聖夜。
現実世界で、舞台はアメリカを漂わせていますが、あくまでフィクションで、アメリカっていう国に似ているけどアメリカではないよ!という感じで…軽く流して下さい。
多少わざとらしいほどに、荒れた道だった。
敷き詰められたわけでもないだろうに、見事なまでに砂利だらけの歩道。その上に積もった枯葉は、連日の雨で、踏みしめる度にうんざりするような音をたてた。
厚い靴底をじっとりと通すような錯覚。溢れた雨水に眉をしかめなくとも、あとからあとからしつこく降り続ける雨に全身はじっとりと濡らされる。
だが、言葉を漏らすものはいなかった。
月も街灯も無い夜。
しかし彼らは、明確な目標をもってただ、前の者について走る。砂利を蹴散らして走る。
雨の止まぬうちに、逃げ込む場所を見つけなければならない。これは敗走だ。
あってはならない、敗走。
弾き散らした雨雫のひとつひとつすら、神経を脅かすような闇夜。
その夜誰もが、無言だった。
《1》
黒い金属を取り上げる指先は、白く、細い。が、あちこちに癖のある痣が目立ち、短く切りそろえられた爪のまわりで血の滲んだささくれが目立った。
かたちだけなら美しい手は、機械的に金属を組み上げてゆく。時々ふっと息を吹きかけ、黒く滲んだ衣服の裾でそれを拭う。
そのたびに、肩口で切りそろえられた黒髪が、さらさらと砂金が零れるような音をたてて、揺れた。
黒い瞳は無心に手元を見下ろしている。まるで、世界はそこにしか存在していないとでもいうように。
簡易ベッドひとつと小さな洗面台しか無い室内にはしばらく、彼女がたてる金属音だけが響いていた。
「あんたも大概、色気がねえな」
いつの間にか、戸口に男が佇んでいた。目に鮮やかな赤毛を伸ばし、Tシャツとジーンズのラフな服装を纏った大男は、揶揄するように彼女を見下ろす。
彼女はちらりとも男を見なかった。
「なあ、今日が何の日だか知ってるか?」
全く相手にされてもいないのだが、いつものことなので男は気にしない。彼女の意識を他人に向けさせるということが、そもそも不可能なことなのだと、
ここでは誰もが知っていた。
故に、男はただ、自分の喋りたい事だけを喋る。
そういった身勝手な役割で、彼女は男にとって好感度の高い人間のひとりだった。
「クリスマスイブだぜ。恋人たちが語らう日ってやつだ。俺らも大概、ツイてねえな」
こんな職を選んじまってさ。
誰もが休みたがる日だ。皆が浮かれ、街は笑顔で埋まる、光の聖夜。
……しかしこんな日だからこそ浮き立たせられる"影"が有る、故に、彼らはこの日を危険日と認識するのだ。
この夜、休みを取れるはずがなかった。
「ま、俺らにはあんまり関係ねえけどな。恋人いない歴、長いだろ」
おまえはさ。
一人で喋って一人で笑う。男はジーンズのポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、火もってないか?と呟いた。
「オマエは相変わらず間違いだらけだな」
そのとき、女のものにしては低い声が、ようやく男の言葉に答えた。銃の手入れが終わったのだ。
仕上げにふっと息をふきかけて、彼女はうるさそうに髪を払う。
「間違いって、何がだ」
乱暴な言葉遣いは彼女の口癖だったから、男は腹を立てる事もなく、のんびりと受け答えをする。せっかくの聖夜だというのに、他にすることがない事に対する諦めも含めて。
「クリスマスは恋人共の為の日なんかじゃない。救世主とやらが生まれた日さ」
「……知ってんよ。そんな事」
外は恐らく雪が降っているのだと思う。
凍てつく寒さは、追う側にも追われる側にも脅威となり得る。
あるいは、狩る側と狩られる側に。
男の思考を遮るように、その時、館内に召集を知らせるベルが鳴り響いた。
非常ベルではないので、そううるさいものでもないが、煩わしさからいえば男にとってはどっちもどっちだ。
「出るぞ」
女は無言で立ち上がる。手入れを終えたばかりの銃と、それから2、3、他の銃器をベッドの下から取り出して、羽織ったコートの内側にすべりこませた。どれも小型で、うすい皮のコートの下でもほとんど一目につきにくい。
「あ、待て、ジゼル」
目の前をすり抜けて行こうとした女に、男は不意に手をかける。
一瞬、激しく憎悪に似た眼差しでジゼルは彼を見上げ、同時に強くその手を振り払った。
不意に訪れた暴力にも似た激しい拒絶に、男は数秒、振り払われた手を下ろす事もなく呆けていた。
が、棘を振り撒いたような空気を取り繕うように、慌ててハハ、と小さく笑う。
「その……俺はただ、この仕事が終わったら一緒に食事でもどうかと思って……」
女が何に対してここまで過敏に反応したのか、男には分からない。きっとジゼルの事だから、聞いたところで分からないのだろうと思ったから、男は無理に笑ってガシガシと頭を掻いた。
褪めた目で男を見上げていたジゼルが、鳴り響く招集ベルに改めて気づいたように踵を返す。
「ジゼル!」
振り向きもしなかった。
ただ、遠ざかる廊下の先から声だけが置き去られてゆく。
「アイザック、食事なら一人でする。次に私に触れたら殺してやる」
投げつけられた言葉の鋭さに改めて傷つきながらも、そのまま立ち尽くしてその背を見送る事を、鳴り続けるベルの音が容認してはくれなかった。
獣が出た、と誰かが叫んだ。
それがそもそもの始まりだった。
ジゼル自身分からない事だった。もう、15年近くも前のことになるのだから、記憶が曖昧でも仕方がないかもしれない。
住宅街に、獣が出た。
そんなニュースは時折、テレビのワイドショーで取り上げられる。そしてすぐに捕獲され、すぐに話題性は薄れて、消える。
あの時もそうなるはずだった。
違ったのは、獣が人を殺したこと。
違ったのは、その獣が誰も見たことのない姿をしていたこと。
違ったのは、普通の方法では獣が死ななかったこと。
通報を受けた警察が到着するまで、近隣の住民が数人がかりで、家庭にある、武器となり得るもの――包丁や鋸、アイスピックや22口径といったもので獣を攻撃した。
目と内臓を含む、10数箇所に刃物を柄の近くまで埋め込まれながら、それでも獣は死ななかった。
"それ"を殺したのは、通報から10分以上も経ってからようやく到着した、警官隊による100発近くの発砲。
死傷者は30余人にも及んだと、当時の記事には記されている。
それが、始まりだった。
今なお続いている、悪夢の幕開けに過ぎなかった。
街全体をすっぽり覆ってしまえるほどの巨大軍事設備を、どこか地下に建設した国があるらしい。
その噂は、またたく間に広がった。
何故なら、住宅街に出た"獣"は、その施設が非合法に行った実験が創り上げた失敗作だという噂がオマケになっていたから。しかも、人体に対して。
確かにそれを裏付けるように、忽然と成人男性が消える誘拐事件の直後に、その獣が目撃されていた。
誘拐されて、実験材料にされた挙句、失敗して獣化したに違いない――そんな噂が、子供たちを中心に、世界中に広まっていった。
15年前。
ジゼルが陸軍に拾われた、翌年のことだった。
「出遅れたな」
聖夜の討伐劇、などと冗談めかして誰かが言った仕事を終えて、本部ビルに帰還した後は食堂で適当に時間を潰していた。
アイザック、と呼びかける言葉なしに(もちろん断りもなしに)彼の向かい側に座った男は、綻びひとつない高位の軍服に身を包んだ超絶美形のくせに、
噛み潰したストローのささったコーラを手にしていた。
「あんた、似合わなすぎる。……いや、ある意味物凄く似合ってる気もする」
「今日はジゼルが一人で弾をぶち込んでたらしいな。また、おまえがうまいことあいつを怒らせたんだろう」
会話の噛みあわない相手ばかりだ。
或いは、噛みあっていないのはひょっとしたら自分のほうかもしれないなどと追い詰められた言葉を口の中で呟いて、アイザックは男の手からコーラを奪い取った。
「飲めねえじゃんよー。ストロー噛む癖、直せよな」
指先で潰れた飲み口を直しながら、聖夜のシャンパンの代わりにもならない安物の飲み物に苦笑する。
飲み口がきれいに直ったところで、待ちかねていたように、男はアイザックの手からそれを取り返した。
「……テンメェ…」
「子供を一人、保護したと報告を受けたが」
「ああ、その事か。ぶち込んであるぜ、いつもの場所にな」
「事後処理は万全だろうな。イブの夜に子供が戻らなければ、どんな親でも大騒ぎする」
「それはクリストフの仕事だろ。俺は現場専門でね」
「彼は別件で出張中だ」
「知ってるよ」
すでに男は立ち上がっていた。後を追うようにアイザックも立ち上がる。
「やめとけって、ミシェル!」
無意識のうちに、縋るようにその手を掴んでいた。
男はそれを見下ろして、完璧なまでの無表情を繕う。……装う。
アイザックは手を離して、じっと自分を見下ろしてくるミシェルの視線から顔を逸らした。
捕まれた手元を払うような潔癖な真似はせず、先程とはうってかわった沈んだ様子のアイザックを、彼は静かに見下ろした。
「行かなくては」
意味のない言葉なのだと知っていた。それでも彼が律儀にそう呟くから、アイザックは彼を行かせざるを得なくなった。
何の為に、と聞いてはならない。恐らくは。
それでも、これから散る命を放置する事ができず、かといって救う事もできないのに、それを見届ける事だけが唯一の餞であるかのように振舞うこの男に、これ以上何が言えるというのかアイザックには、分からない。
「ケーキ、取っといてやるよ」
気詰まりを感じ、すでに歩き始めた背中に向かって言葉を投げる。
ミシェルは振り返らずに、売り切れたらしいぞ、と呟いた。
かつては、命令に背いた兵士を閉じ込めておくための牢だった。
四方をコンクリに囲まれた部屋で、檻は無い。食事を差し入れるための小さな小窓と、3重に鍵のかかった出入口。
俗に言う地下牢、という名に相応しく、長い石階段を降りたところにそれはあった。
銃声がきこえたのは、ミシェルが最後の階段を降りるか降りないか、というところで、彼は一瞬、ほんの一瞬だけ眉を顰める。
明らかな銃声、幾重にも音の層に分かれて狭い館内に木霊し、最後にはそれが銃声だったかどうか分からない余韻だけになって、長く彼の鼓膜にこびりついた。
やがてはそれも、軍靴の立てるかつかつという足音に飲まれ、消える。
幾つ目かの部屋の前で、彼は足を止めた。扉は開いていた。
彼の身長では少々、扉は低く、牢に入るためには彼は身を僅かに屈めなければならなかった。
もう慣れた硝煙の匂いと、それに混じる、癖のある血液の匂い。
視線をめぐらせると、経験と比べてやや小柄の獣の死骸と、その傍らで弾を入れ替えているジゼルが見えた。
「おまえで良かった」
素直な感想を口にすると、ジゼルが小さく笑んだ気がした。無論、錯覚だった。
下手が撃てば、即死できない。何発も銃弾を受け、苦しんだ挙句に死ぬ事になる。
それを思うと、獣の命を止めたのがジゼルであった事を彼は、せめてもの救いだと思うのだ。
恐らく、いつ撃ち込まれたかも分からなかったに違いない。この、もと少年であった獣は。、、、、、、、、、
「だが俺の記憶によると、今日おまえをここの番に配属した覚えは無いな」
ミシェルはまだ25にも満たなかったが、入隊して15年、既に人事配属の権限を持つ地位に居る。
極力、"捕虜"が出たときはジゼルに任せる事にしているが、今日は現場に配属した筈だった。
「聞きたい事があった。オマエに関係ねえ」
がちゃりと音を立てて安全装置をかけると、銃をしまいながら彼女はすこぶる不機嫌な様子で言った。
そして不機嫌なのはいつもの事なので、ミシェルは気にしないことにしている。
「子供から何を聞きだせると思った」
「言ったろ。オマエには関係ねえ」
もう慣れているので彼は分かっているが、上官に対する態度というものを、ジゼルはよく使い分けていた。
他の隊員の前では犬のように従順。
二人きりになった時点で、態度は大きく変貌する。
二面性をうまく使い分けられるような器用なたちではないと思っているだけに、彼女の変貌ぶりには目を見張るものがある。
いつか必ずぼろを出すと思うが、それを心配するような寛大な精神を持ち合わせていない為、ミシェルは黙って観察することにしていた。
「では質問を変えよう。望みの答えは、聞き出せたのか?」
それも関係無い、と突っぱねられるかもしれないと思った。
けれど、ジゼルは表情を消したまま、辛うじて判別できるほど僅かに、首を横に振った。ほんの少し、唇が震えているようにも、見えた。
残念だったな、と言葉をかけようとして、結局ミシェルは、やめた。
ジゼルには通常人間が持ち得る感情、喜怒哀楽が備わっているのかどうかさえ、時折あやふやになる。
過去に一度だけ、慰めの言葉をかけたことがある。そのとき、彼女は一瞬子供のようにきょとんとして見返してきた。何を言われているのか分からない様子で。
それで、気づいたのだ。ジゼルは生まれてこのかた、他人に慰めやねぎらいといった言葉をかけて貰った事が無い。
それをいちから教え込むような優しさを、自分は持ち合わせていないことをミシェルは充分すぎるほど理解している。
何故なら彼も、そういった、人の優しさに似たものを受けずに育ってきたからだ。
自分の持ち得ないものは、他人に譲渡することができない。
似た場所が違うかたちに欠けているような、或いは、違う場所が似たかたちに欠けているような錯覚。
それ故に自分は、こうして彼女に関わりたがっているのかもしれないと、思った。
「意味のねえ事だ」
不意に、彼女のほうから呟いた。同時に、死骸を処理するための清掃員が牢内に入ってくる。
お疲れ様です、失礼致します、そんな自身にかけられる言葉を全て意識から弾き出し、ミシェルはジゼルの言葉の真意を探ろうと聞き返した。
しかし彼女はそれから口を開く事無く、急に増えた人目に配慮して、それでは失礼致しますと規則に沿った儀礼的な物言いを返すと、ミシェルを置いて逃げるように牢をすり抜けて行った。
強く手の中に閉じ込めたはずの水が指の間から零れてゆくような感触。
その錯覚は、ジゼルと関わろうとすればする程、強く鮮烈なイメージとなってミシェルに降り注いだ。
―――もうじき、水が枯れる。
呟きに、側にいた清掃員が訝しげに振り返るが、既にミシェルもまた、牢から足を遠ざけていた。
かなり前に「イワノフの唄」としてweb公開していたもので…これの裏話が「アクロ」といって、獣を生み出す側視点なのですが、完結はしたものの今思えばかなりgdgdだったので、伏線とかしっかり回収しようと書き直しているのがこれです。支部では「黒い茨の青年たち」で載せてて、対抗勢力が「白い茨の少年たち」でした…が、ここに完全移行します。よろしくお願いします!