだ」

「母親?」

意外な言葉だった。

あのジゼルにも母親がいたのか、などど、ごく当たり前の事を不思議に思う。

父も母も亡くした、それ以前に、顔さえ知らない、ぬくもりさえ。

その場所から彼は、ジゼルに自分と同じものを感じ取っていたのかも、しれなかった。


「"オリジナル"―――我々は、そう呼んでいる。獣討伐のためだけに編成されたクロイツの隊長なら、これくらいは知っていて貰わなければ。……ジゼルの実の母親について」

「"オリジナル"……」

口の中で反芻したその言葉は、汚濁した空気のように禍々しさを持っていた。

感覚により生々しく訪れた忌まわしさに、ミシェルは僅かに眉を顰める。


「ジゼルの母。彼女が、オリジナル―――最も最初の"獣"だ。……少なくとも合衆国はそう、認識している」





*     *     *     *     *






とにかく、凄みのある女だった。精神を病んでいると誰もが思っていたが、あれは、禍々しいほどに正気だった。





生ぬるい風が、分厚い雲を運んでくる。

くっきりとした顔立ちをした、仏欧系の、黒髪と白い肌のコントラストのきつい印象だけが先走る。

あの国の女の唇には、毒々しい紅よりも真珠のようなベージュが似合うと思っていた。

彼女だけは別だった。

昔、幾度か見てきたような、風に晒されたあとの血液のように赤い唇。彼女が好んだボルドーのワインによく合った。


――――ジャック。私はね、なにかを憎んでいるわけではないのよ


あのころの自分はまだ大佐だった。

若かったわけではなかったが、今よりはだいぶ、幼かったと思う。熟年と呼ばれるにはまだ少し、早かったころ。

女を撃つことに躊躇いがあったわけではない。

ただ、あの唇よりも彼女の血が、赤いとは思えなかった。見たくなかったのだ。


色のうすいパールベージュのロングドレスを身に纏い、手を引いていたちいさな少女をいとおしむように抱き上げ、そして、手のひらにおさまるほどの小さな銀色の銃を、少女の頭に、つきつけた。

「こんなことをしなくても、あなたは私を殺せないわね」

わかっているのだけれど、この子はどうしても必要なのよ。だからあなたにあげるわけにはいかないわ。

もう何度も見たような光景。

彼女は少女を抱いたまま、背後の窓から飛び降りた。

既視感。

艶やかな黒髪が風に舞い上がり、それから我に返って窓辺に駆け寄ったときには、もう、その姿はどこにもなかった。

そうやって、何度も何度も追い詰めては、何度も何度も手の中をすり抜けて逃げた女。

まるで、愉しんででもいるかのように。

自分に追われる為だけに、わざわざ逃げているとでもいうように。

一度や二度ではなかったのだ。

ジャック・ニコルソンが陸軍に入ってから、まるで伝統行事ででもあるかのように、繰り返し繰り返し彼女は追い詰められては、指の間からすり抜けていった。

だから、思うのだ。

追い詰められていたのは、彼女ではなく、自分のほうだったのかもしれないと。


あの姿を最後に見たのは10年前。

その更に6、7年前から、逃走の際にいつも連れていた少女は、事態をあまりよくわかっていなかったのだろうが、対峙するたびに少しずつ成長していた。

おぞましいほどに、あの女に似てゆく少女。

けれどその目はなにも映してはいない。

あの女の目が世界全てを余す事無くその目に刻み付けるのなら、対照的に、少女はその世界のすべてを拒絶し、自分はその全ての外側でいつも虚空をみつめていた。


――――ジャック。人を殺す理由は、なにも、憎いからだけじゃないでしょう?

潜伏先を襲撃する、そのほんの数分前まで、少女と花火をしていたのだろう。

色鮮やかな仏欧の玩具が床いちめんに散らばり、その中で、女は自らの腕を焼きながら艶やかに笑っていた。

蛋白質の焦げる、独特の匂いが部屋に広がる。

顔にかかった美しい黒髪の隙間から、女はまるで哀れんでいるかのように、笑う。

「知っていて?肌を焼くと、火が消えたあとでも目にみえない炎が皮膚の中を食い破るのよ」

もう見えないから、消すこともできないわね。

ひときわ大きく笑って、女は、少女から手を離した。

チャンスだ、と思った。

隊員のひとりが素早く少女に飛びつき、その腕に彼女を抱いたまま床を転がって女から遠ざかる。

笑いながら、女は、振り返ってそれをみた。

止めようとはしなかった。ただ、哀れむような目で少女を―――自分の娘をみつめて、それから。

「可哀想に。……さあ。愛してあげるわ。おろかで、哀れなジャック――――」

そう言って笑った女の顔は、それまで幾度となく見た彼女の禍々しい笑みの中で、最も美しい笑顔だった。




「隊員は皆、我が目を疑ったな。私もその中の一人だ。……何しろ目の前で、女が、異形へと変わっていったのだから」

そのあとは地獄だったよ。

正気を失った隊員が銃を乱射し、パニックに陥った他の隊員も恐怖にかられて同士討ちだ。


いつの間にか、ブラインドの隙間から夕日が部屋に差し込んでいた。

すまないが明かりをつけてくれ、そう言ってニコルソンは先ほどの葉巻を取り出して、サバイバルナイフでその先を薄くカットする。

蛍光灯を点けると部屋はたちまち白く、血のような赤を浄化の光が殲滅したようなうつくしい妄想にかられる。

ジゼルがそうであるように、ミシェルもまた、この赤い夕日が昔から嫌いだった。

「それが最初の獣だ。情けないことに、我々はほとんど全滅に近くてな。私を含めてほんの数人しか生き残らなかった」

「その少女が、ジゼル」

「そうだ。だが、我々はそれを公表しなかった。こんな事件はそうそう起こるものでもないと上は判断したし、MLWとの兼ね合いもあった」

「けれど、以後、獣は多発した」

「だからこそきみたちが必要になった。そういうわけだよ」

戦いの長期化など、MLWも含めて、誰も望まなかったはずなのだが。

或いはあの女だけが、強く強くそう望んだ結果であるのかもしれない。


「……本当は、私のエゴであるのかもしれないな。親心とも呼べないエゴだがね。……あの子は、きみには心を開いているようにみえた。故に、私はきみをあの子から失わせたくはなかった。……それも理由のひとつだと、言えないこともない」

クロイツはジゼルにとって、初めてできた"居場所"だからね。それを取り上げるのは、忍びない。

言って、彼は手にしたままで火を点けることのなかった葉巻を、置いた。

あまりにも個人的な思いが、この、兵士にも上層部にも一目置かれ恐れられる中将の中に存在すること、それを知っても何の実感も無かった。

しかしある意味、この男らしいのかもしれないと思う。

親心とも呼べないエゴ、と彼が言うように、彼はジゼルに対しほとんどのものを与えても奪っても、こなかったのだ。

唯一これだけを、除いて。


「……負い目に思っているのか?」

敬語ではなかった。

ジゼルにとってニコルソンが何か、譲れないものであるように、彼にとってもジゼルは何か、痣のように痕を刻んだ唯一の存在なのかもしれない。

しかし彼は、いつもと変わらず表情の読めない顔で少し、笑ったようにみえた。

「まさか。私は、利用できるものは利用するだけだ」

あの子にとってクロイツが必要だったかもしれないが、クロイツにとって、ひいては国にとってもあの子が必要だった。

それだけだ。


「あの子には、病院から逃げた女を追ってもらう。……我々が、そしてあの子が待ち続けていた、"オリジナル"に最も近い細胞を持った人間かもしれないのだから」

「母親に、ですか」

「ある意味、そうだ。……獣が存在する限り、最も濃い血にすべては還る。獣化が感染することは知っているだろう?便宜上"ウィルス"と呼ぶが、体内に"ウィルス"を取り入れても発症しなかった者を、彼女は尋問していただろう?……命令するまでもなく、狙いは我々と同じだ。"オリジナル"に近い細胞を手に入れたがっている」

「最も近いのは、ジゼルでしょう?」

実の娘なのだから。

しかし中将は首を横に、振った。

「彼女は陰性だ。……恐らく、現在存在する人間の中で最も強い、陰性体だ。彼女はたとえ直に"ウィルス"を体内に注射しても、決して獣化はしない。科学的に説明はできないがね。だからこそ我々は彼女を手放すわけにはいかないし、全力で彼女を護ると同時に、彼女は獣への切り札でもある」

分かったかね。

それだけだ。


しばらくミシェルは、この表情の読めない初老の男を黙って見下ろしていたが、やがて、何かを言いかけそして、やめた。

もうこれ以上言うことが互いになにもないことはよく、分かっていた。





     ≪13≫





足音が遠ざかってすぐ、メイドと誰か若い男のモメるような声が聞こえた。

そしてすぐ、失礼しますとドアが開かれる。

アポイントの無い彼を止めようとしていたメイドは、はっとしたように主人である中将を振り返り、気まずそうに頭を下げた。

「……下がっていい」

逃げるようにメイドが去ったあと、入ってきた男、ウェインは少しの躊躇いの後、かたちばかりの敬礼をする。

この男なりに色々と、葛藤があったのだろう。

こんな暴挙を演じる男ではなかった。


「どこから聞いていたのかね」

放ったままにしていた葉巻に火をつけ、さして驚いた風でもなく中将は言う。

「……割と最初っから、です」

「そうか」

帰りなさい、と、穏やかな声。

僅かな迷いを振り切るように、ウェインは、中将のデスクに両手をついて跪いた。

聞き分けの無い子を宥めるように、しかし、表情ひとつ変えずに中将は彼を、見下ろす。

「……ウェイン」

「何故、彼女なんですか」

デスクの上で握りしめた手、爪が白くなるほどきつく握りしめた指、吐き出すようにウェインは言う。

「こんな事は言うまいと思ってました。僕じゃダメだと分かってた。分かりたくなかったけど、僕はあなたの一番にはなれない。あの娘がいる限り、絶対に、なれないんだ」

「ウェイン」

「言わないで下さい!分かっているんです。だからどうか、僕に優しい嘘だけはもう吐かないで下さい。いいんです、分かっていますから、どうか今だけ……」


慰めることもなく、触れることもなく、あなたの声だけで僕は癒された。

あなたが僕に話しかけてくれるだけで、僕は生まれてきてよかったと思えるんです。


いっそうきつく手を握り締めて、デスクに縋るように、ウェインはなんとか立ち上がる。

すみません、そう呟いて、俯いたまま、髪に隠れて表情はみえなかった。

「こんな無様な真似だけはしたくなかったん、です。……だけど中将!何故、ジゼルを?……僕はあなたの一番には決してなれないのは分かっていました。それは、ジゼルがあなたの一番だからだ。そのジゼルを何故、みすみす捨て駒にするんですか!」


叫んだ自分が惨めに思えて、ウェインは唇を噛んで顔を背けた。

泣き顔を見られたくなかった。いつでも彼の前ではやわらかく微笑んでいたかった。

彼が自分にしてくれたように。

呆れられてもよかった。軽蔑されることさえ。

――――ただ、今までのように何事もなかったかのように僕を見過ごすことだけはやめてください。


僕はあなたの中に何かを残そうだなんて思ってはいない。ただ、あなたの中に残るものが、傷でなければいいとそう思う。


「ウェイン、顔を上げなさい」

降ってきたのはいつもの通り、おだやかな声。

思った通り、そして、絶望にも等しかった。

「嘆くことはない。捨て駒は捨て駒でも、超一級の捨て駒だ」

「中将!」

顔を上げて叫んだ。

その頬に、デスクの向こうから伸ばした中将の手が触れる。

一瞬、ウェインは瞠目して言葉を失くしたが、やがて、再び俯いて自分の頬にある手にそっと、触れた。

あたたかく、やわらかい手は大きく、だからこそ、その手を包めない自分を口惜しく思う。

「……彼女、死にますよ」

嗚咽の合間の呟きのように、俯いた顔にかかる髪の間からウェインは、言った。

あたたかな手はなにも変わらず頬を撫でて、訪れた沈黙の優しさに息が詰りそうになる。

触れた手に爪を立てたいような心境にかられて、ウェインは、いつまでも触れていたいと思ったその手をそっと、自分の頬から振り払った。

「中将……」

「分かってくれとは言わない。ウェイン。……認めよう、彼女は愛しい。娘のように愛している。だが、それとこれとは別だ。私は任務に私情は一切挟まない」

「中将!」

「話は終わりだ」

彼のほうから出て行かない事を分かっていたから、立ち上がり、中将は自らドアを開けた。

振り向こうとしない彼に歩み寄ろうと思ったが、やめた。

代わりに静かに、呼びかける。

「ウェイン」

促されて、彼は俯いたままゆっくり、振り返った。

その顔があまりに悲哀と絶望に満ちていたので、慈しむように中将は目を細めてみせた。


「そんな顔をするな。すべての人間の幸せを護るために、我々が動いていることを忘れるな。ファーストフードのアルバイトとは違う、誰にでも出来ることではない。誇りとにすべき素晴らしい任務だ」


開かれた扉を、それから、ドアの傍らに佇む中将をゆっくりと見やり、ウェインは再び俯いて微かに首を横に振った。

力のない、声だった。

「……あなたの幸せは、どうなるんですか」

「ウェイン、誇りは悲しみを忘れさせる。きみもいつか分かるだろう。……私は、なにも気まぐれできみに目をかけているわけではない。きみは、自分は私の一番にはなれないと言ったが、わたしはきみの才能を信頼している」

「中将」

なにか言いかけ、けれど結局、彼はやめた。

そのまま力ない足取りで扉に向かい、すれ違う間際、思ったよりしっかりとした目で中将を、見上げる。

それは何か、この上官の中から引き出せるものがあるとして、それに必死で耳をそばだてているようにも、見えた。

「中将のおっしゃるように、いつか誇りが悲しみを拭い去る日が来るでしょうか」

中将は答えなかった。

儀礼式に敬礼を返し、ひとつ、頭を下げる。

そのままドアを出て行こうとした彼は、中将が扉を閉める間際に、背を向けたままで呟いた。


「けれど僕は、あなたが心からそう思っているとは、思えないんです」


閉じた扉の向こうで、彼が歩き出す気配を感じた。

若い、と、中将は思う。

若く未熟ゆえに愚かで、脆弱だ。

しかしそれを不快だとは思わなかった。

不快なものがあるとすれば。

その未熟さをすくい取って、草木に水をやるようになにかを育ててやることができない、賞賛の声の中で朽ち果てていった己という存在。

本当に、それだけだった。


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