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キャンバススタンド越しの月

私の描いた絵は、いまも月面に飾られている。

 風のない場所で、色彩は砂に沈み、線だけがひとりで震えている。


 私は長く、その絵を誇りに思っていた。

 けれどいまでは、それが誰もが共感できるよう整えられた暴力だったと分かる。


 あれは理解されるための絵だった。

 見た瞬間に意味が分かること、それがどれほど冷たいことかを、私は知らなかった。


 あの頃、妖怪たちは争っていた。

 争うことが生きることだった。

 言葉をぶつけ合い、怒りと悲しみを混ぜ、互いの存在を、感情の強度で測っていた。


 だが、争いはやがて祝祭に変わった。

 見せるための怒り、聞かせるための沈黙、泣くための舞台。


 誰もが、見られることに夢中になっていった。

 泣けば拍手が起こり、怒れば称賛が集まり、沈黙すら演出として評価された。


 争いは、感情の市場になった。

 彼らは互いに怒りを売り、悲しみを買った。

 その循環のなかで、本物の声は薄くなり、残ったのは感じているふりだけだった。


 私はその光景を、絵にした。


 筆を動かすたび、妖怪たちの影が整えられていった。

 彼らの歪みを、構図として均した。

 涙の角度を決め、怒りの線を整え、美しい争いを描いた。


 それは、暴力を分かりやすくするための暴力。


 絵は、すべてを整理してしまう。

 絵は、語らせてしまう。

 語ることは、沈黙を奪う。

 私は、彼らの沈黙を剥ぎ取ってしまった。



 月の砂は光をよく吸う。

 描かれた線は、時間とともに沈んでいく。

 けれど、沈んでも消えない線がある。

 それは、私が彼らを理解したふりをした線。


 私はその線の上を歩く。

 そこには、言い争いの残響が散っている。

 怒号の跡も、哀しみの粒も、みんな平らにされ、光の下で均等に照らされていた。


 この世界では、怒りも悲しみも正しく照らされる。

 だから、誰も影を持てない。


 ある夜、一体の妖が私の前に現れた。

 彼の顔は、何層もの絵の具で覆われていて、どこまでが皮膚で、どこからが描写なのか分からなかった。


「お前の描いた絵の中で、私たちはもう喋れなくなった」


 彼はそう言って、胸のあたりを指で叩いた。

 乾いた音がした。


「お前の描くわかりやすさは、私たちの心臓を抜き取って、その穴に意味を詰め込んだ」


 私は何も言えなかった。

 なぜなら、その言葉すら、すでに絵の構図として私の頭に浮かんでしまっていたからだ。


 私は筆を持ち、もう一度描こうとした。

 だが、線は震え、色はすぐに乾いてしまった。

 感情が、もう紙の上で息をしていなかった。


 それでも私は描いた。

 描くことでしか、この沈黙に触れることができなかったから。


 だが、描くたびに、妖たちは薄くなった。

 筆の動きに合わせて、彼らの形は砂へと戻っていく。


 最初は一人

 次に十人

 そして百人


 やがて誰もいなくなった。

 残ったのは、私の絵だけだった。



 月面は、完全なキャンバスになった。

 風も声もない。

 ただ、無数の線が地平まで続いている。

 そこには、私がかつて描いた理解の軌跡が並んでいた。


 それらはもはや風景ではなく、過去の模倣の集積だった。

 怒りの模倣、哀しみの模倣、祈りの模倣。

 私は、模倣を真実と呼んでいた。


 絵は、真実のふりをするのが得意だ。

 だが、真実は絵の外で静かに死んでいく。


 私は月の上を呆然と立ち尽くしていた。


 月の地面は冷たく、指先で触れると、粉が舞い上がる。

 それは、かつて私が描いた妖怪たちの、砕けた欠片だった。


 私は、砂の上に指で円を描いた。

 その中心に、小さな影が残っていた。

 沈黙の中で息をしている震え。


 私はそれを守るように、月の砂をかぶせた。

 もう、誰にも見せないように。



 月は今日も静かだ。

 絵たちは光に焼かれ、私の影も薄くなっていく。



 ——私は、描くことで沈黙を殺していた。

 理解することで、世界を固定していた。

 そして固定された世界は、いつのまにか、私をも描きはじめた。



 私の描いた絵は、世界ではなかった。

 世界が、私の絵を模倣し終わっていったのだ。


 遠く、影のように青いものが滲んでいた。

 薄い膜の向こうで、静かに回る球。


 その輪郭が、定めの色に染まりはじめている。

 赤でも黒でもない、

 ただ、息のように消えていく光の色。


 私は立ち上がり、掌を見た。

 かつて絵を描くために使った筆はもうなく、指先だけが残っていた。


 それで十分だった。


 血がゆっくりと滲む。

 一滴ごとに、音のない世界が震えた。

 私はその血を掬い、目の前の光へ伸ばした。



 指先で、その球を塗りつぶす。


 赤く


 濃く


 何度も何度も。


 青は滲み、境界が消え、世界と絵が溶け合っていく。


 もう何も聞こえない。

 もう何も描かない。


 ただ、塗りつぶされていく。

 風のない空で、微かな赤い輪が灯る。

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