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第10話 剣になる少女

 握っていたはずの手の感触が、少しずつ遠ざかっていく。


 柔らかかった。

 小さかった。

 確かに、そこにいた。


 それなのに、指の間から抜け落ちるように、アリシアの体温が薄れていく。


「……アリシア?」


 クランは小さく呼んだ。

 けれど、すでに目の前に少女はいなかった。


 代わりに、手の中へ重みが落ちる。

 冷たい。

 だが、その冷たさの奥に、さっきまでこちらを見上げていた小さな気配が残っている。


 クランは視線を落とした。

 そこにあったのは、一振りの漆黒の剣だった。


 黒い刀身。

 紫に近い魔力の光。

 刃の奥には、夜の底を閉じ込めたような深い色が揺れている。

 鍔は歪で、骨にも、花にも見えた。


 美しい、とは思えなかった。

 ただ、目を逸らせなかった。


「……なんだ、これ」


 声が遅れて出る。

 分かるはずがない。

 そんなことが、あるはずがない。


 それでも、手の中の気配だけは知っていた。

 さっきまでそこにいた少女。

 アリシア。

 その名を、否定できなかった。


『くらん』


 声がした。

 耳からではない。

 手の中から。

 剣の奥から。

 細く、頼りない声だった。


「アリシアか」

『うん』

「戻れるのか」


 返事は、すぐにはなかった。

 クランの手に力が入る。


「アリシア」

『……たぶん』

「たぶんって何だ」

『わからない』


 短い返事だった。


 ごまかそうとしているのではない。

 怯えているわけでもない。


 ただ、アリシアは本当に分からないのだ。


 自分がどういうものなのか。

 何ができて、何ができないのか。

 どこまでやれば壊れるのか。


 その何もかもを理解できないまま、アリシアはクランに自分を握らせている。

 クランは奥歯を噛んだ。


「……ふざけるな」

『くらん?』

「おまえを使って外に出られても。おまえが戻れなかったら、何の意味もない」


 剣は答えない。

 ただ、手の中でかすかに震えた。

 その震えが、金属のものには思えなかった。


 怖がっている。

 そう感じた。

 けれど、アリシアは言った。


『でも、でれないと』


 小さな声。


『くらん、こまる』


 クランは言葉を失った。


 自分が困る。

 ただそれだけの理由で、この少女は自分を差し出している。


 叩かないと言われた。

 名前を聞かれた。

 パンをもらった。


 たぶん、アリシアにとっては、それだけで十分だったのだ。

 十分すぎたのだ。


「……おまえな」


 呟く。


 怒鳴ることはできなかった。

 叱ることもできなかった。

 剣を床に置くこともできなかった。


 外は静かすぎる。

 村がどうなったのか、まだ分からない。

 プレデリカがどう動いたのかも分からない。

 村人たちが、まだ生きているのかも分からない。

 結界の向こうにあるものを、確かめなければならない。


 ここで止まっていれば、何も守れない。

 何も変わらない。

 また、見ているだけになる。


 クランは、剣を握り直した。

 柄は冷たい。

 だが、その奥にある気配は小さく震えている。


「痛かったら言え」

『いたい?』

「痛いかどうかも分からないのか」

『……わからない』


 クランは短く息を吐いた。


「なら、嫌だったら言え」

『いや?』

「もういい」


 言いながら、クランは扉へ向き直った。


 厚い木の扉。

 その前に張られた、見えない結界。


 さっきは触れるだけで弾かれた。

 倉庫全体を薄く覆うような術式。

 普通の剣で斬れるものではない。

 そう、理解していた。


 だが、手の中の剣は、その結界を見ているようだった。

 刃の奥で、紫の光がゆっくりと揺れる。

 まるで、そこにある仕組みを探っているように。


 クランは一歩進む。

 身体が痛む。

 肩が軋む。

 肋が呼吸のたびに鳴る。


 それでも、剣を上げた。


「一度だけだ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 アリシアへか。

 自分へか。

 それとも、この状況自体にか。


「無理はするなよ」

『うん』


 本当に分かっているのかは怪しかった。

 それでも、その返事を聞いてから、クランは剣を振った。


 重くはない。

 むしろ、奇妙なほど手に馴染む。

 だが、それが嫌だった。


 さっきまでそこにいた少女が、自分の手に合う形になっている。

 その事実が、吐き気がするほど気持ち悪かった。


 刃が、見えない壁へ触れる。


 音はなかった。

 抵抗もなかった。

 結界が裂ける、という感触でもない。


 ただ、刃が通った場所から、術式がほどけていく。

 糸を切られた布のように。

 意味を失った言葉のように。

 そこに存在する理由をなくしたものが、静かに消えていく。


「……斬ったのか」


 クランは呟いた。


 違う。

 斬ったというより、消した。


 術式そのものが、成立できなくなった。

 そんな感覚だった。

 手の中の剣が、かすかに震える。


『でられるね』


 アリシアの声。


 どこか、ほっとしたように聞こえた。

 自分が剣になったことよりも。

 結界を消したことよりも。


 クランが出られることを喜んでいる。

 クランは目を伏せた。


「……ああ」


 短く答えた。


 扉へ手を伸ばす。

 今度は弾かれなかった。


 外からかけられていた閂は重い。

 だが、古いものだ。


 倉庫の内側に残っていた割れた農具を使い、扉の隙間へ差し込む。

 肩に痛みが走る。

 それでも、少しずつ押し上げる。


 木が軋む。

 金具が震える。

 やがて、鈍い音を立てて閂が外れた。


 扉が、わずかに開いた。


 外の光が、細い線になって差し込む。

 クランはその場で膝をつきかけた。

 身体が限界に近い。

 だが、まだ倒れるわけにはいかない。


「アリシア」

『うん』

「戻れるか」


 沈黙。


 それが、嫌なほど長く感じた。


『……やってみる』

「無理なら言え」

『うん』


 剣の輪郭が揺れた。

 黒い刀身に走っていた紫の光が、ゆっくりとほどけていく。


 重みが消える。

 冷たさが薄れる。

 代わりに、小さな手の感触が戻った。


 クランの前に、アリシアが立っていた。

 いや、立っていると言うには危うかった。


 白い髪が頬に張りつき、赤い瞳は少し焦点が合っていない。

 呼吸は浅い。

 先ほどより、立っている輪郭そのものが薄く見えた。

 まるで、そこにいるための力を少しだけ削られたように。


「アリシア」


 クランは咄嗟に手を伸ばし、倒れかけた身体を支えた。


 軽い。

 あまりにも軽い。


「大丈夫か」

「……うん」


 小さく頷く。

 だが、大丈夫な顔ではなかった。


「嘘をつくな」

「うそ?」

「今のは、大丈夫じゃない時の顔だ」


 アリシアは首を傾げた。

 本当に分からないらしい。

 クランは息を吐く。


「もう使わない」

「……でも」

「もう使わない」


 強く言い聞かせる。

 その言葉に、アリシアの肩が、わずかに跳ねる。


 怯えさせた。


 そう気づいて、クランは、次の言葉を飲み込む。

 何をしている。

 叩かないと言ったばかりなのに。

 強い声を出してどうする。


「……悪い」


 短く謝る。


「怒ってるんじゃない……」


 アリシアはじっと見ていた。


「ただ、嫌なんだ」

「いや?」

「ああ」


 クランは頷いた。


「おまえが苦しそうなのが、嫌だ」


 アリシアは、少しだけ目を伏せた。

 意味を探しているようだった。

 そして、小さく言った。


「でも、くらん、でられた」

「それとこれは別だ」

「べつ?」

「別だ」


 会話になっているようで、なっていない。


 それでも、クランは言わずにはいられなかった。

 アリシアを使って、出られるようになった。


 それは事実だ。

 その事実が、胸の奥に重く沈んでいる。


 幼い少女を、武器として使ってしまった。

 その、あまりに奇妙な事実を、忘れられる気がしなかった。


 扉の隙間から、外の光が差し込んでいる。


 村はまだ静かだった。

 だが、もう立ち止まることはできない。

 クランはアリシアの肩を支えたまま、扉へ向かった。


「歩けるか」

「……うん」


 頼りない返事だった。


「無理なら言え」

「むり?」

「つらい時だ」

「……わかった」


 本当に分かったのかは分からない。

 だが、アリシアはクランの袖を小さく掴んだ。

 それが返事のようだった。


 クランは開いた扉の向こうを見る。


 まだ何も分からない。

 何が残っているのか。

 何が失われたのか。

 誰が生きているのか。

 それを確かめなければならない。


「……行くぞ」


 短く言う。

 アリシアは頷く。

 そして、自然にクランの手を取った。


 小さな手だった。

 弱く、頼りない。

 結界を破壊した剣とは、とても思えない。


 それでも、その手を握った瞬間、クランは歩き出していた。

 崩れた扉の向こうへ。

 まだ終わっていないものを、確かめるために。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

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次回もよろしくお願いいたします。

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