【ミア視点】お姉さまの悪行ノートを運んでいたのは私です ~“前”の私は、あの人を見送ってしまったから~
本作は、短編『婚約破棄されたい悪役令嬢の悪行ノート、なぜか毎朝赤ペンで添削されています』のミア視点のおまけです。本編と、殿下視点・侍女視点のおまけのネタバレを含みます。
雨の夢を見る。
子どものころから、ときどき見る夢だ。
灰色の空。石畳を叩く雨。紋章を剥がされた古い馬車が、北へ向かって走っていく。
その窓の向こうに、金色の髪の女の人が座っている。
その人は、一度も振り返らない。
私は門の内側で、誰かに肩を抱かれたまま、ただそれを見送っている。
何か言わなきゃいけないのに、喉が動かない。
馬車が角を曲がって見えなくなったところで、いつも目が覚める。
夢の中の私は、なぜか泣いていない。
それが一番、怖かった。
◇
ローゼ男爵家は、父の代に爵位をもらったばかりの、ほとんど平民みたいな家だ。
上に兄が二人、下に弟と妹が一人ずつ。家の中はいつもうるさくて、お下がりの服と本が、上から下へ順番に流れていく。
王立セレスティア学園の編入試験に受かって、一年生への編入が決まったとき、父は泣いて喜び、母は三日かけて制服の裾を直してくれた。
そして編入初日、私は講堂の階段で、その人を見つけた。
金色の縦ロール。少し吊り上がった目。背筋をまっすぐ伸ばして、誰とも群れずに歩いていく後ろ姿。
リーゼロッテ・ヴァイスフェルト侯爵令嬢。
ひとつ上の二年生で、王太子殿下の婚約者で、学年一の才女で、口が悪くて近寄りがたい人――と、同じ寮の子たちは噂していた。
でも私は、その後ろ姿を知っていた。
夢の中で、一度も振り返らなかった人だ。
足が勝手に止まった。心臓が、変な音を立てた。
あの人が、北へ行ってしまう。理由も分からないのに、そう思った。
どうすればいいのかは、分からなかった。
平民上がりの男爵令嬢が、侯爵令嬢に「北へ行かないでください」なんて話しかけられるはずもない。
だから私は、ただ遠くから、あの人を見ていた。
――あの日、噴水に突き落とされるまでは。
◇
その日、私は中庭の噴水の縁に腰かけていた。
妹が刺繍してくれたハンカチを、風にさらわれて水の中へ落としてしまったからだ。
手を伸ばしたところで、気づいた。
縁の石の上を、緑色の細いものがゆっくり這ってくる。
蛇だった。
しかも、縁についた私の手の、すぐ先に。
体が固まった。声を上げたら飛びかかってきそうで、息もできない。
手を引っ込めることも、立ち上がることもできずに、私はただ蛇の頭を見つめていた。
「あら、ごめんあそばせ!」
横から、肩を押された。
つるりと縁から滑り落ちて、ばしゃん。冷たい。膝までの水の中に、私はぺたんと座り込んでいた。
見上げると、あの人が立っていた。
金色の縦ロールの、リーゼロッテ様が。
高笑いでもするのかと思った。悪役みたいな台詞だったから。
でも、リーゼロッテ様は笑わなかった。
「……ほら、早く上がりなさい。これで拭いて。紅茶も飲みなさい。冷えるから」
ふかふかのタオルが、頭にかぶさってきた。
わしわしと髪を拭かれる。手つきは母より雑で、母より一生懸命だった。
押しつけられた保温瓶の紅茶は、甘くて温かかった。
ひと口飲んで、やっと頭が動きはじめた。
この人は、蛇から私を助けてくれたんだ。
しかも、それを恩に着せないように、わざと意地悪な言い方をして。
「リーゼロッテ様……! 噴水の縁に毒蛇がいたんですね!? 私の手のすぐ先に! だから突き飛ばして助けてくださったんですね!?」
「いないわよ、蛇なんて」
「ほら、そこに!」
水草の陰を、緑色の細い蛇がするすると逃げていく。
リーゼロッテ様は目を丸くして、黙りこんだ。
ほら、やっぱり。
ばれた、という顔だ。助けたことを、なかったことにするつもりだったのだ。
「一生ついていきます、お姉さま!」
「お姉さまはやめて」
やめません。
夢の中で見送ることしかできなかった私は、きっとこの人に何も言えなかった。だから今度は、言いたいことを全部言うと決めたのだ。
そこへ騒ぎを聞きつけて、王太子殿下まで中庭に現れた。
銀の髪に、氷みたいな青い目。噂の「氷の王子」だ。
殿下はびしょ濡れの私と、タオルを持ったお姉さまを順番に見て、静かにおっしゃった。
「リーゼロッテ。君は相変わらず、優しさを隠すのが下手だな」
「隠してません。悪意を隠していないだけです」
「そうか」
この方も、ちゃんと分かっていらっしゃるんだ。
そう思ったら、冷えた体がほんのり温かくなった。
……あとで知ったのだけれど、あの蛇のことは、お姉さま自身もまったく気づいていなかったらしい。
あのとき目を丸くしていたのは、本当に驚いていたからだったのだ。
それでも、私の中のあの日の答えは変わらない。
『怪我はさせないこと』と書いてから人を突き落とす悪役なんて、この世のどこにもいない。
◇
その夜、寮の面会室に呼ばれた。
扉を開けると、昼間の王太子殿下が座っていた。
心臓が止まるかと思った。
平民上がりの男爵令嬢を王太子殿下が呼び出す理由なんて、一つしか思いつかない。
私、何かとんでもない無礼をしたんだろうか。殿下の婚約者を、勝手に「お姉さま」と呼んだことだろうか。
「僕の婚約者が迷惑をかけた」
殿下は、ほんのわずかに頭を下げた。王族が、男爵家の娘に。
私は椅子から転げ落ちそうになった。
「だが、彼女は本当は優しい人なんだ」
そう言って殿下が机に置いたのは、一冊のノートだった。
紺色の表紙に、几帳面な字で『悪行ノート』。
開かれたページを見て、私は思わず口を押さえた。
『ミア嬢を中庭の噴水に突き落とす。
※ただし水深は膝まで。季節は春。怪我はさせないこと』
その横に、赤いインクで、別の人の字が書き込まれている。
『添削:春先とはいえ水は冷たい。濡れたまま放置すれば風邪をひく。
→乾いたタオルと、温かい紅茶を用意すること』
さらにその下に、少し震えたお姉さまの字で一行。
『あなたは誰ですか。勝手に書き込まないでください。添削は禁止です』
「……これ、殿下が?」
「ああ」
「お姉さま、怒っていらっしゃいますけど」
「却下する」
即答だった。
それから殿下は、気まずそうに目を逸らした。
氷の王子が、気まずそうにしている。
事情を聞いて、だいたい分かった。
お姉さまは、婚約破棄されて辺境へ行きたがっていること。
そのために悪役を演じようとしていること。
でも、どの計画にも「怪我はさせないこと」と書いてしまう人だということ。
それから――殿下ははっきりとはおっしゃらなかったけれど――殿下は、それを全部読んだうえで、お姉さまを手放したくないと思っていらっしゃること。
辺境へ行きたがっている。
その一言で、背中が冷たくなった。
雨の夢。北へ向かう馬車。一度も振り返らない背中。
夢の中であの人が北へ行ってしまったのは、たぶん――誰も、あの人の本当の計画を読まなかったからだ。
なぜかは分からないけれど、そう思った。
でも、今度は違う。
読んでいる人がいる。赤いペンを持って、あの人の優しさを、優しさのまま形にしようとしている人が。
「つまり殿下は、お姉さまの計画を、こっそり優しく直して差し上げたいんですね!」
「……そういうことになる」
「お手伝いさせてください! 私、朝はとっても早いので! 見張りでも何でもします!」
殿下は少し考えてから、おっしゃった。
「机の鍵は渡せない」
「当然です!」
胸を張って答えると、殿下の口の端が、ほんの少しだけ動いた気がした。
氷の王子の笑ったところを見たのは、たぶん私が世界で二番目だ。
一番目は、もちろんお姉さまのためにとってある。
◇
それから、私の朝は忙しくなった。
夜明け前に起きて、身支度をして、始業よりずっと早く生徒会室へ。
殿下から添削の終わったノートを受け取って、教室まで抱えて運ぶ。
殿下が合鍵でお姉さまの机を開けるあいだ、廊下の角で見張りをする。足音が聞こえたら、咳払いを二回。
最初の朝に運んだページには、赤い字が二文字だけ増えていた。
『却下』。
本当に書いたんだ、と思った。
運ぶ係が中を読むのは、たぶん、よくない。分かっている。
でも、読まずにはいられない理由があった。殿下はノートを渡す前に、ときどきぼそりと質問をなさるのだ。
「教科書は、困っていないか」
「近いうちに、何か心配な行事はあるか」
私が答えると、殿下はその場でペンを取り、さらさらと添削を書き足す。
教科書のことを聞かれた朝、廊下でノートを開いて、私は頭を抱えた。その日の計画は『ミア嬢の魔法学の教科書を隠す』。添削には、私がさっき答えたことが、そのまま書いてあった。
自分の教科書を隠す計画に、自分で協力してしまった。そんな被害者が、ほかにいるだろうか。
そういう朝のインクは、もちろん乾いていない。
ページの端に触れてしまって、指先が赤く染まる。洗っても、なかなか落ちない。
ノートの余白には、ときどき『前世で読んだ小説によると』と書いてあった。
何のことかは分からなかった。
でも、雨の夢を見る私には、なぜか笑えなかった。
教科書を隠されたときのことは、よく覚えている。
計画を読んだその日から、私は机の鍵をかけずに帰った。盗まれる側が協力するのもどうかと思うけれど、鍵がかかっていたら、お姉さまが困る。
隠されていた三日間、私は教科書を忘れたふりをして、隣の席の子に見せてもらった。ふりも何も、本当になかったのだけれど。
三日後、机の中に戻ってきた魔法学の教科書は、新品みたいになっていた。
取れかけていた表紙は、丈夫な布張りに。ばらばらだった綴じ目は、きっちりと糸で綴じ直されていた。
表紙の内側には、『ヴァイスフェルト侯爵家御用達』の刻印。
それなのに、中のページは一枚も替えられていなかった。
兄たちの書き込みも、弟が描いた変な竜の落書きも、編入試験の前に私が余白に書いた「ぜったい合格する」も、全部そのまま。
綴じ直すとき、古いページを残すよう、わざわざ頼んでくれたのだ。
そんなことは、添削のどこにも書いていなかった。
私は教科書を抱きしめて、お姉さまのところへ走った。
何も知らないふりをするつもりだったのに、涙は勝手に出てきた。
お姉さまは「製本屋ぁ……!」と頭を抱えていた。
あの声は、たぶん一生忘れない。
お茶会で作法を「いびって」もらったときも、そうだ。
カップの持ち方。スコーンの割り方。焼き菓子の取り方。
お姉さまは小声で、ものすごく正確に、ひとつずつ直してくれた。
翌月の伯爵家の茶会で、私は「所作が完璧」と褒められた。
どなたに教わったのかと聞かれて、胸を張って答えた。
「リーゼロッテ様に――お姉さまに、いびっていただきました!」
伯爵夫人は、なんとも言えない顔をしていた。
そのころには、私の人差し指の先は、ときどき赤く染まったままになっていた。
「それ、どうしたの?」
お姉さまに聞かれたときは、本当に心臓が口から出るかと思った。
「えっ? あ、あの、苺ジャムです!」
慌てて、手を背中に隠した。
苦しい。我ながら苦しい。
でもお姉さまは、それ以上は聞かなかった。
たぶん、私が困っているのを見て、聞かないでいてくれたのだと思う。そういう人だ。
◇
雨の夢は、少しずつ見なくなっていった。
代わりに見るようになったのは、もっとくだらない夢だ。お姉さまに「お姉さまはやめて」と言われる夢とか、殿下が乗馬用の長靴でワルツを踊る夢とか。後のほうは、夢ではなく本当にあったことらしいけれど。
だから、油断していたのだと思う。
ある夜、なかなか寝つけなくて、寮の窓から外を眺めていた。
月の明るい夜だった。中庭の石畳が、白く光っていた。
その上を、誰かが歩いていった。
金色の髪。まっすぐな背中。一度も振り返らずに、校舎のほうへ。
息が止まった。
夢と同じ後ろ姿だった。
気づいたら寝間着の上に上着を引っかけて、部屋を飛び出していた。
お姉さまが、どこかへ行ってしまう。今度こそ、止めなきゃ。
でも、夜の校舎は思っていたよりずっと暗かった。
廊下の先が見えない。自分の足音が、知らない誰かの足音みたいに響く。
角を曲がったところで、お姉さまの姿を見失った。
怖くて、足が動かなくなった。
夢の中みたいに、喉が動かない。
――だめ。今度は、だめ。
私は回れ右して、全力で走った。
見回りの近衛兵さんを見つけて、その袖にしがみついた。
「お、お姉さまが、リーゼロッテ様が、いなくなって……!」
泣きながら説明したので、たぶん半分も伝わっていなかったと思う。
それでも近衛兵さんは、すぐにどこかへ知らせに走ってくれた。
しばらくして、殿下が護衛を連れて現れた。外套を羽織っただけの格好で、銀の髪も乱れていた。
あんなに慌てた殿下を見たのは、あとにも先にもあの夜だけだ。
お姉さまは、教室のカーテンの陰で、膝を抱えて眠っていた。
犯人捜しの張り込みをするつもりで、そのまま寝てしまったらしい。
……ノートなら、とっくに生徒会室にあるのに。
殿下はしばらく黙って、お姉さまの寝顔を見ていた。
それから、馬車から持ってこさせた毛布を、そっと肩にかけた。
「……起こすのも可哀想だ」
護衛の方が、寮母様を呼びに走った。
待っているあいだに、殿下は生徒会室からノートを持ってきて、赤いペンで短い添削を書き足した。
『添削:夜更かしは禁止。風邪をひく。
犯人捜しは、昼間にすること』
それから布で包んで紐をかけ、駆けつけてきた寮母様に預けた。
「明日の朝、これをミア嬢に持たせて、リーゼロッテに届けてもらえるか」
「かしこまりました」
お姉さまは、寮母様と当直の侍女さんたちの担架で、寮へ運ばれていった。
最後まで、起きなかった。寝言で「パン……」と言っていた。
寮へ戻る道で、私は少しだけ泣いた。
夢の中の私は、あの人を見送ることしかできなかった。
でも今夜の私は、走れた。助けを呼べた。
それがなんだか、無性に嬉しかった。
翌朝、私は寮母様から包みを受け取って、何も知らない顔で、お姉さまのお部屋の扉を叩いた。
「おはようございます、お姉さま。寮母様から、お姉さまにお渡しするようにって預かりました」
嘘は言っていない。
全部を言っていないだけだ。
◇
それから何日かして、ノートを受け取るのが怖い朝があった。
生徒会室の殿下は、いつもどおりの無表情だった。
ただ、ノートを渡してくださるとき、なかなか手を離さなかった。
廊下で、こっそりページを開いた。
『計画:殿下に「大嫌いです」と言う。
面と向かって、はっきりと。
これなら確実に婚約破棄していただけるはず』
その下に、赤い字。
『却下。
それだけは、添削では直せない』
いつもの綺麗な字が、少しだけ震えていた。
その日一日、私はお姉さまの後ろをついて回った。
もしお姉さまが殿下に「大嫌い」を言いに行ったら、目の前で盛大に転んで邪魔をするつもりだった。淑女の礼は完璧になったけれど、転ぶほうがもっと得意だ。
お姉さまは、言いに行かなかった。
次の日も、その次の日も。
四日目の朝、そのことを殿下にお伝えすると、殿下は「そうか」とだけおっしゃった。
その日、殿下は生徒会の書類を三枚、間違えたそうだ。
◇
卒業記念パーティーの日。
始まる少し前に、私は最後の運搬係をした。
殿下がお姉さまの机から出したノートを、生徒会室まで抱えて運ぶ。いつもとは逆向きだ。
生徒会室に着くと、殿下は「少しだけ、外してくれ」とおっしゃった。
しばらくして呼ばれたときには、ノートはもう閉じられていた。
「会場まで頼む。僕は来賓の出迎えがある」
受け取ったノートは、最後のページのところに、指一本ぶんの隙間をあけて閉じてあった。インクを乾かしているのだと、すぐに分かった。
中は見なかった。見なくても、分かる気がした。
会場の入り口で、ノートを殿下にお返しした。殿下はそれを、上着の内側にしまった。
お姉さまが殿下の前に進み出て、自分で自分を断罪したのは、それからしばらくしてのことだ。
「私はこの一年、ミア・ローゼ嬢に数々の嫌がらせをしてまいりました!」
会場がざわめく中で、頭の奥で、雨の音がした。
同じ光景を、どこかで見た気がした。
シャンデリアの下。お姉さまがたった一人で立っていて、周りの誰も、あの人の味方をしなかった。
そして私は――殿下の隣にいた。何も言わずに。
違う。
今の私は、そこにはいない。
「……恐れながら、殿下。発言をお許しいただけますか」
お姉さまに叩き込まれた、完璧な淑女の礼。
殿下が、小さくうなずいてくださった。
「リーゼロッテ様に、私は助けていただいてばかりです。いじめられたことなど、一度もございません」
声は震えていた。でも、最後まで言えた。
夢の中で言えなかったことを、やっと言えた。
そのあとのことは、皆さんもご存じのとおりだ。
殿下が懐からノートを取り出して、赤いペンで「訂正:結婚」と書かれたページを見せて、お姉さまは真っ赤になって、会場は割れるような拍手に包まれた。
私は淑女らしくハンカチで目元を押さえ――押さえきれずに、泣いた。
妹が刺繍してくれた、あのハンカチで。
◇
パーティーの帰り際、私はお姉さまの袖を引いて、全部打ち明けた。
面会室のこと。見張り係のこと。ノートを読んでいたこと。苺ジャムのこと。
お姉さまは呆れた顔で聞いていたけれど、怒らなかった。
だから私は、最後に一つだけ、本当のことを足してしまった。
「いつか、その『前世』のお話、聞かせてくださいね。――私も、“前”のこと、少しだけ覚えてるので」
「え?」
お姉さまが、きょとんとした。
その顔を見たら、急に怖くなった。
“前”の私が、あの人に何をしたのか。何をしなかったのか。
それを話すのは、まだ怖い。
「なーんて! おやすみなさい、お姉さま!」
私は走って逃げた。
淑女らしくない、と叱られる前に。
◇
それからの一年は、あっという間だった。
お姉さまの結婚式で、私は花嫁の付添人を務めた。
誓いの言葉の途中から最後まで泣いていたので、正直あまり覚えていない。侍女のアンナさんが、黙ってハンカチを三枚渡してくれたことだけは覚えている。
お姉さまと殿下が北の辺境へ発つ日。
見送りの列の中で、私は身構えていた。
北へ向かう馬車。夢と同じ光景だ。
でもその馬車には、王家の紋章がちゃんとついていて、窓は大きく開いていた。
お姉さまは身を乗り出して、ぶんぶんと手を振っていた。殿下が後ろから、落ちないように腰を支えていた。
「ミア! 手紙、書くからね! パンも送るからね!」
後ろの馬車の窓から、アンナさんが小さく会釈をした。膝の上に、なぜか小麦粉の袋を抱えていた。
振り返らない背中なんて、どこにもなかった。
私は手を振り返した。泣いていたけれど、ちゃんと笑えていたと思う。
その夜から、雨の夢は見なくなった。
◇
――見なくなった、はずだった。
お姉さまたちが辺境へ発って、ひと月ほど経ったころ。
久しぶりに、夢を見た。
雨ではなかった。
暗くて、冷たくて、土の匂いのする場所。たぶん、どこかの地下だ。
ずっと奥のほうで、かり、かり、と小さな音がしている。
ペンが紙をひっかく音だ。
音のするほうへ目を凝らすと、青い光がぼんやり滲んでいた。
夜空みたいな、深い青。
誰かが青いインクで、何かを書いている。
顔は見えなかった。
でも、その背中の線に、私は見覚えがあった。
目が覚めると、寮の窓の外は、まだ暗かった。
その日の午後、お姉さまから手紙が届いた。
「毎朝パンを焼いて、村の子どもたちに配っているわ」
「ジーク様が、新しいノートにもさっそく添削してくるの」
「そういえば、ノートに誰も書いていない青い字が出てきたの。『――次の計画は、辺境の地下にて』ですって」
追伸には、こうあった。
「パン工房の見習いが一人足りないの。誰かいい子がいたら紹介して」
私は手紙を握りしめた。
地下。青い字。
今朝の夢のことは、まだ誰にも話していない。
“前”の私は、あの人を見送ってしまった。
だから今の私は、決めている。
今度は、見送らない。
呼ばれなくても、行く。
私はその日のうちに、学園の休学届を書いた。
父への手紙も書いた。保護者の欄に署名をお願いします、と。たぶん、また泣く。
それから最後に、お姉さまへの返事を書いた。
「見習いなら、ここに一人います」
宛先は、北の辺境ノルトマルク。
あの青い光の正体を、確かめに行くために。
(了)
ここまでお読みいただきありがとうございました!
「お姉さま」と慕い続けたミアの一年間と、彼女の“前”の記憶のお話でした。
「続きが読みたい」の一言だけでも、感想欄にいただけると、連載化のいちばんの後押しになります。
ブックマークや☆☆☆☆☆での評価も、とても励みになります!




