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第24話 黒き一閃

 漆黒の刃が、キメラの巨腕に触れた。


 音はなかった。

 剣と肉がぶつかった感触さえ、ほとんどない。


 ただ、そこにあったものが、そこにいられなくなる。

 そんな感覚だけが、クランの手の中に残った。


 振り下ろされるはずだった巨腕が、空中で止まる。

 次の瞬間、切り離された肉塊が床へ叩きつけられた。


 重い音が、壊れかけた建物の中に響く。

 キメラの体が、わずかに傾いた。


 理解が追いついていない。

 痛みを感じているのかも分からない。


 だが、本能だけは異常を察したように、体のあちこちで赤い紋章が明滅し始める。

 断たれた腕の断面で、肉が蠢いた。


 裂けた筋が寄り合い、骨の欠片が戻ろうとする。

 昨日までの個体と同じなら、再生するはずだった。


 だが――戻らない。


 肉は歪んだまま止まり、赤い光だけが不快に脈を打つ。


「……再生が、止まっている?」


 リアの声が漏れた。

 自分の目で見たものを、まだ信じきれないような響きだった。


 クランは答えない。

 答える余裕がない。

 いや、答える必要がない。


 手の中の黒い剣が、次に斬るべき場所を知っているように静まり返っていた。


『そこ』


 小さな声がした。


 耳ではない。

 手の中の深く奥。


 剣の内側から届く、アリシアの声だった。


 クランは踏み込む。

 速度は、先ほどまでの自分とは違っていた。


 無理に速く動いているわけではない。

 身体の痛みが消えたわけでもない。


 頬の傷は熱を持ち、横腹の奥は息をするたびに軋んでいる。

 それでも、黒い剣を握る手だけが、奇妙なほどぶれなかった。


 刃がキメラの脚をかすめる。


 浅い。

 だが、それだけで十分だった。


 太い脚の筋が断たれ、巨体の重心が崩れる。


 キメラが唸った。

 紋章が無理やり力を送り込み、倒れかけた肉体を引き戻そうとする。


 クランはそれを待たない。


 前へ出る。

 距離を詰める。


 ただし、倒すためだけではない。

 後ろへ行かせないために。


 壁際の生存者たち。

 その前に立つリア。

 奥にいるゲイツ。


 背後の出口。

 崩れた天井と、足場の悪い床。

 そして、手の中にいるアリシア。


 守るべきものと、通してはいけない線は頭に入っている。

 長引かせるわけにはいかなかった。


 キメラの残った腕が横薙ぎに振るわれた。

 まともに受ければ、建物ごと吹き飛ばされる。


 クランは剣を合わせない。

 触れるだけ。


 ほんのわずかに角度をずらす。

 黒い刃が巨腕の軌道を削り、力の向きを変える。


 腕はクランの横を通り過ぎ、背後の壁を砕いた。


 生存者には届かない。

 リアにも届かない。

 通さない。


 ただそれだけの意思で、クランは前に立ち続けた。

 ゲイツが、息を呑むように笑った。


「これは……素晴らしいですね」


 楽しそうな声だった。


 だが、その目はもう、クランを見ていない。

 黒い剣だけを見ていた。


「再生阻害。魔力遮断。紋章への干渉……いや、これはもっと根本的な……」


 呟きが、早くなる。

 人の命がかかった場だということなど、頭から抜け落ちている。


 ゲイツにとって、今この場にあるものは、恐怖でも罪でもない。

 発見だった。


 クランは聞き流す。

 ゲイツの声より、キメラの動きの方が優先だ。


 キメラが後退した。

 ほんのわずかに。


 だが、確かに距離を取ろうとしている。

 目の前の存在を危険だと認識したのだろう。


 それでも紋章が肉体を押し出す。


 逃げようとする本能と、戦わせようとする術式が、同じ体の中で噛み合っていない。


 キメラの口が開く。

 喉の奥に赤い光が集まった。


 魔力の奔流。

 それが放たれれば、後ろの生存者たちを巻き込む。


 リアが踏み出しかける。

 だが、その前にクランが動いた。


 黒い剣が、赤い光の中心へ入る。

 振るったという感覚すら薄い。


 刃が光を裂いた瞬間、溜め込まれていた魔力がほどけ、霧のように散っていく。


 爆発しない。

 弾けない。


 ただ、形を保てなくなって消えた。

 リアは息を呑んだ。


「……違う」


 小さく呟く。


 強い。

 それは疑いようがない。


 だが、ただ強いのではない。

 あの黒い刃は、触れたものから“成立する理由”を奪っているように見えた。


 紋章も。

 魔力も。

 再生も。


 すべてが、あの刃の前では形を保てない。


 それは守るための力であるはずなのに、あまりにも冷たい。

 あまりにも、静かすぎる。


 クランは止まらない。


 止まれば、キメラが後ろへ行く。

 止まれば、アリシアが剣でいる時間が長くなる。


 そのことだけは、分かっていた。


『くらん』


 手の中で、声が揺れる。


 かすかに細い。

 さっきよりも遠い。


 クランの奥歯が鳴った。


「……すぐ終わらせる」


 短く言う。

 誰に聞かせるための言葉でもない。


 だが、黒い剣がわずかに震えた。


 キメラが体を低く沈める。

 次の瞬間、残った脚が床を砕き、巨体が突進した。


 腕を失い、脚を裂かれてなお、重量は変わらない。


 クランは真正面から受けなかった。

 床に散った木片を踏み、半歩だけ横へ流れる。


 異形の肩が目の前を通過する。

 その一瞬、黒い剣を引いた。


 狙うのは胸。

 複数の紋章が重なり、赤い光が最も濃く脈打っている場所。


 キメラの体を無理やり動かしている中心。


 クランは踏み込む。

 痛みが遅れてくる。


 足が軋む。

 横腹が裂けるように痛む。


 それでも、剣はぶれなかった。

 漆黒の刃が、胸の紋章を縦に断つ。


 赤い光が、声もなく裂けた。

 キメラの体が大きく震える。


 再生しようとした肉が止まり、動かそうとした術式がほどけ、巨体を支えていた力が一気に抜け落ちた。


 クランはさらに一歩、前へ出る。

 最後の抵抗のように開いた顎を避け、剣を横へ払った。


 黒い一閃。


 遅れて、音が来た。

 巨体が崩れ、床を揺らす。


 今度こそ、完全に沈黙した。


 誰も──すぐには動けなかった。


 クランは息を吐く。

 吐いたつもりだった。


 だが、胸の奥がうまく動かない。

 身体は限界に近い。


 それでも、最初に振り返った先は自分の傷ではなかった。


 生存者たち。

 壁際で怯える者たちが、まだ息をしている。


 次に、リア。

 片膝をつきながらも、剣を手放していない。


 視線が合う。

 無事だ。

 少なくとも、立っている。


 それを確認してから、クランはようやく手元へ意識を落とした。


 黒い剣が、そこにあった。


 光を吸い込むような刃。

 音を呑むような黒。


 ただ静かに存在している。

 だが、その奥にある小さな気配は、先ほどよりも弱くなっていた。


「……アリシア」

『……うん』


 返事はあった。

 けれど、細い。


 クランは剣を握る手に力を込めすぎないよう、指を緩めた。

 リアがその刃を見つめている。


 表情は硬い。

 恐怖だけではない。

 何かを知っている者の目だった。


「……あの剣……まさか」


 言葉はそこで途切れた。


 確信には至らない。

 だが、彼女の記憶の奥に、何かが触れている。


 ゲイツが、ゆっくりと拍手をした。

 乾いた音が、壊れた建物の中に響く。


「いやあ、素晴らしい。僕のキメラをここまで綺麗に止めるとは」


 声は穏やかだった。

 だが、その視線はもう明らかに変わっている。


「その剣、非常に興味深いですね」


 敵としてではない。

 価値あるものとして見ている。


 クランは答えない。

 剣を下ろさず、視線も逸らさない。


 まだ終わっていない。


 キメラは沈黙した。

 生存者も無事。

 リアも動ける。


 だが、ゲイツはまだそこにいる。


 そして――。


 空気が、わずかに変わった。


 気配。


 微細でありながら、確かにそこにある。


 リアの視線が入口へ向く。

 クランも遅れて意識を向けた。


 何も見えない。

 それでも、何かがいる。


 呼吸の音はしない。

 床を踏む音もない。


 だが、見られている感覚だけが、肌に残る。


「……誰か、います」


 リアが静かに告げた。

 クランの意識が、そちらへ向いた。


 それに反応するかのように、手の中の黒い剣が、わずかに震えた。


『……くらん』


 アリシアの声が、さらに小さくなる。


 入口の闇の向こうで、誰かが、静かにこちらを見ていた。

 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


 もしよろしければ、ブックマークや応援をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。


 次回もよろしくお願いいたします。

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