水流光史の口を慎むほっこり飯
水流光史は、京都の歴史ある街並みに溶け込むように生きる、40代半ばの、どこにでもいる会社員だ。
中学時代は陸上部で汗を流したが、高校に上がると同時に「部活動なんてだるい」と合理的な帰宅部を選択した。
それからは驚くほど順調で平坦な道を歩んできた。
大学を卒業し、地元の企業に就職し、職場の縁で知り合った女性と結婚し、子宝にも恵まれた。
大きな波風の立たない、ごくごく平凡で、それでいて穏やかな日常。
それが彼の誇りであり、幸せの形だった。
現在、中学1年生になった一人息子の光男は、ある日突然、スマートフォンの画面を食い入るように見つめながら宣言した。
「お父さん、僕、ピアノを習いたい。」
画面の向こうでは、逞しい腕を持つ男性ピアニストが、まるで魂を削り出すような激しさで鍵盤を叩いていた。
ポーン、ポーンと響く美しくも力強い音色に、光史は思わず鼻を鳴らした。
「男がピアノをなんて、ちょっと柄じゃないやろ。」
悪気はなかった。
ただ、彼の中でのピアノは、おしとやかな女性が上品に指を滑らせるイメージで固定されていたのだ。
「男がピアノやったらおかしいん?どういうこと?」
光男が不思議そうに首を傾げ、横にいた妻までもが、本気で意味が分からないといった顔で光史を見据えた。
その真っ直ぐな視線に、光史は言葉を詰まらせた。
「いや、その……昔からのイメージというか……。」
「そんなん、昔はどうかようわからんけど、今はコンクールとかで優勝するような男性ピアニストもいるのに。かっこええやんか。」
光男の言葉に、光史はハッとした。
性別で何かを決めつけることの古臭さを、家族の無垢な反応によって突きつけられたのだ。
男性が奏でる繊細な旋律、それもまた新しい時代のかっこよさではないかと思い直すのに、そう時間はかからなかった。
光男が中学入学とほぼ同時に近所の音楽教室の門を叩くと、光史と妻はある程度経済的に余裕もあるので、20万円のアップライトピアノを中古で購入した。
決して最新ではないが、磨き上げられた黒いボディは重厚な光沢を放っている。
ピン、ポロロン、ポーン……。
リビングの隅から聞こえてくるのは、光男が真剣な表情で鍵盤を弾く音だ。
たどたどしい指つきではあるが、一音一音が丁寧に響き渡る。
自分の趣味を見つけ、目を輝かせながら練習に励む息子の背中を見つめる時、光史の心には温かな充足感が満ちていく。
「ええ音やな、光男。」
「うん!もっと練習して、いつかあの動画の人達みたいに弾けるようになるわ!」
光史は満足げに頷き、今日もまた、家族の幸せが奏でる旋律に耳を傾けるのだった。
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光史がかつてそうであったように、息子の光男もまた陸上部に所属し、中学2年生へと成長した。
後輩もでき、部活動にピアノにと、光男の毎日は充実しているように見えた。
家族の歯車は、これ以上ないほど順風満帆に回っている。光史は、その穏やかな幸せを疑うことさえなかった。
そんな、ある日の夕暮れ時のことだ。
光史がいつものように仕事を終えて帰宅し、リビングのソファでネクタイを緩めて寛いでいた。
テレビからはプロ野球中継の音が小さく流れている。そこへ、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「あ、光男が帰ってきたな」
そう思った光史だったが、返ってきたのは、いつもなら聞こえるはずの「ただいま」の声ではなく、バタンという力ない扉の閉まる音と、階段を駆け上がる重い足音だけだった。
「光男? 帰ったんか?」
光史の呼びかけにも応答はなく、二階の自室のドアが閉まる音だけがリビングまで響いた。
それからしばらくして、夕飯の準備が整った。テーブルには湯気を立てる味噌汁と、光男の好物である唐揚げが並んでいる。
しかし、いつまで待っても光男は部屋から降りてこない。
見かねた妻が「光男、ご飯やで」と呼びに上がったが、数分後、彼女は困惑した表情でリビングに戻ってきた。
「……あの子、返事もせんと、電気もつけんと座り込んで。学校でなんかあったんやろか? それとも、今日はピアノ教室の日やったから、そっちでなんかあったんやろかなあ。」
妻はエプロンの端を落ち着かなげに弄りながら、二階を不安そうに見上げた。
「なんや、友達と喧嘩でもしたんやろか。中学生にもなれば、親に言えんことのひとつやふたつ、あるもんや。反抗期ってやつやな。」
光史は妻を安心させるように努めて明るい声で言い、箸を手にとった。
「せっかくの飯が冷めてまう。先にあいつの分だけ取り置いといて、俺らは先に済ませてしもおう。後で俺が、男同士でちょっと話してみるわ。」
光史は茶碗にご飯をよそい、いつもと変わらぬ手つきで唐揚げを口に運んだ。
「うん、美味い。やっぱり母さんの唐揚げが一番やな。」
そう笑ってみせたものの、喉を通る白米が、いつもより少しだけ味気なく感じられた。
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光史は夕食を静かに済ませた後。
重い足取りで2階へと上がり、光男の部屋のドアの前に立った。
廊下の静寂の中に、リビングから漏れるテレビの音が微かに響いている。
コンコン、と乾いたノックの音を立て、光史は息子の部屋に向けて声をかけた。
「光男、お父さんや。入るで?」
中からの返事はない。
光史はためらいながらもドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開いて中へと入っていった。
光男は、カーテンの隙間から差し込む街灯の微かな光を浴びて、ベッドの端にうなだれるように腰かけていた。
その手には、1枚の楽譜が、指先が白くなるほど強く握りしめられている。
光史は壁に手を伸ばすと、カチリと音を立てて部屋のスイッチを入れ、パッと眩しい灯りを灯した。
「なんや、電気も付けんと。楽譜持ってるって事は、音楽教室で何かあったんか?」
光史は、できるだけ威圧感を与えないように努めて明るく、そして包み込むような優しさで声をかけた。
光男は、眩しそうに一瞬だけ目を細め、手元の楽譜に視線を落としたまま、絞り出すような消え入りそうな声で呟いた。
「……お父さんは、男がピアノやってたら、馬鹿にするん?」
「そんなんせえへんがな……ああー。」
一瞬、光史の胸に、過去の不用意な一言が苦い味となって広がった。
「前に、『男がピアノなんて』って言ったん、まだ気にしてんのか?いや、ほら、あれはお父さんが古臭いイメージ持ってただけでやな、馬鹿になんてしてへんし、間違っても否定なんてしてへんから。」
光史は、息子の隣のベッドの僅かな隙間に、ぎしりと音を立ててそっと腰を下ろした。
項垂れる息子の小さな肩をなだめるように、言葉を慎重に選んで続ける。
「なんや、音楽教室か、もしくは学校で、そんな事言われたんか?趣味を馬鹿にされたり、否定されて、傷つけられたんか?」
光男は、悔しそうに唇を強く噛み締め、震える声でようやく言葉を紡ぎ出した。
「……ピアノの先生に、言われたことが、意味わからんくて……。」
「え?ピアノの先生?ピアノの先生に、ピアノの事を馬鹿にされたんか?まさか!だって、ピアノ教えてる人が、なんでピアノの事を否定するんよ、そんなん、自分の仕事も先生としての仕事も否定する事になるやん?」
光史は、心底驚き、首を激しく傾げた。
自らの情熱を、そして生業としている音楽を、真っ向から否定するような教え子への言葉。
そんな理不尽で矛盾した話が、この世にあるのだろうか。
光史は、俯いたままの光男の、絶望に近いような表情を見つめた。
一体何が、最愛の息子をここまで悲しい顔にさせてしまったのか。
その正体が、暗闇に潜む影のように全く掴めず、光史は深い戸惑いと不安の中にただ沈んでいくしかなかった。
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光男は膝の上の楽譜を指先でなぞりながら、重い口をゆっくりと開き始めた。
「こないだ、色んなピアノ教室とか音楽教室が幾つか集まっての合同の発表会があってん。」
その声はどこか遠くを、自分ではどうしようもない過去の出来事を見つめているかのようだった。
「それでな、別に競い合う大会とかやなかったんやけど、うちの教室の、1歳年上の男の先輩が、最優秀賞みたいなん貰わはってん。」
光男が語るその先輩は、彼も大好きなゲームの曲を完璧な技術と情熱で演奏し、会場中の空気を一変させたのだという。
その快挙の裏には、指導にあたった一人の男性教師の存在があった。
「うちの教室でピアノ教えてる先生の一人が、めっちゃ優しい男の先生なんよ。その男の先生はプロピアニストにはならへんかったけど、子供の頃からゲーム音楽めっちゃ弾いて来た人で、そういうのも詳しいから、教え方もめちゃくちゃ上手やって評判やねんな。」
その先生への憧れと、自分も好きな曲を自由に弾きたいという純粋な願いが、光男を動かした。
「そやから、俺も好きなゲームの曲を好きに弾けるようにって思って、先生のクラスで練習したいってお願いしに行ってん。」
しかし、希望に満ちて踏み出したその一歩は、あまりにも残酷な拒絶によって打ち砕かれることになった。
「でも、『それはやめておいた方が良いでしょう。そもそも、親子の間に亀裂が入るから、君はピアノを辞めた方が良いのでは?』と言わはるんよ。」
光男の声が微かに震え、握りしめられた楽譜がグシャリと小さな悲鳴を上げた。
「え……?」
光史は耳を疑い、思考が停止した。
なぜ息子の向学心が、親子関係の破綻にまで飛躍するのか。
「先生は、『君は父親から、男性がピアノをしているという事で君のピアノを否定して、君を傷つけているんじゃないですかね?肉親から傷つけられたくなかったら、今すぐやめた方が宜しいかもしれません』って……。」
その言葉は、光史が心の奥底に無意識に抱いていた偏見を、鋭利な刃物で抉り出すような響きを持っていた。
「そんで、『私は学生時代はボクシングもしていましたから、そちらの方面、私が通っていたボクシングジムを紹介しましょか?ピアノなんてやめて、男性的な趣味だと言って褒めて貰えるかもしれません。最も、女性ボクサーだって活躍している時代だから、そんな言い方をする人は、性別に対して偏見を持っていて、差別的な在り方だと、僕は思うんですけどね』って、言わはった……。」
光男は深くうなだれ、もはや光史と目を合わせることもできない様子だった。
「なあ、お父さんと先生って、昔なんかあったん?なんで先生は、お父さんの事知ってるような事言わはんの?」
光男は、すがるような、それでいてどこか突き放すような、あまりにも悲痛な眼差しで父親を見つめた。
「どういう、こっちゃ……。」
光史は愕然とするしかなかった。
一度も会ったことがなく、名前すら知らないはずの教師が、なぜ自分の内面や過去の振る舞いを見透かしたように語るのか。
背筋を伝う冷たい汗が、光史を深い混乱と底知れぬ恐怖の渦へと突き落としていった。
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光男は、縋るような眼差しで光史を見上げながら、その教師、岸本について語り始めた。
彼は、違うクラスの生徒であっても分け隔てなく丁寧に挨拶を交わす、教室の中でも評判の優しい先生なのだという。
学生時代にはアマチュアボクシングに打ち込んでいた経歴もあり、その爽やかで頼もしい佇まいは、男子生徒からも兄や父のように慕われるほどの人気を誇っていた。
だからこそ、光男は最初、自分だけが特別に嫌われていて、意地悪をされているのだと思い込んでしまった。
それが昨日の出来事だった。
「そやから、最初は俺の事が特別嫌いやから俺にだけ意地悪してあんなこと言ったんかなって、思ったんや。それが昨日の話」
光男は少しだけ言葉を強め、昨日の混乱を吐き出した。
「でも、あまりに唐突過ぎて、あんな優しい先生が意地悪するとは思えへんから、今日、もう一回話しにいったんや。他の教室の子達に聞いても『岸本先生がそんな意地悪するわけないやん』って口をそろえて言うから」
「岸本?」
光史は、その聞き覚えのない名前を喉の奥で転がすようにして復唱した。
「そう、岸本先生。そんで、岸本先生に、昨日の話の続きをしたら……本気で僕の事、心配してくれてるとしか思えへんかった」
「え? ど、どういうこっちゃ? ピアノやめろって言うたんやろ? 心配でピアノやめろって、どういう事やねん?」
光史の思考は、今や迷路のように複雑に絡み合っていた。
ピアノを教える立場にありながら、将来有望な教え子に対して、心配しているからこそその道から遠ざけるという矛盾した言葉の意味が、どうしても理解できなかったのである。
「『家族仲は、悪くなってませんか? ピアノの事でお父さんと喧嘩したりしてませんか?』って本気で心配してる顔で聞いてきはるんよ、岸本先生」
光男は、その時の教師の表情を思い出すかのように、痛ましげに目を伏せた。
「ピアノが原因で親子仲が悪くなったり、家族間に亀裂が入る前に、ピアノを辞めるのも一つの生き方って、言わはるんよ。ピアノをやってることで人間関係で苦しんで欲しく無いって……」
光男は力なく視線を落とし、もはや言葉を紡ぐ気力さえ失ったように深くうなだれた。
もしも岸本が卑劣な意地悪でそんな言葉を投げかけているのであれば、まだ怒りをぶつけ、抗議の声を上げることもできただろう。
しかし、目の前の教師は、本気で光男の未来を案じ、家族の形が崩れることを恐れて、慈悲の心からその残酷な提案をしていたのだ。
その真っ直ぐで不可解な誠実さが、光男の繊細な心をかえって深く抉っていた。
光男はとうとう今日の授業を受けることさえできず、ただ理由のない恐怖に追われるようにして、重い足取りで家まで帰り着いたのである。
光史には、息子の語る話がまるで別世界の言語のように響いていた。
なぜ会ったこともない他人に自分の偏見を見透かされ、それを理由に最愛の息子がピアノから遠ざけられようとしているのか。
光史はただ、目の前で今にも壊れそうなほど悲しい顔をしている光男の姿を、呆然と見つめることしかできなかった。
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翌日、土曜日。
会社が休みの光史は、朝から落ち着かない様子でリビングのソファに座っては立ち上がり、何度も時計を確認していた。
意を決して光男が通う音楽教室に電話をかけ、事務の女性に岸本先生と直接話をしたいと打診する。
受付の女性は、岸本は本日、午後からピアノ講座を受け持っているため、それが終わり次第、時間が取れるか本人に確認して折り返すと告げた。
午前中の数時間がひどく長く感じられ、光史は手持ち無沙汰に庭の木々を眺めて過ごした。
午後になり、西日がリビングの床を橙色に染め始めた頃。
ようやく音楽教室から連絡が入り、夕方の講座終了後であれば時間を割けるという承諾を得た。
光史は身なりを整え、重い足取りで家を出て、静かな住宅街を抜けて教室へと向かった。
校舎に近づくと、厚い壁を越えてピアノやバイオリンの繊細な音色が重なり合い、風に乗って流れてくる。
光史が到着した時は丁度、岸本が受け持っていた講座が終了する時間だった。
校舎の重い扉が開き、レッスンを終えた子供たちが「さようなら!」と元気な声を弾ませ、笑顔で手を振りながら校舎の外へと飛び出していく。
その生徒たちを一人ひとり見送るようにして、校舎の入り口に一人の男性が立っていた。
自分と同じ40代半ばくらいの年代だろうか。
優しい顔立ちで、口元には慈愛に満ちた穏やかな笑みが浮かんでいる。
光史は喉の渇きを覚えながら、男性の目の前まで歩み寄り、一歩手前で足を止めた。
「水流光史です。水流光男の父です。」
光史が緊張混じりに名乗ると、男性は驚く様子もなく、深く丁寧にお辞儀をした。
「光男君のお父さんですね、岸本です。」
挨拶を交わすその声は落ち着いており、誠実な人柄が滲み出ている。
「教室へ行きましょうか。」
岸本はそう言って、先程まで講座に使用していた、大きな窓のある教室へと光史を案内した。
廊下を歩く岸本の背中は驚くほど真っ直ぐで、凛とした姿勢を保っている。
アマチュアボクシングを経験していたという光男の話通り、その足取りには無駄がなく、背筋の通った佇まいは鍛えられた者のそれだった。
だが、光史の胸の中にある激しい困惑は、一向に晴れる気配がない。
これほど優しそうな表情を浮かべ、隙のない人格を感じさせる男が、一体なぜあのような残酷な提案を我が子に突きつけたのか。
その理由が未だに理解できないまま、光史は静寂に包まれた教室の中へと足を踏み入れた。
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案内された教室は、放課後の静寂に包まれていた。
磨き上げられた床の上には、生徒たちの練習用と思われるアップライトピアノが数台、整然と並んでいる。
そして部屋の奥には、黒い翼を休めた鳥のような威厳を放つグランドピアノが一台、柔らかな西日を浴びて鎮座していた。
光史は、その整いすぎた空間に居心地の悪さを感じながらも、パイプ椅子に腰を下ろすとすぐさま本題を切り出した。
「それで、早速本題なんですけど。岸本先生は、光男にピアノを辞めるように言ったそうやないですか。なんでも、親子関係が悪化せんようにって。」
光史は、努めて冷静を装いながらも、どこか相手を試すような視線を向けた。
岸本は、少しだけ目を細め、静かな確信を込めて頷いた。
「はい、いかにも。私が光男君にそう伝えました。」
あまりにも堂々とした肯定に、光史は拍子抜けして思わず鼻で笑ってしまった。
「別に、息子がピアノやってるからって、親子関係が悪化するわけないやないですか。大袈裟ですよ。」
光史が乾いた笑い声を上げると、岸本は本当に意外そうな顔をして、不思議そうに首をかしげた。
「そうなのですか?」
その表情には、皮肉も敵意も微塵も感じられない。
ただ純粋に、光史の発言が理解できないという風情であり、そのあまりに自然体な拒絶に、光史の背筋に冷たいものが走った。
「いや、だって……先生は、光男がピアノやってたら、本気で父と子の関係が悪くなると思ってるんですか?」
光史が詰め寄るように尋ねると、岸本は迷うことなく、さも当然のことのように答えた。
「はい。そう確信しております。」
「そんなあほな……。」
光史は力なく笑みを浮かべたが、岸本の瞳は一点の曇りもなく光史を見つめ返していた。
「だって君……いや、失礼。水流さんは、ピアノをやっている男性があり得ない程におかしい事で卑下すべき対象と認識していらっしゃるものかとばかり思っておりました。」
「はあ!? そ、そんなわけないでしょう! 時代錯誤も甚だしい!」
光史は顔を真っ赤にして反論したが、岸本は相変わらず「そうなのですか?」と言わんばかりの困惑を浮かべている。
「いや、いやいやいや! 岸本先生は、俺がピアノやってる男性を馬鹿にする奴やと、本気で思うてるんですか!?」
「はい。」
岸本は、あっさりと、そして残酷なほど明確に返答した。
「ちょ、何を根拠に!? 初対面の人間に向かって失礼やろ!」
光史が声を荒らげた瞬間、岸本の表情から僅かに色が消え、淡々とした、しかし重みのある言葉が紡がれた。
「だって君、僕がピアノを習っている事を知った途端、僕が卒業するまでずっとそんな事言うてたじゃないですか。」
教室内が、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥る。
岸本の言葉は止まらない。
「中学の卒業式でもろた陸上部の先輩に贈ってくれる色紙にも、君は『君は速かった、でもピアノだった』って、最後までそんな調子で、その言葉が最後の最後まで君に「張り付いたまま」やったから。ああ、水流君はこの先もピアノやってる男性を馬鹿にする人なんやなあ、って、僕は認識しましたし、案の定、それに今もその認識が宿ってるようけど、ちゃうんですか?」
岸本は、まるで昨日の出来事を話すかのように穏やかな口調で、しかし致命的な一撃を光史の胸に突き立てた。
光史は、口を半開きにしたまま凍りついた。
脳裏の奥底、分厚い埃が積もった記憶の引き出しが、音を立てて開き始める。
中学時代の陸上部。
自分の一学年上の、真面目で優しく、悪く言えば気が弱くて大人しいだけにしか見えなかった、足が速かった先輩。
その先輩が、ピアノを習っていると知ってから、自分が気まぐれに投げかけ続けた言葉。
「ピアノピアノ」という囃し立て。
色紙に書いた、自分では「洒落たつもり」だった残酷な一文。
光史は、目の前の「岸本先生」という男の中に、かつて自分が踏みにじった先輩の面影を、必死に、そして恐怖と共に探し始めた。
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光史は、どっと噴き出した冷や汗でシャツが背中に張り付くのを感じながら、青ざめた顔でやっとの思いで言葉を発した。
「……岸本、先輩?」
岸本先生は、西日が差し込む静かな教室内で、当時の面影を微塵も感じさせないほど穏やかな顔のまま頷いた。
「はい。まあ、先輩後輩だったのは中学までの話で、今は全くもって赤の他人。先輩面は出来ませんがね。」
30年という歳月の重みが、光史の胸に鉛のようにのしかかる。
「……何となく、そんな事があったなあって、薄っすら思い出しました。」
光史が絞り出すように言うと、岸本先生は「そうですか。」と言って、まるで春の陽だまりのような温かさで微笑んだ。
その余裕のある態度が、逆に光史の神経を逆撫でした。
「いや、なんで笑ってられるんですか……俺への復讐のつもりですか? 光男に、あんな……。」
光史は、震える拳を膝の上で握りしめ、語気を強めた。
岸本先生は、驚いたように瞬きをすると、相変わらず淡々とした調子で言い放った。
「復讐? 復讐する事なんて、あるんですか? 何も恨み言なんてないのに?」
「いや、だって……そりゃ、馬鹿にしたんは悪かったと思いますよ。でも、もう30年ほども前の話やないですか。それを蒸し返して、子供に八つ当たりすんのは卑怯やろ!」
光史の叫びが、防音の効いた室内に空虚に響き渡る。
しかし、岸本先生は困ったように首をかしげるだけだった。
「私は、蒸し返しても八つ当たりもしてませんよ? だって、そんなことする理由もないし。」
岸本先生は、ピアノの鍵盤を慈しむように一撫でしてから、真っ直ぐに光史を見つめた。
「僕はただ、男性である光男君がピアノをやってて、それを水流君に馬鹿にされたり否定されたら、傷つくやろなあって思うたから、話させてもろただけですから。」
その言葉に悪意や棘は一切なく、ただそこにある事実を述べているだけの響きだった。
「彼、真面目で練習熱心やから、辞めたら勿体ないとは思うんですけど。どうか彼のピアノを否定せんといて欲しいけど、こればっかりは親子間、家族の話やから、私が口出しできることではありませんからねえ。」
光史の心の中で、何かが激しく音を立てて崩れていく。
「俺は、光男の趣味を否定したりケチ付けたりしたことはあらへん!」
光史が必死に叫ぶと、岸本先生は「それならよかった。」と、心から安堵したように優しく微笑んだ。
その純粋な喜びに、光史は絶句した。
光男が言っていた事は本当だったのだ。
岸本先生は、復讐心や恨みからではなく、本気で光男を、そして光男が愛する音楽を守ろうとしていた。
「……なあ、岸本先輩。ほんまのほんまに、俺があんたの事馬鹿にしたのを恨んで、光男にあんなこと言ったわけやないんか? そもそも、ほんまに恨んでへんのか?」
光史の問いに、岸本先生はやはり「そやから、恨む事なんて何もあらしませんよ。」と答える。
「だって、そりゃ、馬鹿にしたことは悪かったけど……でも、馬鹿にされたり、悪口言われたら、恨みの一つでも残ってたりしてやなあ……。」
光史が食い下がると、岸本先生は本当に光史が何を言っているのかわからない、といった顔で返答した。
「だって私は、その悪口とやらを一つも受け取らなかったのに、何を恨む必要があるんです?」
その瞬間、光史は自分がどれほど惨めで、器の小さな人間であったかを突きつけられた。
放たれた悪意の礫を、岸本は30年前も今も、ただの一粒さえ受け取っていなかったのだ。
「……なんやろう、暖簾に腕押しってこういう事かって思えて来た……帰ります。」
光史は、力なくそう呟くと、逃げるように椅子から立ち上がり、教室を後にした。
背後からは、岸本先生の丁寧な挨拶が追いかけてきた。
「はい、お気をつけて。」
廊下に出た光史の耳に、、静かで美しい静寂がまとわりついて離れなかった。
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辺りはすっかり暗くなり、街灯が寒々しく夜道を照らし始めている。
光史は力なく、とぼとぼとした頼りない足取りで帰路に就いていた。
「岸本先輩……」
一歩進むごとに、忘れていたはずの古い記憶が芋蔓式に引きずり出されてくる。
思い返せば、あの人を軽んじていたのは自分だけではなかった。
光史の友達である川嶋という男は、悪ふざけがヒートアップするにつれ、背後から先輩に膝蹴りを食らわすような野卑な真似まで平気で繰り返していた。
それでも岸本先輩は、眉を八の字に下げて「やめなさい」と窘めるだけで、決してやり返すことはなかった。
井上という生意気な後輩に至っては、目に余る振る舞いを注意された際、「怒っても全然怖ないわ!」とゲラゲラ笑い飛ばして馬鹿にしていた。
当時の先輩はどこまでも優男風で、喧嘩など微塵も知らなそうに見えていたからだ。
「あの人が、実はボクシングをやってたなんてな……」
光史は自分の背筋を冷たい汗が伝うのを感じて、激しく身震いした。
もしも岸本先輩が穏やかな人格者ではなく、恨みを溜め込み、拳で復讐を遂げるような人間であったなら、自分たちは今頃どうなっていたか。
今更ながらに、鼻先を掠める鋭いパンチの風圧を想像してしまい、言い知れぬ恐怖が全身を支配する。
無傷で家路についている現状が、奇跡のようにすら思えてきた。
「でも、ピアノを馬鹿にしてしもたんは事実としても、もう30年も前の話や。なんで今頃そんな話が巡り巡ってきよんねん、クソッ……」
光史は遣る瀬ない苛立ちを吐き捨てるように毒づき、重い足を前に進めた。
その時、不意に何処からか強烈な視線を感じて、光史は立ち止まって目を凝らした。
暗がりの路地裏に、異質な佇まいの人影が一人、彫像のように佇んでいる。
黒いベレー帽を被り、黒いズボンタイプのセーラー服を纏った小柄な女の子だった。
銀色の長い髪が夜風に靡き、一点の曇りもないまん丸の大きな目で、じっと光史の魂を覗き込むように見つめている。
その口は、奇妙な台形を描いてぽっかりと開いたままであった。
あまりにも非現実的なその姿に、光史は声を出すことも忘れてあっけにとられる。
「えらいこっちゃ」
女の子が突然、小さな口から一言を発した。
鈴の音のような、それでいて不可解な重みを持った言葉が、夜の静寂に波紋を広げていく。
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「なんや、御嬢ちゃん?」
光史は、目の前の奇妙な少女の迫力に圧されながらも、努めて穏やかな声で語り掛けた。
女の子は、感情の読み取れないまん丸な目でじっと光史を見据えたまま、台形の口を小さく動かした。
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」
「そうか。で、えらいこっちゃんは、ここで何してるんや?」
光史が、不審者ではないかと疑いながら尋ねると、彼女は銀色の髪をさらりと揺らした。
「これから食堂業務に行くところ、おさぼりさんは、えらいこっちゃ。」
「そうなんか?ほな、頑張ってな。」
光史は、関わり合いを避けるようにその場を去ろうとしたが、背中に向けて少女の鋭い言葉が飛んできた。
「おっちゃんは、『あっく』を抱え続け取る、無自覚荷物、仰山背負いよってからに、えらいこっちゃ。」
光史は、ピタリと足を止め、怪訝そうな顔で振り返った。
「え?あ、あっく?肉を煮たら出る、灰汁の事か?」
光史が、自分の服に汚れでも付いているのかと首をかしげると、えらいこっちゃ嬢は、指をびしっと光史に突きつけた。
「全く無自覚、えらいこっちゃ。」
「な、何を言うとんのや、この子は……。」
光史が、呆気にとられていると、少女はトテトテと近づいてきて、光史を見上げるようにして告げた。
「荷物の下ろし方も知らんおっちゃん、えらいこっちゃ。食堂で荷物の下ろし方知っとかへんと、一生抱えて押しつぶされよる。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!」
彼女は、切迫した様子で両手をぶんぶんと振り回した。
「今日のメニューはパン特集、カレーパンは絶品逸品、えらいこっちゃな美味さ満載!」
少女は、小さな手で、光史の大きな手をぎゅっと掴んだ。
「明日の朝飯、ダークエルフ姉ちゃんの総菜パンで、えらいこっちゃな絶品朝食!」
えらいこっちゃ嬢は、見た目からは想像もつかないような力強さで、光史の手を引っ張って歩き出した。
「な、ちょっと、いや、まあ、おっちゃんもパン好きやけど、そんな引っ張らんでも……。」
光史は、抗おうとしたが、少女の勢いに押されてズルズルと引きずられていく。
振りほどこうと思えばできたはずだったが、岸本先生とのやり取りが泥のように胃の腑に溜まり、ずっとモヤモヤしていた。
一人で帰宅して、暗い気持ちでパンをかじるよりも、この不思議な少女について行ってみるのも良いかもしれないと、光史はそんな投げやりな好奇心に身を任せることにした。
「ほな、家族に晩御飯食べてくるって連絡するから、一旦待ってくれるか?」
光史が立ち止まってお願いすると、えらいこっちゃ嬢は「えらいこっちゃ」と呟きながら、大人しく足を止めた。
光史はスマートフォンを取り出すと、「ちょっと一人で考えたい事があるから、晩御飯はいらん。光男の事、頼む。」と、妻に向けてメッセージを飛ばした。
送信完了の通知を見届けると、光史は再び、銀髪の少女に導かれるまま夜の闇へと踏み出した。
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暫く歩くと、暗闇の中にぼんやりと温かな光を放つ、木造の綺麗な建物が見えてきた。
店の正面まで来ると、看板に刻まれた「摩訶不思議食堂」という古風な文字が、光史の目に力強く飛び込んできた。
えらいこっちゃ嬢は元気よく扉をガラガラと開け放ち、店内に響き渡る声で叫んだ。
「えらいこっちゃな『あっく』おっちゃん御一名!」
彼女は有無を言わせぬ勢いで光史を促し、木肌の温もりが感じられるカウンター席まで案内した。
光史が落ち着かない様子で腰を下ろすと、厨房の奥から一人の女性が姿を現した。
彼女は、眩いほどの銀髪を丁寧に三つ編みにして背中に垂らし、深い海のような青い瞳と、健康的な褐色の肌を持っていた。
そして何より目を引くのは、その端正な横顔に添えられた、ピンと尖った不思議な形状の耳だった。
その目を見張るほどの美貌を、彼女はレストランのシェフが被るような長い白い帽子と、清潔感のある白いコックコートで見事に包んでいる。
「いらっしゃい。えらいこっちゃんも、お帰り。準備はバッチリさね。後はラビさんに揚げて貰うだけだよ。」
彼女は光史に視線を向け、親しみやすい笑顔を浮かべながら軽やかにウインクをしてみせた。
「ダークエルフねえちゃんのカレーパン、ラビさんが揚げると、えらいこっちゃな絶妙パンに大変身!」
えらいこっちゃ嬢はそう言って手をぶんぶんと振りながら、厨房のさらに奥へと姿を消していった。
「御新規さんも、ゆっくりしてってね。」
ダークエルフと呼ばれた彼女は、優しく微笑んでから再び作業に戻るために奥へと去っていった。
入れ違いに、カウンターを挟んだ向こう側から、ぬっと巨大で穏やかな影が姿を見せた。
石を削り出したかのような質感でありながら、生きているかのような温かみを帯びたお地蔵さんだった。
「いらっしゃいまし。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは、地蔵店長と呼んで下さいます。」
地蔵店長は静かに合掌してお辞儀をすると、慈愛に満ちたニコニコとした笑顔で挨拶をした。
「あ、えっと、俺は水流光史です。会社員です。」
光史は、その圧倒的かつ神聖な存在感に飲まれ、咄嗟に居住まいを正して自己紹介を返した。
だが、挨拶を終えた後も、光史の脳内は激しい混乱の渦に飲み込まれていた。
「なんや、妙なことを言い出す女の子に、耳が尖った褐色の超美人、ダークエルフとか呼ばれてた女性に、それに目の前にいる、言葉を喋り笑うお地蔵さん……俺、今流行りの異世界転生してしもたんか……?」
光史は、自分の頬をつねりたい衝動を必死に抑えながら、次々と現れる常識を超越した存在に、ただただ驚きに目を見開くばかりであった。
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光史がその異様な光景に圧倒されていると、いつの間にかえらいこっちゃ嬢が隣に立っていた。
彼女は黒いベレー帽はそのままに、黒い作務衣の上に白い割烹着を着用した姿へと様変わりしており、無言のままスッとメニュー表らしきものを光史の前に差し出した。
光史が困惑しながらもそれを受け取って開くと、そこには驚くほど豊富なパンの種類が記されている。
「パン、か……そういえば、中学の頃、昼はパンの時もあったもんやな。学校行く前に、コンビニでパンと珈琲牛乳とか買ってさ。がっつり系のパンとおにぎりを、よう食べてたわ。」
光史はメニューの文字を追いながら、懐かしさに目を細めて微笑んだ。
陸上部に所属し、常に腹を空かせていたあの頃。
母の弁当がない日は、登校前にコンビニエンスストアへ寄り道し、パンとおにぎりを買い込むのが日常だった。
昼休みや部活の練習が始まる直前、空腹を満たすために頬張ったパンの味。
特にカレーパンは大好物で、当時はがっつりとした牛肉カルビおにぎりとセットで食べるのが光史の定番だったのだ。
「がっつり系が好きなんだね。ソーセージパンとかどうだい?濃厚クリームパンや総菜パンも揃ってるよ♪」
ダークエルフの女性がまた厨房からひょっこりと顔を出し、光史の好みを言い当てて提案してきた。
彼女はその類稀なる美貌を湛えながら、いたずらっぽく可愛らしくウインクをしてみせる。
そのあまりに魅力的な仕草に、光史は思わず心臓を跳ねさせ、顔を赤らめてドキリとさせられた。
「ほ、ほな、カレーパンと……そやな、栄養の事も考えて、この野菜サンドって言うの、お願いできますか?」
光史が少し照れながら注文を告げると、隣にいたえらいこっちゃ嬢が素早く反応した。
「絶品カレーパンと絶品サンド、えらいこっちゃなコンビネーション!」
彼女は機械的な手つきでメニューを光史から回収すると、また慌ただしく厨房の奥へと消えていった。
「はいよ。ラビさん、それじゃあカレーパン、宜しくね。サンドイッチはアタイにお任せあれ。」
ダークエルフが満面の笑みで奥へ声をかける。
「あいよ。しっかり、ええ感じに揚げさせて貰いますえ。」
どこかおっとりとした、にこやかな声が厨房から響き渡り、やがて油が弾けるパチパチという心地よい音がし始めた。
香ばしい匂いに誘われ、光史は気になってカウンター越しに厨房の様子をちらりと覗き込んだ。
そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
真っ白な毛並みの兎が、棒のような細い形をした穏やかな目と笑顔を浮かべ、2本足で器用に立っている。
その小さな手足で、真剣な眼差しを向けながら、大きな鍋でカレーパンを丁寧に揚げている姿を、光史ははっきりと目撃してしまった。
「兎が、カレーパン揚げてる……俺、やっぱり途中で事故って異世界転生したんか?」
光史はあまりに非現実的な現実を前に、重力に逆らえなくなったかのようにずるりとカウンター席で脱力した。
岸本先生への罪悪感や混乱すらも一時的に吹き飛ぶほどの、圧倒的な摩訶不思議。
光史は目の前で繰り広げられる「兎による調理」という奇跡を、魂が抜けたような顔で見つめ続けることしかできなかった。
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光史が御絞りで手を拭いて暫く待っていると、やがてカレーパンの良い香りが漂ってきた。
お皿に乗った紙の包み紙に丁寧に入れられたカレーパンと、別の皿に乗った綺麗でおいしそうなサンドイッチを乗せたトレイを持って、えらいこっちゃ嬢が運んで来てくれる。
カウンター席のテーブルに置かれた、見た目も綺麗で美味そうなカレーパンとサンドイッチに、光史は思わずごくりと喉を鳴らした。
すると。
「パンでも米飯でも、合掌して頂きますせな、えらいこっちゃな礼儀知れず」
えらいこっちゃ嬢が、びしっと両手を腰に当てて言い放つ。
「あ、ああ、そやな。」
光史は、美味しそうなパンを前に「頂きます」と合掌して頭を下げてから、紙に包まれたカレーパンを一口食べた。
外はサクッとした揚げたてカレーパン独特の食感が絶妙で、中は熱々のカレーに、見事に食べやすい大きさの人参と玉ねぎに肉も入っている。
実に豪華で美味しいカレーパンに、光史の強張っていた顔はほっこりとほころんだ。
「う、美味い、こんな美味いカレーパンは初めてや!高級パン屋のカレーパンを超えてるんとちゃうか!」
光史は、嬉しそうにもう一口、また一口と頬張った。
そしてカレーパンを平らげた後、サンドイッチを食べる。
しゃきしゃきのレタスと胡瓜に食べ応えのあるハムの野菜サンドも、ふんわり卵がぎっしり詰まった卵サンドも、今まで食べたサンドイッチの中で一番美味いと感じる美味しさだった。
こんなに美味いものなら、家族にも食べさせてあげたい。
食べ終わった光史は、満足感に浸りながらふと思い出した。
「そういえば、明日の朝飯とか、えらいこっちゃんが言うてたっけな。お持ち帰りに買って帰ろかな。」
光史は、ほっこり満足した顔になり、家族の喜ぶ顔を想像しながら、持ち帰りの注文をしようと顔を上げた。
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光史が満足げに一息つくと、えらいこっちゃ嬢が素早い手つきでお皿を下げてくれた。
入れ替わるようにダークエルフの女性が姿を見せ、光史の目の前で珈琲を淹れ始める。
ゴリゴリと豆を挽く音が店内に響き、丁寧にお湯が注がれると、本格的で上品な珈琲の香りが辺り一面に広がり、光史は再びほっこりとした心地良さに包まれた。
「はい、お待たせ。気に入ってくれたみたいで嬉しいさね。お持ち帰りパンにもあるからね。」
ダークエルフは優しく微笑んでウインクを飛ばすと、軽やかな足取りで厨房へと戻っていった。
そこへえらいこっちゃ嬢がスッと現れ、「お持ち帰り用」と書かれたメニュー表を光史の手元へ差し出した。
「どれどれ……。」
光史が中を開いてみると、そこには奇妙な区分けがなされていた。
「良いパン」と「悪いパン」という二つの項目があり、驚いたことにどちらも同じ御品書きが並んでいる。
「何やこの、悪いパンって? 良いパンだけでええんとちゃうん?」
光史は不思議に思い、思わず首をかしげた。
しかし、得体の知れないものへの好奇心、あるいは怖いもの見たさというべき感情が、光史の胸に湧き上がった。
「あの、じゃあこの、悪いパンのところにある『悪いクリームパン』を1個、試しに食べてみたいんやけど、出来ますか?」
光史が恐る恐る注文すると、えらいこっちゃ嬢は表情一つ変えずに応じた。
「悪いクリームパン一丁! えらいこっちゃ。」
彼女はそう言い残すと、足早に厨房の中へと消えていった。
一体何が「悪い」のだろうか。
光史は、その正体についてあれこれと想像を膨らませた。
見た目が極端に不細工だったり、子供が泣き出すような失敗したキャラクターパンだったりするのだろうか。
あるいは、単に形が少し歪なだけなのかもしれない。
そんなことを考えていると、やがてえらいこっちゃ嬢がお皿を持って戻ってきた。
カチャリ、と乾いた音を立ててテーブルに置かれたのは、光史の予想を遥かに超える代物だった。
そこに乗っていた「悪いクリームパン」は、あまりにもいびつで、いや、いびつどころか原型を留めないほどぐちゃぐちゃに潰れていた。
中からはドロドロとしたクリームが不気味に溢れ出し、およそ食べ物とは思えないような無残な姿を晒している。
あまりにも出来が悪すぎる、まさに「悪いクリームパン」としか言いようのない代物を目の前にして、光史はただただ驚き、目を白黒させるばかり。
光史は目の前の無惨なパンの残骸を指差し、思わず椅子から立ち上がりそうになった。
「いや、悪いどころやないやんこれ!?とてもじゃないけど、商品として出したらあかん奴やがな!」
カウンターに置かれたそれは、クリームパンの面影など微塵もない、ただの汚らしい塊にしか見えなかった。
えらいこっちゃ嬢は、不満げに鼻を鳴らした。
「注文しといて拒否するのは、わがまま過ぎて、えらいこっちゃ。」
「いや、流石にこれはあかんやろ。返品や返品、良いクリームパンと交換してや。差額出すから。」
光史は、釈然としない思いでメニューをもう一度開き、その価格設定に驚愕した。
「あ、値段一緒なんや。じゃあ、なおさら交換してや。良いクリームパンの方が絶対良いに決まってるで。」
すると。
「おや、そうなのかい?てっきり、こういうのが大好きなのかって思ったんだけどねえ。」
厨房の奥からダークエルフの女性が顔を出し、心底不思議そうに首をかしげた。
「おたくの姿を観察して、こういうのも大好きだと思ったんだけど、違うのかい?」
彼女の澄んだ瞳に、馬鹿にしているような色は微塵もなかった。
「冗談キツいですよ、美人のお姉さん……まさか、潰れた出来の悪いパンなんて、誰も好きなわけないやないですか。」
光史が苦笑いしながら答えると、いつの間にかえらいこっちゃ嬢が、別の皿を差し出してきた。
そこに乗っていたのは、真っ白なクリームで「アホ」「ボケ」と無造作に書き殴られたクリームパンだった。
「なんやこれ、悪いクリームパンやのうて、悪口パンやん。まあ、おもろいけど。良いクリームパンと交換してえな。家族3人分やから、良いクリームパン3つ、この悪口パンと潰れてるやつと交換してや。」
光史が声を上げて笑うと、ダークエルフの女性は呆れたような笑みを浮かべた。
「こっちの文字が書いてあるパンは、もっと好きかと思ったんだけどねえ。」
「『あっく』を抱え続けてるのに、『あっく』が嫌いとか、えらいこっちゃな矛盾おっちゃん!」
えらいこっちゃ嬢が、びしっと光史に向けて指を突き立てた。
「え?な、なんやそれ……そういえば、灰汁がどうとか言うとったな。」
光史の返しに、少女は苛立ちを隠さず叫んだ。
「『灰汁』やない!『あっく』!『悪口』と書いて『あっく』、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢は、皿の上の悪口パンを力強く指し示した。
「え?え?ど、どういうことや?それに、俺が悪口が好きって……いや、誰だって悪口は嫌いやろ?」
光史は、目の前の光景と少女の言葉の不気味な繋がりを理解できず、ただただ戸惑いの渦に飲み込まれていくのだった。
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「注文キャンセル、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢はそう言い残すと、原型を留めないほど潰れた悪いクリームパンと、クリームで「アホ」「ボケ」と殴り書きされた2つのパンをトレイに乗せて、足早に厨房へと戻っていった。
それを見届けていたダークエルフの女性は、コロコロと鈴の鳴るような声で笑った。
「ま、こうなる事はわかってたからね。賄い飯にさせてもらうさね」
彼女は楽しげに言い残し、三つ編みを揺らしながら厨房の奥へと消えていった。
光史は、自分が好奇心で注文した手前、少しばかりの気まずさを感じながらも、流石にあの無惨な代物を金を出して買う気にはなれなかった。
「まあ、俺が注文したんは確かやから、悪かったけど、流石にアレはないで。ほな、良いクリームパンと、良いサンドイッチを、明日の朝食用に家族3人分お願いします」
光史は、あの食べられそうにないパンが無駄にならず、彼女たちの食事になるのなら良かったと、小さく安堵の息を漏らした。
「賄いになるなら、無駄にならへんから良かった」
独り言のように光史が呟くと、これまで静かに微笑んでいた地蔵店長が、ニコニコとした穏やかな表情を崩さぬまま問いかけてきた。
「キャンセルされる、つまり差し出したものを相手が拒否したり受け取らなければ、どうなりますかねえ」
「え?そりゃ、返品ですよ返品。パンに限らず、どんな商品でもそうですやろ?」
光史は、何を当たり前のことを聞くのかと、不思議そうに答えた。
そこへ、パタパタとスリッパの音を立てて、えらいこっちゃ嬢が「アホ」と書かれたパンを片手に持って再び現れた。
「賄い飯、ダークエルフねえちゃんのクリームパンは、えらいこっちゃな絶品さん」
ダークエルフの女性が彼女に芳醇な香りの珈琲を淹れてあげながら「ふふ、ありがとさんね」と微笑むと、彼女は再び作業へと戻る。
えらいこっちゃ嬢はカウンターの端に座ると、小さな手を合わせて「生きてること自体がえらいこっちゃな奇跡の連続、感謝して頂きます、えらいこっちゃ」と深く頭を下げた。
それから、もそもそと、しかし実に美味そうにその「悪口パン」を頬張り始めた。
「なんや、味は悪くはないんか。悪口書いてあるだけかいな。それやったら、そっちの方がおもろかったから、悪口パンでもよかったかもな」
光史は、そのギャップを可笑しそうに笑い飛ばした。
しかし、えらいこっちゃ嬢は真剣な眼差しで、ダークエルフに淹れてもらった珈琲を一口飲み、静かに言葉を返した。
「アホパン拒否されたから、アホパン提供者に帰って来たから、こうして食べとる。悪口をおっちゃんに出したら、受け取らんから出したもんが持って帰らなあかん、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢のその言葉は、静かな店内を通り抜ける夜風のように、光史の耳に不思議な余韻を残した。
「そりゃまあ、そうやろ、普通に考えて。さっきから何を言うてるんや、えらいこっちゃんは」
光史は、彼女が何をこれほど真剣に説いているのか、その真意を掴みかねて首をかしげるばかりだった。
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クリームパンを最後の一口まで綺麗に食べ終え、ダークエルフが淹れた珈琲を音を立てずに飲んだえらいこっちゃ嬢は、不意にその手を止めた。
「まだ気づいとらん、えらいこっちゃなあっくおっちゃん。」
彼女は感情の欠落した瞳で光史を射抜くと、すたこらと厨房の奥へと消えていき、今度は真っ白な陶器の盃と透明な炭酸水の瓶を両手に持って戻って来た。
えらいこっちゃ嬢は、困惑する光史に有無を言わせぬ勢いでその盃を持たせると、彼が両手で恭しく捧げ持つ器の中へ、勢いよく炭酸水を注ぎ込んでいく。
シュワシュワと気泡が激しく弾ける音を聞きながら、光史は怪訝そうに首をかしげた。
「なんやこれ、酒……いや、炭酸水か? 水割りでも作ってくれるんか?」
いつの間にか、ダークエルフの女性がカウンター越しに地蔵店長と肩を並べて立っていた。
彼女の鋭いながらも慈愛に満ちた青い瞳が、逃げ場を塞ぐように光史を真っ直ぐに見据える。
「ちゃんと目をそらさないでよく観て、そして耳を澄ませときな。」
ダークエルフはそう告げると、細い指先をパチンと小気味よく鳴らした。
すると、盃を満たす透明な水面が生き物のように激しく揺れ、立ち上る気泡の中に見たこともない光景が、鮮明な色彩を伴って映り込み始めた。
光史が息を呑んで水面を覗き込むと、そこには広大な運動場を土煙を上げて駆け抜ける、若かりし頃の自分の姿があった。
「これは……俺か? 中学の陸上部で走ってる頃や。」
光史は、その懐かしくも生々しい情景に、全身の毛穴が逆立つような感覚を覚えた。
映像は切り替わり、部活動の休憩時間と思われる場面が映し出された。
木陰で水筒の水を喉に流し込んでいる1人の男子生徒に、画面の中の光史がヘラヘラとした卑屈な笑みを浮かべながら近づいていく。
「これは……岸本先輩?」
光史は、中学時代の岸本先生と思われる、どこか線の細い、それでいて凛とした少年の横顔を食い入るように見つめた。
その瞬間、パチパチと炭酸の気泡が耳元ではじける音と共に、当時の自分の声が、今の光史の鼓膜を容赦なく叩き始めた。
「なあ先輩、まだピアノやってんの? 男のくせに、ピアノとか、ピアノ先輩やねえ。ピアノ! ピアノー!」
盃の中から溢れ出してきたのは、悪意に満ちた、耳を覆いたくなるような幼稚な嘲笑だった。
若き日の自分は、相手の尊厳を土足で踏みにじることに何の躊躇いも見せず、その才能と努力を最大限の侮辱をもって汚していた。
「ピアノ! ピアノー!」という囃し立てが、こだまのように何度も繰り返される。
光史は、自分自身の口から放たれた醜悪な「悪口」を、逃げ場のない至近距離で、まざまざと突きつけられることになったのである。
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その後も盃の水面には、光史にとって見るに堪えない、聞くに堪えない光景が、残酷なほど鮮明に展開されていく。
目を背け、耳を塞ぎたくなったその瞬間。
「目を逸らして耳をふさぐんじゃないよ!」
鋭く響き渡る咆哮に、光史が顔を上げると、そこには険しくもどこか悲しげな表情で自分を射貫く、ダークエルフの姿があった。
光史は、その気迫にぞくりと背筋を凍らせ、逃げ場を失ったまま再び盃の中へと視線を戻した。
水面の中では、他の後輩たちまでもが、岸本先輩に対して非道な振る舞いを繰り返していた。
親友だった川嶋が、無防備な先輩の背後から強烈な膝蹴りを見舞う。
後輩の井上が「先輩って喧嘩弱そうだから、どんなに怒っても怖くないで」と、ゲラゲラ笑いながら揶揄う。
それは、およそ後輩が先輩に対して行うことではない、あまりにも失礼で、あまりにも醜い行いの数々だった。
しかし、そんな仕打ちを受けてもなお、岸本先輩が感情を爆発させることは一度もなかった。
彼はただ、至極真っ当で誠実な言葉を選び「そんな事をしてはいけない」と、自分たちを根気強く諭し続けていたのだ。
やがて場面は切り替わり、岸本先輩が卒業式の日に、陸上部の後輩たちから贈られた寄せ書きを一人で見つめている。
色とりどりのメッセージが並ぶその中心に、光史の筆跡で記された一文があった。
「君は速かった、でもピアノだった」
当時は「お洒落なジョーク」のつもりで書いたその文字が、今見ると、吐き気を催すほど残酷で浅はかな侮辱として突き刺さる。
その文字を見つめる岸本先輩の背中が、一瞬だけ寂しげに揺れたような気がした。
やがて、盃を揺らしていた光景は静かに消え、ただの透明な炭酸水へと戻っていった。
光史は、力なく盃をカウンターに置き、深く、深くうなだれた。
「……アホな事、してたんやなあ、俺……」
震える声で漏らしたその言葉は、30年という月日を経て、ようやく自分自身の心へと届いた「自覚」の重みだった。
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## 水流光史の口を慎むほっこり飯
「俺、確かに先輩に悪口ぶつけてたわ。えらいこっちゃんも、耳尖った美人さんも、これを突きつけたかったん?」
光史は力なく零した。
「半分正解。もう半分は、さっきえらいこっちゃんが言った事にヒントがあるさね」
カウンターの奥でダークエルフは目を細め、青い瞳で光史の魂を見透かすように見つめる。
光史は「え?」と目を見開き、これまでにえらいこっちゃ嬢から投げつけられた不可解な言葉の数々を必死に思い返した。
「確か、『あっく』がどうとか……悪口を、あっく、とか言ってたな。つまり、俺は口が悪い奴っていいたいんか?」
すると、これまで静かに微笑んでいた地蔵店長が、光史の問いかけに福々しいニコニコお地蔵さん笑顔で答えた。
「確かに、そういう意味も御座いましょう。悪口を言う人は、口が悪い人と言う事も出来るでしょうからねえ」
地蔵店長は笑顔を崩さぬまま、穏やかで、しかし慈悲と厳しさを孕んだ仏の教えを語り出す。
「仏教では、『悪口』と書いて、『あっく』と読みます」
地蔵店長の話は、夜の静寂に染み入るように続いていく。
「そして、この悪口を含めた口に関する戒めが、十善戒と言う戒の中に4つあります。それほどまでに、話すことや口から出る言葉に対して、戒める事柄があるという事で御座います」
その声は、光史の荒んだ心の奥底へと、染み渡るように響いていく。
地蔵店長は、合掌した手を解かずに言葉を重ねる。
「悪口についての戒は『不悪口』と言います。粗暴な言葉であったり、汚い言葉を使わないという事と、他人の悪口を言わないようにという戒めで御座います」
地蔵店長は一旦言葉を区切り、光史の表情を見ながら言葉を紡いでいく。
「悪口を言う事は、自らの心を汚す行為であり、相手だけではなく、実は自分自身をも汚している行為と、仏様は教えて下さいます」
地蔵店長は、柔和なお地蔵さん笑顔で、更に仏の教えを伝えていく。
「悪口とは、『両刃の斧』と例えられることもありましてね、悪口は相手だけでなく、自分自身をも斬る刃であり、言った本人も傷つくという事です」
光史は「岸本先輩にぶつけた言葉で、俺自身も傷つけてた?汚してたってことか?」と震える声で呟いた。
地蔵店長は合掌したまま、まるで迷える子羊を導く慈父のような眼差しを光史に向けた。
「こんな話を聞いたことがありませんか?『悪口を言っている人の顔は醜い』と。悪口を言っている時の光史さんは、綺麗な顔をされていましたかねえ。それとも、醜く汚れた顔をされていたでしょうかねえ」
微笑みながら突きつけられた鋭い問いが、光史の心臓を鷲掴みにする。
光史は盃に溜まった炭酸水の水面を覗き込み、そこに映し出された30年前の自分を凝視した。
「……あんなこと言いながら笑ってる俺の顔、今、この盃に映ったあの時の顔を見て、とてもじゃないけど、綺麗なんて言えへん……むしろ、あんな汚かったなんて……」
自分の優越感のために先輩を嘲笑っていた醜悪な表情は、誰よりも自分自身を汚していた事実そのものだった。
光史はあまりの後悔と嫌悪感に、ただ言葉を失い立ち尽くすしかなかった。
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「でも……岸本先輩、よう怒らへんかったな、あんなに後輩達に言われ放題で……」
光史は、盃の底に残った僅かな気泡を見つめながら呟いた。
あんなに執拗に、寄ってたかって侮辱されていたというのに、あの人は一度も声を荒らげることも、力でねじ伏せようとすることもなかった。
「まさに、賢者の在り方を体現されていましたねえ」
地蔵店長は、ニコニコと微笑みながら答えた。
「賢者て……まあ、岸本先輩は気が弱くて喧嘩も弱かったから、後輩にもびびってたんやろうけど」
光史は、かつての偏見をなぞるように鼻を鳴らした。
すると、横でコーヒーを飲んでいたえらいこっちゃ嬢が「まだ半分もわかっとらん、えらいこっちゃ」と、びしっと光史に指を突きつけた。
「いや、ちゃんとわかってるよ。流石に思い出して来たし、確かにそんな事言うて揶揄ってしもたなあって、反省してるって。ほんまやで、信じてや」
光史は慌てて、必死に弁明した。
しかし。
「先輩はもっと大事なことに気づいてた。悪口おっちゃんは、もっと重要な事に全く気付いとらん、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢は、冷ややかな目で光史を見据え言い放った。
その緊迫した空気を宥めるように、地蔵店長が穏やかな声を響かせる。
「先程、光史さんは『悪いクリームパン』を受け取らずにキャンセルされました」
光史は「え?ああ、はい。そりゃ、悪口パンは百歩譲れても、あの潰れたパンは、流石に受け取れませんよ」と、当然のこととして頷いた。
地蔵店長は、その答えを待っていたかのように、ニコニコとした笑顔を深めて問いを重ねる。
「受け取らなかった場合、誰が引き受けることになりましょうかな?」
「え?そりゃ、作った人とか、店側でしょ?」
光史は、当たり前の常識を答えるように首をかしげた。
「いかにも。ゆえに、えらいこっちゃんが、店側の提供者と言う事で、賄い飯として頂かれました」
地蔵店長は、お地蔵さん笑顔のまま、その言葉の裏にある「真理」を光史の目の前に差し出した。
「先輩の名前は岸本先輩でしたね?では、あなた以外の後輩さん達もそうでしたが、光史さん達が投げつけた言葉を、岸本先輩は受け取られましたか?」
光史は「え?」と、その問いの意味が一瞬理解できず、思考が停止した。
先輩は、自分達の嘲笑も、嫌みも、揶揄いや馬鹿にする言葉も、一切受け取らなかった。
もし、あの時ぶつけた無数の「悪口」を、先輩が一度も「受け取っていなかった」のだとしたら、その言葉は一体どこへ消えたのか。
キィィィィン、という耳鳴りのような音と共に、光史の脳内の歯車が凄まじい速度で回転を始め、30年前の光景が全く別の意味を持って再構築されていく。
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「光史さんの言葉を受け取らなかった場合、その言葉はどこへ行ったのか、お気づきではありませんか?」
地蔵店長は優しく微笑んだまま、まるで光史の心を読んでいるのではないかと言うくらい、鋭く的確な問いを投げかける。
「空に消えるとか、霧散するとか、じゃないんですか?」
光史は、自分の放った言葉がどこへ行ったのかを恐る恐る尋ねる。
すると、ダークエルフはそう言って、カウンター席までゆっくりとやって来た。
「じゃ、今その言葉達が、どこにあるか見てみるかい?」
そういうと、彼女は祝詞のようなものを称えながら、また豆を丁寧に挽いて行き、フィルター越しに湯を注いで珈琲を丁寧に入れていく。
その一部始終の所作があまりにも美し過ぎて、光史は思わず見とれてしまった。
「珈琲のおかわりをどうぞ」
ダークエルフはそう言ってから、また地蔵店長の隣に立つ。
「あ、有難う御座います。頂きます」
光史は、差し出された珈琲を一口飲んだ。
その瞬間、ダークエルフとえらいこっちゃ嬢が、同時に指を「パチン」と鳴らした。
そして光史の体中、服の上にもびっしりと光る文字が浮かび上がって来る。
「うわ!? な、なんやこれ!?」
光史は慌てて文字を叩いたり払ったりするが、一向に消えない。
そして、文字が自分にまとわりついている事を認識した瞬間。
光史は凄まじい体の重み、文字の重みを感じて身動きが取れなくなる。
「文字をよく読んでみな」
ダークエルフに促され、光史は視線を下げて胸のあたりから腰に掛けて書かれている文字を見た瞬間。
光史は、その場で凍り付いた。
そこには「ピアノピアノ!」「男がピアノとか女みたい」「男がピアノをするのは変」という、かつて自分が嘲笑と共に投げつけた醜い言葉たちがびっしりと書き込まれていた。
相手が受け取らなかった「悪口」のすべてが、30年もの間、自分自身の体に重石のように張り付いていたのである。
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## 言葉という名の贈り物
「仏教には、悪口を戒める御話に、このような物語が御座います」
地蔵店長は、優しい語り口調と優しい笑顔でありながら、光史にとって耳が痛い仏教の物語を伝え始める。
「ある時、仏陀の前に立ちはだかって、酷い言葉を投げつける男がおりました。
仏陀は何も言わず、ただただ黙ってその男の言葉を聞いていました。
仏陀の弟子達は『こんな悪口を言わせておいて宜しいのですか?』と言うが、仏陀は言い返すことなく黙って聞いたまま。
その後も男は、一方的に悪口をぶつけ続けましたが、仏陀は相変わらず黙って聞いたまま。
やがて男は、悪態や悪口を言う事に疲れてへたり込んでしまいます。
すると、仏陀は『もしも、他人に贈り物をしようとして、その相手が贈り物を受け取らなかった時、その贈り物は、一体誰のものになるのでしょうか?』と男に尋ねました。
男は『言うまでもない。相手が受け取らなかったら贈ろうとした者のものだろう。わかりきったことを聞くな』と言ってから、『あ!』と気づきました。
仏陀は静かに、こう続けました。
『今、あなたは私のことを酷く罵りました。しかし、私はその罵りを少しも受け取りませんでした。だから、あなたが言ったことはすべて、あなたが受け取ることになるのですよ。』」
地蔵店長の話を聞き終えた瞬間、光史は全身に走る激しい戦慄を抑えることができなかった。
目の前の盃に映り、そして今、自分の服や肌にびっしりと刻みつけられている罵詈雑言。
岸本先輩をこれ以上ないほど傷つけようとして、面白おかしく放ったあの残酷な言葉。
「ピアノ先輩」「男のくせに」「女みたい」という、人格を否定する鋭い言葉の刃。
それらすべてを、あの穏やかだった岸本先輩はただの1度も、ただの一つも、受け取っていなかった。
光史は、自分の体が底知れぬ重力に引きずり込まれるような感覚に陥った。
相手が受け取らなかった悪意は、空に溶けて消えることなどなかった。
贈ろうとした贈り物が拒絶されれば、それは贈り主の手に戻るという当たり前の道理。
つまり、30年もの間、自分自身が放ったすべての汚い言葉を、誰でもない自分自身が引き受け、抱え込み、魂を汚し続けていたのだ。
光史はあまりの衝撃に愕然とし、声も出せずその場に立ち尽くした。
自分が投げた石はすべて自分に当たり、自分が吐いた唾はすべて自分の顔にかかっていた。
体にまとわりつく光る文字が、まるで鉄鎖のように光史を縛り付け、その重みが罪の深さとなって肩にのしかかる。
光史はこれまで自分が「口が悪いだけ」と軽んじてきた行為が、どれほど自分を無残に破壊していたかを知り、ただただ深い絶望の淵に沈んでいくのだった。
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##言葉という名の重石
「その中には、岸本先輩に対して放った言葉ではない言葉もありましょうが、肝要は、それだけの言葉を投げつけて、それだけ送り返されたという事実を知る事に御座います」
地蔵店長は、合掌してお地蔵さん笑顔を浮かべながら、優しくも峻烈な真理を光史に諭した。
「岸本先輩以外にも……俺、色んな人に悪口言ってたんやなあ……」
光史は己の人生を彩ってきたつもりの饒舌さが、実はただの汚泥の積み重ねであったことに愕然として震え上がる。
30年もの間、無意識に、そして無責任に放流し続けてきた「悪口」の膨大さに、光史は初めて恐怖を感じていた。
「全てを返されたわけじゃないだろうからさ、実際にはその体に刻まれている言葉達よりも、もっともっと沢山酷い言葉を発してきた事は確実だろうねえ」
ダークエルフはカウンター越しに光史を冷ややかに見据え、追い打ちをかけるように言葉を突きつけた。
「受け取った人もいただろうし、その事によって喧嘩になっちまった事とか、あるんじゃないかい?」
ダークエルフは光史の過去の争いさえも、自業自得であったことを突きつける。
「重すぎて動けんようになってる、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢は、光る文字の圧力に押し潰され、椅子から崩れ落ちそうになっている光史の無残な姿を指差して言い放った。
光史は、その場から指1本動かすことができないほどの絶望的な質量に耐えかね、「動けなくなるくらいの重さになるまで、俺は……」と、堪えきれずに熱い涙を流し始めた。
その涙は、これまで他人を傷つけて笑っていた自分への嫌悪と、取り返しのつかない過去への後悔が混じり合った、濁った雫となって頬を伝い落ちる。
地蔵店長は合掌して、光史の苦悩を全て受け入れるかのように恭しくお辞儀をした。
「まさに、読んで字の如く、言葉の重みで御座います」
静かに響くその声は、重荷を背負い続ける光史の心の深淵へと、楔のように打ち込まれた。
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##30年目のブーメランと父の涙
光史は「これだけの、重みを……でも、それやったら、なんで……」と、胸元で禍々しく光る文字の羅列に視線を落としながら、喉の奥から絞り出すように声を漏らした。
「ほんまに怒ってへんかったんやったら、俺の言葉を受け取らずに恨む事もなかったら、何で光男と俺との親子仲がこじれるからピアノやめた方がええって、光男に言ったんや?」
混乱と矛盾が光史の頭の中を駆け巡り、やり場のない疑問が噴き出す。
「アタイは岸本先輩って人じゃないからさ、真実はわかんないけど、もしかしたら『観える人』なのかもしれないね」
ダークエルフはそういうと、どこか遠くを見るような目で光を細めた。
「『観える人』?」
光史は首をかしげた。
「そ。あんたにくっついてる言葉や言霊の類が『観える人』。霊感強い人とか言うじゃない? それの似たようなものだと思えばいいさね」
ダークエルフはカウンターを指先でトントンと叩きながら語った。
「見えたからこそ、光史さんから投げかけられた言葉を光男さんが受け取った事で、光男さんの体にわずかでも観られるようになり、光史さんがまだ「男性がピアノを弾く事は馬鹿にする対象である人・ピアノを弾く男性を馬鹿にする人」だと判断し、御子息との親子仲を心配されたのではありませんかねえ。それだと、合点がいくのではありませんか?」
地蔵店長はお地蔵さん笑顔のまま、あまりにも鋭い真実を光史の胸に突きつけた。
光史はダークエルフと地蔵店長の話を聞いて、全てがつながった。
なぜ、岸本先生があのような残酷とも取れる提案を光男にしたのか。
光史の体に今もなお、びっしりと刻みつけられている「水流光史はピアノを習ったりピアノを弾く男性を馬鹿にする人物」という、30年前の「アック(あっく)」の残骸。
それが読めるからこそ、岸本先生は光史が将来、息子である光男に同じ言葉の刃を向けることを予見し、最悪の事態を防ごうと動いたのだ。
それは恨みでも復讐でもなく、相手の身を真に案じた、一貫した誠実さと行動の辻褄が完璧に合う。
「それで、あなた方親子が傷ついたというのであれば、まさに『言葉は両刃の斧の如し』で御座いますねえ」
地蔵店長は合掌しながら、お地蔵さん笑顔でそう言った。
光史は今回の事が、完全に自分が蒔いた種であり、回り回って息子に悲しい顔をさせたのは自分が発端だったという事に気づいた。
「俺の……俺のせいか……。俺が岸本先輩に吐いた、汚い言葉のせいで、光男は……」
ヒタヒタと頬を伝う涙が止まらない。
自分が発端となって息子を傷つけてしまったという救いようのない事実に、光史は激しい後悔の念に焼かれ、ただただ嗚咽を漏らすしかなかった。
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##放たれた言葉と消えぬ業
カチッ、カチッ、と店内の古い時計が時を刻む音が、静寂の中で重く響く。
「俺は、どうすれば……岸本先輩に謝れば、この言葉は消えるんですか?」
光史は縋るような思いで、地蔵店長とダークエルフを交互に見上げた。
「一度言葉を発したならば、それは取り消すことが出来ません。消える事のない事実として残ります。言葉を発した事による業は、消えることも、消すことも出来ません」
地蔵店長は、柔和で優しい笑顔を絶やすことなく、しかし光史にとってこれ以上なく厳しく残酷な現実を突きつけた。
放たれた言霊は、一度空気を震わせれば二度と口の中には戻らない。
「肝要は、気付いたのであるならば、今この瞬間から行いを顧みて、調える事で御座います」
地蔵店長は合掌し、いつものお地蔵さん笑顔で深々とお辞儀をした。
「自分の過ちに気づいたなら、それを反省して、過ちを繰り返さないように生きていくってことさね」
ダークエルフは慈愛に満ちた表情で、光史の心に寄り添うように優しく微笑んだ。
「言葉遣いを丁寧にするとか、悪口を言わんようにしろってことですか?」
光史は、震える声で店長に尋ねた。
「それも1つの方法で御座います」
地蔵店長はそう言ってから、光史を諭すように見据えた。
「仏教には、悪口を戒める教えがある事は、先程申しました通りで御座います。そして、心がけると良い教えも御座いますよ」
地蔵店長は穏やかな語り口で、光史の魂を救い上げるための新たな仏の教えを説き始めた。
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## 和顔愛語の光
「悪口ではなく、相手を思いやる優しい言葉を使う事。相手を思いやる優しい言葉を『愛語』と言います」
地蔵店長は一旦言葉を区切り、光史の心の揺れを見守るように静かに微笑んだ。
「愛語に関連して、『無量寿経』という御経に、『和顔愛語』と言う言葉が御座います」
地蔵店長はさらに笑顔を深めて、光史へと言葉を伝える。
「『和顔愛語にして、意を先にして承問す』、読んで字の如く、穏やかな笑顔で、思いやりのある暖かな慈愛の言葉を発す、と言う事です」
地蔵店長はお地蔵さん笑顔のまま、迷いの中にいる光史を優しく諭していく。
「また、『無財の7施』という、お金がなくてもできる布施が御座います。その一つに『言辞施』がありまして、これは心からの優しい言葉や労いの言葉、感謝や挨拶の言葉をかけることです」
店長は慈しみに満ちた語り口で、光史の荒んだ心に染み渡るように話した。
「悪口ではなく、相手を思いやる良い言葉を、光史さんの口から発していかれると、宜しいのではありませんかねえ」
地蔵店長はお地蔵さん笑顔で合掌し、光史の存在そのものを温かく包み込んだ。
「……はい。和顔愛語、言辞施……決して忘れません。自分が発してきたこの言葉達をきちんと背負って、しっかり向き合い、精進致します」
光史は決意を込めてそう答えると、目の前の3人に向かって深くお辞儀をした。
不思議なことに、頭を下げた瞬間、あれほど重かった光る文字の重圧が僅かに和らぐのを光史は感じた。
自分が発した「悪口」という業が消えたわけではないが、これから何をすべきかという指針が見えたことで、光史の体からは重苦しさが抜け、清々しい軽やかさが戻っていった。
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##言霊の行方と光史の決意
「地蔵店長、えらいこっちゃん、えっと、ダークエルフさんでええのかな、それと、カレーパン揚げてくれはったラビさん、有難う御座います」
光史はカウンターの向こう側に並ぶ不思議な店員たち、そして厨房で穏やかに微笑む白い兎のラビに向けて、深々と頭を下げた。
「俺、ちゃんと岸本先輩に謝罪します。そして、真実を光男にも話します。自分が発した言葉のけじめを、きちんとつけます」
光史は迷いの消えた澄んだ声で宣言すると、残っていた珈琲を最後の一滴まで飲み干してから、力強く立ち上がった。
「それじゃあ、お会計ですね」
光史がそう告げると。
「当店は御布施形式にしております」
地蔵店長は合掌して、お地蔵さん笑顔で丁寧にお辞儀をした。
「それじゃあ、これで。説法代も含んでるって事で」
光史は財布から一万円札を取り出すと、えらいこっちゃ嬢の手元へと手渡した。
「毎度あり! 大金大金、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢は声を弾ませると、お札を大事そうに受け取ってレジの方へと走っていった。
その間にダークエルフが、光史が注文していた家族3人分の明日の朝食用となる、「良いクリームパン」と「良いサンドイッチ」を丁寧に袋に詰めて用意してくれていた。
彼女は温かな湯気が微かに残る袋を、両手で光史に手渡す。
「有難う御座います」
光史は再び丁寧に頭を下げて、ずっしりとした重みのある袋を受け取った。
「もう大丈夫そうだね、しっかりやんな。言葉の重みを忘れず、言葉は言われた方も言った方も傷つける刃にもなるって事、忘れるんじゃないよ」
ダークエルフは慈愛に満ちた表情で優しく微笑み、光史を見守るように言った。
「はい、肝に銘じて生きていきます」
光史は恭しく頭を下げ、かつての自分を縛っていた醜い文字の重圧が消え去った清々しい心で、店を後にした。
「御来店、誠に有難う御座います」
地蔵店長は合掌して、最後まで穏やかなお地蔵さん笑顔を浮かべながら、夜の闇へと踏み出していく客人の背中に向かって深く頭を下げた。
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## 日曜日の朝と不思議な朝食
光史はしばらく歩くと「あ、帰り道を聞くの忘れてた」と呟いたが、更に暫く歩くと、見慣れた道に出る。
光史はしっかりした足取りで家までの道を歩き、我が家に到着した。
既に夜遅く、妻も光男も寝静まっており、風呂に入ってからお茶を1杯飲んだ後、眠りについた。
そして、日曜日の朝を迎え、少し早めに起床した光史は、家族の為に珈琲を沸かして入れる。
コポコポと心地よい音を立てて珈琲が落ち、キッチンからリビングへと芳醇な香りが広がっていく。
起きて来た妻と光男が、その豊かな珈琲の香りに気づいた。
「あなた、コーヒー淹れてくれたん?珍しいやん」
妻はそう言って、少し驚いたように笑う。
「昨日、晩御飯食べに行った食堂で、滅茶苦茶美味しい珈琲入れてもろてな。その珈琲には全く及ばへんけど、なんか俺もコーヒー淹れて飲みたくなってん」
光史は、昨夜のダークエルフの美しい所作を思い出しながら微笑んだ。
「これ、クリームパンとサンドイッチや。その店でテイクアウト用のを3人分買って帰って来たんよ」
光史はそう言って、丁寧に袋から取り出した「良いクリームパン」と「良いサンドイッチ」をテーブルに並べる。
「お父さん、パン屋行ってたん?」
光男が不思議そうに尋ねる。
「パン屋か……うーん、どやろなあ、パン屋って言ってええんかどうか。佇まいは和食の店やったんやけど、和食やなくてカレーパンとサンドイッチ食べたし……今思えば、不思議な店やったなあ」
光史は、狐につままれたような昨夜の情景を思い返し、今更ながらに摩訶不思議食堂の不可思議さに堪えきれず笑いだした。
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##クリームパンに刻まれた誓い
光史がテーブルに並べた「良いクリームパン」の表面には、粉糖や焼き印のようなもので、それぞれに文字が記されていた。
そこには「愛語」「言辞施」「口業」という3つの言葉が、丁寧に刻まれている。
「なんやこれ、文字が書いてあるで?」
光男が不思議そうにパンを指差し、身を乗り出した。
「ほんまやな。愛語と言辞施は店で教えてもろたからわかるけど、『口業』は、なんやろ? くちごう?」
光史は首をかしげながらも、その不思議なパンを愛おしそうに見つめた。
「でも、これもきっと仏さまの教えなんやろうな」
光史は目を細め、昨夜の店主たちの穏やかな顔を思い出した。
「どういう事?」
妻と光男が同時に尋ねると、光史は意を決したように深く息を吸い込んだ。
光史はパンに書かれた文字について、摩訶不思議食堂で教わった「和顔愛語」や「言辞施」の教えを、一言一言噛み締めるように伝えていく。
そして同時に、自分が中学時代の先輩である岸本先生に対して、どれほど残酷で醜い言葉を投げつけ続けてきたかという過去を、包み隠さず正直に話し始めた。
「岸本先輩……岸本先生は、ほんまに光男の事を思うてくれてたんや。まとわりついた言葉が観えるから、俺が光男にピアノを弾いてることを笑いものにしたり、馬鹿にしたりしてるんやないかって、本気で心配してくれてはるんや」
光史は、震える拳を膝の上で握りしめた。
「そやから、岸本先生は教室の生徒達が言うてはる通り、意地悪で光男にあんな事言うたんやない。本気で親子仲をピアノが引き裂いてしまう事……いや、違うな。俺が親子仲を引き裂いてしまわへんか、気にかけてくれてはったんや」
光史の脳裏には、30年前の自分の嘲笑と、それを受け流していた岸本先生の寂しげな背中が、1本の線となって繋がっていった。
「ごめんなあ、光男。お父さんがしでかしたことが、光男まで巻き込んでしもたんや。昔の事やから、なんていう言い訳は通用せえへん。一度吐いた言葉は絶対に取り消せへんし、廻り巡って誰かを傷つける事があるんやって、お父さんは思い知ったよ」
光史は、息子に対して深く、深く頭を下げた。
「良かった、俺は岸本先生に嫌われてたわけやないんやね」
光男は重苦しい呪縛から解き放たれたように、パッと表情を明るくし、心の底からホッとした吐息を漏らした。
「そうや。ほんまに、ごめんなあ、光男。お父さん、ちゃんと岸本先生にけじめつけに行くさかい、もう心配いらんから」
光史は涙を堪えながら、頼もしい父親の顔で、光男に向かって優しく微笑んだ。
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翌日の月曜日、光史は仕事を終えてから音楽教室に電話を入れた。
翌日は音楽教室で岸本先生がピアノコースを教える日であり、終わった後で会いたいと打診するためだった。
岸本先生は会う事を約束してくれて、音楽教室の近くにある綺麗な喫茶店で待ち合わせる事になった。
仕事を終えた光史が夜の喫茶店に到着すると、既に岸本先生がカウンター席に座って待ってくれていた。
「こんばんは」
光史に気づくと、岸本先生は立ち上がってお辞儀をした。
「こんばんは」
光史もお辞儀をして挨拶を返した。
そして光史は、その場ですぐに深く頭を下げた。
「中学時代、陸上部時代に大変失礼なことを繰り返してしまい、誠に申し訳ありませんでした」
岸本先生は少し意外そうな顔をした。
「失礼な事……まあ、時々やんちゃしたり、練習中にふざけたりはしてましたね。真面目に練習しなかった事があったのは、水流君だけやなかったけど」
「いえ。俺は、ピアノの事について、本当に最低な事をしました。今はこうして、音楽を教えるまでになられた先輩に対して、失礼過ぎる過ちを犯しました。本当に申し訳ありませんでした」
光史は重く響く声で謝罪し、もう一度深く頭を下げた。
そしてしばらくの沈黙の後、光史は顔を上げた。
「……岸本先輩……いや、岸本先生。まだ、当時の罵詈雑言、先輩への失礼な言動は、俺の体にまとわりついていますか?」
岸本先生は少し目を見開いてから、やがて眼を少し細めた。
先生の視線は、光史の肩や背後の空気を優しくなぞるように動いた。
「……少し、薄くなった気がします」
岸本先生は穏やかに微笑んで、そう言った。
「昨日、もしかしたら岸本先生は、こういうのが『観える人』なんかもしれんって、夕飯を食べに行った店で、そういう事に詳しい人達に教えてもろたんです。やっぱり、『観える人』なんですね」
「ええ。『観える人』ですか……よう、わからはりましたね、特に口外するような事でもないから、誰にも言うたこと無かったんですがね。いやはや、凄い人達がいはるもんですなあ。私も今度、そのお店に行ってみたいものです」
岸本先生は感心したように、温かみのある声で微笑んだ。
「凄い人達、か。まあ、人かどうかわからんけど。店長がお地蔵さんやったし」
光史はそう言って、ようやく本当の意味で過去の呪縛から解き放たれたように、晴れやかな顔で笑った。
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##受け取られなかった言葉と三業の教え
光史は謝罪した後、岸本先生と並んでカウンター席に座り、運ばれてきた珈琲を1口飲む。
「俺はもう、男性がピアノを弾いている事は変やと思わへんし、馬鹿にしたりしません。約束します」
光史は、隣に座るかつての先輩に真っ直ぐな視線を向けた。
「そのようですね。その『言霊』が、薄くなっていってます」
岸本先生は穏やかな声で、光史の肩あたりを見つめながら答えた。
「やっぱり、完全に消えることはありませんか」
光史が不安げに問いかける。
「ええ。業そのものは消えませんからね。ただ、しっかりと薄まって、目を凝らさないと観えないレベルにはなっていくでしょう」
岸本先生は優しく微笑み、珈琲の香りをゆったりと楽しんだ。
「そうですか。口の業ってやつですかね。「くちごう」って読むんかな」
光史が呟くと、岸本先生は静かに首を振った。
「『くごう』ですね、口の業と書いて『口業』です」
岸本先生は教え子を導く教師のような口調で言葉を続けた。
「語業、語る業と書いて『語業』とも呼ばれて、身と意、体と心を合わせて、『三業』といいます。仏教の話ですが」
「仏教……俺も、その店で仏教を教えて貰ったんです。確か、愛語やったかな」
光史が言うと、岸本先生は少し驚いたように眉を上げた。
「愛語。和顔愛語ですか、無量寿経にある言葉ですね」
「知ってはるんですか?」
光史の驚きの問いに、岸本先生は懐かしむように目を細めた。
「ええ。小学生の時、祖父が亡くなった時に、お坊さんと仲良くさせてもろてから、仏教の話を真剣に聞くようになって、仏教の大学に行って、座禅会や念仏会に行くようになって、いつの間にか覚えました」
光史はその話を聞いて、鳥肌が立つのを感じた。
岸本先生は、ただの「気が弱くて喧嘩が苦手な人」ではなかった。
子供の頃から仏の教えに触れ、中学生の頃には既に、他人の悪意を「贈り物」として受け取らない精神の強さと仏教の智慧を、その身に備えていたのだ。
そのような経緯があって、自分がどれほど醜い言葉を投げつけようとも、この人はただ静かに、その「贈り物」を返品し続けていた。
光史は、岸本先生の底知れない精神の深さと、自らの浅はかさを改めて噛み締めた。
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##賢者の沈黙と真の強さ
「仏教を知ってたから、俺や、他の後輩達からも馬鹿にされても、一切受け取らずに受け流す……突き返す方法を知ってはったんですか?」
光史はカウンターに並ぶ岸本先生の横顔を、探るようにじっと見つめた。
「確かに、それはありますね。そして、受け取らない事で、その瞬間に相手の体に言霊が張り付いて行くのが見えたというのも、大きかったでしょう。霊障とでも言いましょうか、そういうのが『観える』と言うのも大きかったと思います」
岸本先生は穏やかな笑みを絶やさず、静かに肯定した。
「それに、御法話にもちょくちょく行って、お坊さんから仏教の逸話や説法も沢山聞いてましたからね。それが、ある種の処世術や、立ち振る舞いであったり、在り方、苦のやり過ごし方となったんでしょう。仏縁の御蔭様です」
先生はそう言うと、感謝を込めるように胸の前で恭しく合掌した。
「そうやったんや……受け取らないから、発した本人に返っていく……」
光史は力なく呟き、昨夜自分の体にびっしりと張り付いていた光る文字の、鉛のような重みを思い出した。
あの時、岸本先生は怒りに震えるどころか、自分たちにまとわりつく醜い業の塊を、ただ哀れみの目で眺めていたのだ。
「悪口を受け取らないと本人に返されるという話をしはる事から察するに、仏陀に悪口をぶつける男の話を、その店で聞かはったんですかね。」
岸本先生は楽しそうに、ふふっと少しだけ声を立てて笑った。
「お察しの通りです。そっか、俺は岸本先生には最初から敵わへんかったんや……。言い返さへんのは弱いからやなくて、最初から相手にしてなかった。弱者なんじゃない、賢い人やったから、俺の土台に乗って同じレベルに落ちて来なかったってことか。弱者で愚かもんは俺のほうやったんや……」
光史は自嘲気味に、力なく苦笑いした。
摩訶不思議食堂で地蔵店長が「まさに、賢者の在り方を体現されていましたねえ」と、しみじみ語っていた事の真意を、光史はようやく心の底から理解した。
自分は最初から、戦う土俵にすら立たせてもらえていなかった。
目の前の自分より弱そうに見える人物だと信じて、その人物に対して振り回していた言葉の刃は、鋼鉄のような慈悲の心に弾き返され、最初から自分の喉元に突き刺さっていたのだ。
光史は、自分のこれまでの傲慢さが音を立てて崩れ去るのを感じた。
目の前に座る「賢者」のあまりにも大きな器に、ただただ圧倒されるしかなかった。
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「恐れ入りました。当時から器が違い過ぎたんや」
光史は完敗を認めるように、深々と頭を下げた。
「そんな大層なもんやありませんよ。私かて、まだまだ修行中の身です。事実、水流君の変化、あの頃からどう変わっていったかを知らなかったわけで、変化に対する想像力が欠如してたから、光男君にピアノを辞めることをすすめてしまいました。親子ならば、親子の絆があれば乗り越えられる事だってあるという部分を失念してましたね、申し訳ない」
岸本先生はそう言うと、自分にも至らぬ点があったと認め、恭しくお辞儀をした。
「いえ、まだピアノを弾く男性に対する差別意識があったのは事実です。実際、光男がピアノやりたいって言った時に、そんな言葉を言うてしもてましたから」
光史は自嘲気味に、しかし誠実に自らの心の闇を吐露した。
「愛語、口業、しっかりと仏さまの教えを胸に、今度は和顔を持って愛語を発していく人間になっていくと約束します」
光史が真っ直ぐな瞳で力強く宣言すると。
「私も、改めて仏の教えを学びました。私も言葉の過ちを犯さぬよう、精進していきます」
岸本先生は慈愛に満ちた表情で微笑み、光史の決意を受け入れるように頷いた。
光史は改めて光男のピアノを見て欲しい、光男にピアノを教えて欲しいと心からお願いした。
岸本先生は「手続きを取りますね」と快諾してくれ、2人は互いの歩んできた道を認め合うように、固く握手を交わして別れた。
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チリン、と喫茶店の重厚な扉を押し開けると、夜の冷気が火照った顔を優しく包み込む。
コツ、コツ、とアスファルトを叩く自分の足音を聴きながら、光史は静かな家路を急ぐ。
帰り道を歩きながら、光史の胸には新たな気づきが去来していた。
「自分の愚かな行いが、自分自身だけに返るだけやのうて、場合によっては自分の大切な人にまで及ぶんか……」
街灯の下で、光史はぽつりと独り言ちた。
かつて無責任に放った「悪口」が、30年という時を超えて、最愛の息子の夢を閉ざそうとしていた事実。
それは自分の体に刻まれていた文字よりも、ずっと重く、残酷な真実として胸に突き刺さった。
「もう、あんな過ちを犯したらあかん。40超えても、まだまだ修行なんやな」
光史は自分に言い聞かせるように呟き、温かな明かりが灯る我が家へと、一歩ずつ力強く歩んでいく。
こうして、言葉の刃に気づき、「愛語」の尊さを知った光史の長い一日は、静かに幕を閉じた。




