故郷のない切符
太陽は、もう昇っているのか沈んでいるのか分からなかった。
光が増えるたびに、影が薄くなり、影が薄くなるたびに、妖たちはまた新しい掟を作った。
掟を作るのは、生きている証だと思っていた。
「泣くことを禁ずる掟を作ろう。
悲しみが伝染すると、皆が不安になる」
「じゃあ、笑うことも禁止だな。
笑いすぎると、誰かが孤独を思い出す」
そうして掟は、風に似た速さで増えていった。
一枚の紙が落ちる音よりも静かに、月の砂に掟の文字が溶けていく。
妖たちは、もう口で語ることをやめた。
代わりに、感情を指で示すようになった。
指が震えれば怒り、掌を広げれば共感、肩をすくめれば、沈黙の合図だった。
声がなくても伝わるようになった世界は、奇妙に滑らかだった。
感情が言葉を必要としないぶん、言葉が意味を失っていった。
私はその光景を見ていた。
どれだけ掟を積んでも、誰も安心していない。
むしろ、安心のかたちを真似る技術だけが洗練されていく。
掟は、もはや行動を律するものではない。
妖たちは互いに感じ方を規定し合い、悲しむべき時と怒るべき対象を共有した。
それを逸脱する者は、理由もなく冷たい目を向けられた。
感情が掟になったのだ。
権力とは、上から命令するものではなく、下から同意されるものの形をとるものだ。
命じる声が消え、命じられる側が互いの感情を正しさとして撫で合う。
その温度の中で、誰もが少しずつ溶けていく。
掟を守ることが、もう目的ではなかった。
掟を感じること。
掟に共感すること。
そこに居る誰もが、掟の中で泣きたかった。
昼と夜の境界が消え、月の上には常に淡い光が満ちていた。
太陽は、すべてを同じ温度にする。
誰もが正しさに焼かれながら、その光を希望と呼んだ。
だが、希望はひどく均質だ。
悲しみの粒子を含まない光は、透明すぎて、形を留められない。
妖たちは、互いの正義を模倣し始めた。
最初に正しい涙を見せた者が、次の者の模範となる。
模範が増えるたびに、涙の形が同じになり、やがて誰も、なぜ泣いているのか分からなくなった。
私は、彼らの行進を見ていた。
皆が光の列を成し、同じ方向に向かって歩く。
彼らの顔は似ていた。
微笑んでいるのか苦しんでいるのか判別できないほどに。
ここにいることを示すために、彼らは同じ印を胸に刻んでいた。
それは月の印でも、神の印でもない。
ただの合意の印。
誰かと同じ印をつけることが、唯一の自由だった。
ひとりの幼き見た目の妖が私のそばに来て言った。
「ねえ、あなたのここは、どこ?」
私は答えられなかった。
ここ、という言葉は、もう二つの場所を指していた。
私のここと彼のここが、違う地平にあることを、もう誰も説明できなかった。
いまという言葉もまた、光に溶けた。
いまを持たない彼らは、過去のいまを繰り返し演じた。
まるで、存在の稽古をしているかのように。
光が増えるにつれて、掟を書く者の姿が消えた。
掟はもう自動的に現れる。
書かれる前から、皆の感情がそれを予期していた。
掟は思考のあとに生まれるのではなく、感情の先に漂っていた。
怒りが形をとり、同情が印章となり、それが重なるたびに、誰かが光からはじき出されていった。
妖たちは、そのはじかれた者を見て、安堵のため息を漏らす。
あの者がいなくなったおかげで、私たちはまだ正しいと感じられると。
私は見ていて、胸の奥が軋んだ。
かつて掟と呼ばれたものは、いまや感情の装置になっていた。
それは法でも制度でもない。
むしろ、愛のかたちをした命令だった。
「怒ることを忘れるな」
「哀れみを持て」
「喜びを分かち合え」
そうした優しい命令が、静かに世界を支配していく。
順応する者も、逆らう者も、どちらも掟に似ていた。
従うことも反抗することも、同じ模倣の裏表だった。
独創性のない秩序と、独創性のない反逆。
そのどちらにも、もう熱がなかった。
昼と夜のあわいに、ひとりの妖が声をあげた。
「掟が増えるたびに、世界が軽くなる気がする」
「それは良いことじゃないのか?」
「いや、軽くなりすぎて、足が地に着かなくなってるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私は奇妙な既視感に襲われた。
昔、地球で読んだ詩人の言葉を思い出す。
「私たちの考えの真の一貫性は、それを生み出す精神の衝動にある」
ここには衝動がない。
ただ、冷めた模倣と、熱を持たない善意だけが残っている。
「自由ってのは、もう俺たちのものじゃないな」
「なぜ?」
「空が全部、掟のものになったからさ。
風も、声も、俺たちが使う前に掟が先に持っていっちまう」
彼は笑っていたが、その影は、太陽の下でどんどん薄くなっていた。
私はまた砂の上に座った。
あの笛の欠片は、もう見つからない。
月は静かで、音の記憶さえ乾いている。
妖たちはまだ掟を書き続けている。
新しい感情の色、新しい正義の温度、新しい怒りの対象を決めるたび、世界が少しずつ軽くなる。
やがて、月の重力では彼らを留めておけなくなった。
妖たちは光とともに浮かび上がり、掟を抱いたまま空へ昇っていった。
その光はまぶしく、そして、何も温めなかった。
私はひとり残された。
彼らが消えたあとに残ったものは、音でも影でもない、ただ感情の跡だった。
それは風にも消せない匂いのように、月の空に滲みつづけていた。
ここでは、もう誰も悪くない。
善も、悪も、等しく優しい。
だからこそ、誰も生きていない。
掟が増えるほど、世界は正しくなり、正しくなるほど、存在は透明になる。
私は、彼らの去った光を見上げた。
その光の中心に、自分の輪郭が溶けていくのを感じた。
そして、気づく。
──私もまた、掟の一部だったのだ。




